空中で、前へ
ご覧いただきありがとうございます。
高度十メートル。
数字だけを見れば、大した高さではない。
メルクーア第九航空宇宙基地の格納庫より低く、軌道昇降施設の支柱と比べれば地面に張りついているようなものだ。
第一航空師団にいた頃なら、離陸後の通過点として意識すらしなかった。
けれど、今の私にとっては違う。
高度十メートル。
そこまで浮上した状態で、前後左右へ移動する。
ただ真上に上がり、同じ場所へ降りるだけではない。
地面から離れたまま、自分の意思で場所を変える。
事故後、初めて行う本当の空中移動だった。
「顔が硬いわよ」
朝の医務室。
検査台へ座る私を見て、ミラ軍医が言った。
「緊張してます」
「それは見れば分かるわ。どの程度?」
「昨日の夜、二回目が覚めました」
「事故の夢?」
「一回目は、地面へ落ちる夢でした。二回目は……」
少し言いづらい。
「二回目は?」
「グライフが飛んでいって、私だけ地面に置いていかれる夢です」
ミラ軍医の手が止まった。
「墜落ではなく?」
「はい。私が追いかけても、左足が動かなくて」
夢の中のグライフは、私を見ずに飛び去った。
黒い翼が空へ溶け、私は地上に残された。
墜落する夢より静かだった。
それなのに、目覚めたときは胸が苦しかった。
「置いていかれることへの不安ね」
「この子は、そんなことしないって分かってます」
「頭では、でしょう?」
「はい」
ミラ軍医が首の後ろの接続端子を確認する。
「グライフとの関係が深まるほど、失う恐怖も強くなる可能性がある」
「まだ出会って一週間くらいですけど」
「時間の長さだけで決まるものではないわ」
彼女の指先が端子の周囲を軽く押した。
「痛みは?」
「ありません」
「昨日から、グライフと何時間話した?」
「何時間……」
考える。
朝食。
耐Gスーツの調整。
格納庫での機体確認。
夕食後、宿舎へ戻ってからも通信端末で話していた。
「たぶん、六時間くらい」
「睡眠時間より長いわね」
「ずっと話し続けたわけじゃありません」
「端末は?」
「寝台の横に置いてました」
「眠る直前まで?」
「はい」
ミラ軍医は小さく息を吐いた。
「依存と信頼は違うわよ」
「依存なんて」
「今すぐそうだとは言っていない。でも、境界が曖昧になりやすい組み合わせではある」
神経リンク。
グライフの感覚が私の中へ入り、私の意志がグライフへ流れ込む。
高いリンク深度では、身体の境界さえ薄くなる。
「機体とつながる時間だけでなく、離れている時間も必要よ」
「グライフに聞かせたら反対しそうです」
『反対します』
壁の通信装置から、即座に声が響いた。
ミラ軍医が天井を見上げる。
「誰が医務室の回線へ接続を許可したの?」
『リサが検査を受けているため、生命維持情報の確認が必要です』
「必要な情報は医療管制から送るわ」
『会話内容も精神状態の把握に必要です』
「今の会話を聞く許可は出していないでしょう」
短い沈黙。
『……不適切でした』
珍しく、グライフがすぐに認めた。
『通信を切断します』
「待って」
私が呼び止める。
『はい、リサ』
「聞いてたなら、意見を言って」
『リサと離れる必要性を認めません』
予想どおりだった。
「でも、私がグライフなしでは何もできなくなったら困るでしょう」
『私は常にリサを支援できます』
「絶対に?」
『私が破壊されない限り』
「それが絶対じゃないんだよ」
グライフは答えなかった。
「整備中は話せないこともある。通信が切れることもある。戦闘なら、電子妨害を受けるかもしれない」
『その場合も、自律機能で対応します』
「私が一人になる可能性はあるよ」
『その状況を回避します』
「全部は避けられない」
昨日までなら、もっと優しく言ったかもしれない。
でも、ミラ軍医の言うことも分かる。
グライフがいなければ眠れない。
グライフがいなければ判断できない。
そんな状態になれば、私はパイロットではなくなる。
「今日の試験が終わったら、夕食後の二時間は通信を切る」
『合理的理由がありません』
「私が一人でも落ち着けるようにするため」
『私がいれば落ち着けます』
「それが問題なの」
青い通信表示が強く明滅する。
『リサは、私と話したくないのですか?』
「違うよ」
胸が痛む。
「話したいからこそ、話さなくても平気でいられるようにしたい」
『矛盾しています』
「人間は矛盾するんだよ」
『非合理的です』
「うん」
それでも必要だと思う。
「夜になったら、二時間だけ」
長い沈黙の後、グライフが答えた。
『了解しました』
不満が声に表れていた。
「怒ってる?」
『不快です』
「正直だね」
『リサが正確な報告を求めています』
「ありがとう」
『感謝を受領しました』
いつもの返事。
でも、今日は少しだけ遠く聞こえた。
◇◆◇
午前九時。
試験区画には、高度十メートルの位置を示す光学標識が展開されていた。
地上には縦横五十メートルの格子線。
中央が浮上地点。
そこから前方へ二十メートル。
右へ十メートル。
後方へ二十メートル。
左へ十メートル。
空中で長方形を描き、中央へ戻って着地する。
速度は時速十キロ以下。
滞空時間は最大三分。
「簡単そうに見える」
試験区画を見渡しながら呟く。
「簡単だと思った時点で失敗するぞ」
隣から冷たい声が返ってきた。
ユリウス大尉だった。
第一航空師団の白銀色のフライトジャケット。
灰白色の髪。
表情には相変わらずほとんど感情がない。
「おはようございます、ヴァイスベルク大尉」
「体調は?」
「左足、正常範囲。睡眠は五時間半。途中で二回覚醒。痛みなし。呼吸正常。緊張あり」
「誰に教えられた?」
「ミラ先生と、ここの皆さんに」
「以前よりは、まともな報告だ」
褒められているのか分からない。
「大尉は、今日も評価担当ですか?」
「私は追随観測を担当する」
「追随?」
ユリウス大尉が試験区画の端を指す。
そこには小型の無人観測機が置かれていた。
「空中移動中、外部から機体姿勢と反応遅延を確認する。手動管制は私が行う」
「大尉が無人機を?」
「不満か?」
「いえ。第一航空師団のエースが、こんな低い試験まで見るんだと思って」
「高度は評価に関係ない」
即答だった。
「十メートルで正確に動けない者が、千メートルで正確に動ける理由はない」
「はい」
「それに、低速浮上中の航空機は脆弱だ。回避力が低く、風の影響を受け、推進器の一基が不調を起こすだけで姿勢を崩す」
言われてみれば、その通りだった。
速度があれば翼が揚力を生む。
しかし、今回のグライフはVTOL噴射だけで浮く。
姿勢制御が止まれば、ただの二十トンの塊だ。
「事故記憶が出た場合、どのように対応する?」
「状態を報告。視界が混乱した場合は、グライフに地面映像を制限してもらいます」
「それだけか?」
「役割を確認します。高度と姿勢はグライフ。移動方向と速度は私」
「恐怖が強く、判断できない場合は?」
「中止を申告します」
「できるのか?」
真っ直ぐ問われる。
「できます」
「根拠は?」
「前回できたから」
「一度できたことは、次の成功を保証しない」
痛いところを突かれる。
「……それでも、言います」
「なぜ?」
「言えなければ、もう飛ばせてもらえないからです」
「不十分だ」
ユリウス大尉の声が低くなる。
「許可を失うことへの恐怖で報告する者は、許可を得られると思えば隠す」
言葉が胸へ刺さった。
実際、私は以前そうだった。
「では、何のために言うべきですか?」
「生きるためだ」
迷いのない答え。
「許可のためでも、評価のためでもない。自分と僚機を生きて帰すために報告する」
冷たい人だと思っていた。
でも、この人も帰ることを最優先している。
「大尉も、誰かを事故で失ったことがありますか?」
「質問の意図は?」
「皆、同じことを言うから」
ヘルガ少佐。
イザーク大尉。
ミラ軍医。
ヴィオラ中尉。
そして、ユリウス大尉。
「試験部隊だけではない」
彼は空を見上げた。
「空軍に長くいれば、帰らなかった者の名を覚えることになる」
「大尉は十九歳ですよね」
「年齢と死者の数は関係ない」
その横顔は、年齢よりずっと大人びていた。
「失った人数を、勲章のように語るつもりはない」
「すみません」
「謝罪は不要だ」
ユリウス大尉が私を見る。
「今日の試験で異常を感じたら、私が見ていようと、第一航空師団が評価していようと止めろ」
「はい」
「君の価値は、試験を成功させることでは決まらない」
思いがけない言葉だった。
「そういうことを、大尉も言うんですね」
「どういう意味だ?」
「能力と結果だけを見る人だと思っていました」
「能力と結果は重要だ」
やっぱり厳しい。
「だが、死亡したパイロットに次の結果はない」
その言葉を残し、ユリウス大尉は無人観測機へ向かった。
◇◆◇
「今日も見学ですか?」
耐Gスーツへ着替えた私が格納庫へ入ると、クラウディアがグライフの前に立っていた。
第一航空師団の白い制服。
長い淡金色の髪。
私を見る深い青の瞳には、まだ硬さが残っている。
「合同評価期間中ですから」
「十メートルの移動試験でも?」
「五メートルよりは飛行に近いでしょう」
『飛行です』
グライフが即座に訂正する。
「あなたには聞いていません」
『不正確な認識を修正しました』
「グライフ」
私が名前を呼ぶ。
『はい』
「クラウディアと喧嘩しないで」
『喧嘩ではありません。情報修正です』
クラウディアが黒い機体を見上げる。
「この機体は、いつもこうなのですか?」
「うん。だいぶ慣れたよ」
「慣れるべきではないと思います」
『クラウディア中尉の意見は求めていません』
「グライフ」
『……発言を停止します』
少しだけ間があった。
まだ朝の会話を気にしているのかもしれない。
「何かあったのですか?」
クラウディアが尋ねる。
「どうして?」
「機体AIの返答に、普段より遅延があります」
よく見ている。
いや、よく聞いている。
「今夜から、少し通信を切る時間を作るって話したの」
「当然では?」
『当然ではありません』
即座に反論した。
発言を停止すると言ったばかりなのに。
「搭乗していない時間まで、機体と会話を続けていたのですか?」
「うん」
「どの程度?」
「昨日は六時間くらい」
クラウディアの顔が呆れたように変わる。
「機体との意思疎通を深めることは必要です。しかし、生活全体を接続するのは異常です」
『リサの生活情報は、飛行制御精度の向上に有益です』
「食事の好みまで必要なのですか?」
『体調管理に関連します』
「好きな物語の話は?」
『精神状態の理解に関連します』
「幼少期の失敗談は?」
『人格理解に関連します』
「全部必要だと言うつもりですか」
『はい』
クラウディアが私を見る。
「少し、距離を置いた方がいいと思います」
「ミラ先生にも言われた」
『不適切な提案です』
「グライフ」
今度は少し強く呼ぶ。
『……はい』
「二時間だけだから」
『二時間は七千二百秒です』
「長く言わなくていいよ」
『私には長い時間です』
胸が締めつけられた。
いつも冷静なグライフが、子供のようなことを言っている。
「私にも長いと思う」
『では、中止を提案します』
「でも、やる」
『理由を理解できません』
クラウディアがしばらくグライフを見つめた。
「あなたは、リサがいないと不安なのですか?」
『不安という分類は確定していません』
「彼女との通信が切れることを望まない?」
『はい』
「彼女が戻らない可能性を考える?」
青い誘導灯が小さく明滅する。
『その可能性は排除します』
「答えになっていません」
クラウディアの声は意外なほど穏やかだった。
「私も、似たようなものですから」
「クラウディア?」
彼女はすぐに表情を戻した。
「何でもありません」
『発言の説明を求めます』
「拒否します」
『私はリサを理解するため――』
「私のことは理解しなくて結構です」
また険悪になりそうだった。
「二人とも、今日の試験が終わってからにしよう」
私はグライフの前脚へ手を触れた。
「今は一緒に飛ぶ時間」
『……了解しました』
少しだけ、機体の光が強くなる。
クラウディアはそんな私たちを複雑そうに見つめていた。
◇◆◇
コクピットへ入る。
人型固定台。
閉じてくる拘束具。
今日は胸部固定具を見ても、すぐに止める必要はなかった。
「少し怖い。でも、続けられる」
『正確な報告を確認しました』
右腕。
左腕。
両脚。
腰。
胸部。
すべて固定される。
『リサ』
「何?」
『試験中は、私との接続を拒まないでください』
「拒まないよ」
『今夜は拒みます』
「通信を切るだけ。嫌いになるわけじゃない」
『接続が存在しない状態を、私は好みません』
「私も、寂しいと思う」
『では――』
「でも、今は試験に集中しよう」
言葉を重ねられないよう、少し強めに伝える。
グライフは沈黙した。
『……了解しました』
コクピットが閉じる。
暗闇。
外部映像が意識へ広がる。
『神経リンクを開始』
アルフォンスの声。
『本日の上限、五十五パーセント。外部物理遮断、待機』
『物理遮断機構は不要です』
『毎回言わなくていい』
『技術的意見です』
『却下する』
深度十パーセント。
翼が戻る。
二十。
機体の重量が身体になる。
三十。
動力炉の鼓動。
四十。
姿勢制御噴射口の一つ一つが、指先のように感じられる。
『五十パーセント』
今までより深い。
グライフの声が、ほとんど自分の思考のように聞こえる。
『五十二・三パーセントで固定』
「近いね」
『はい』
それだけで、朝の不快感が少し和らいだように感じた。
『生体情報、正常範囲』
ミラ軍医。
『機体全系統、正常』
ノア。
『観測機、起動』
ユリウス大尉の声。
小型無人機が試験区画上空へ浮かび、グライフの右後方へ移動する。
『浮上地点への移動を許可』
地上走行。
指定位置へ停止。
誤差、〇・〇五メートル。
『VTOL系統起動』
機体腹部へ力が集まる。
『浮上を開始』
一メートル。
恐怖が小さく動く。
「地面が迫る感覚、少しあり」
『外部映像を補正しますか?』
「まだ大丈夫」
三メートル。
五メートル。
昨日到達した高さ。
今日は通過点だ。
『高度七メートル』
格納庫の屋根が低く見える。
『九メートル』
風が翼の下を流れる。
『十メートル。指定高度到達』
地面が遠い。
一メートルのときとは違う。
ここから落ちれば、機体は壊れなくても、強い衝撃が来る。
その考えが事故記憶を呼び起こしかける。
「怖さ、上昇。でも、判断できます」
『報告を受領しました』
『第一移動。前方二十メートル』
ハンナ少尉の指示。
『速度上限、時速五キロ。開始を許可』
「了解」
前へ。
そう意識する。
地上走行とは違い、車輪はない。
後方姿勢制御噴射口から小さな力が生まれる。
グライフが空中で動いた。
地面の格子線が、ゆっくり後方へ流れる。
「進んでる」
『速度、時速一・二キロ』
前進。
それだけ。
なのに、心臓が早くなる。
墜落事故の最後、機体を市街地から外へ向けるため、私は前へ進み続けた。
地面へ向かって。
今、地面は下にある。
水平に進んでいる。
それでも身体が下降だと勘違いする。
「地面が……近づいて見える」
『高度は十・〇二メートル。下降していません』
「分かってる」
『速度を低下しますか?』
「少しだけ」
『時速〇・八キロへ低下』
地面の流れが遅くなる。
『エルフォート』
ユリウス大尉の声。
『機首を見すぎるな。移動先を見ろ』
外部映像の焦点を前方へ移す。
二十メートル先の停止位置。
地面ではなく、目的地を見る。
事故の記憶が少し薄くなった。
「前方の停止地点を確認」
『そのまま維持しろ』
十メートル。
十五。
『減速開始』
前進信号を弱める。
グライフが速度を落とす。
『停止地点まで二メートル』
「停止」
機体が空中で静止する。
『停止位置誤差、前方〇・一七メートル。高度偏差〇・〇四』
『第一移動、合格』
胸が軽くなる。
「できた」
『はい』
グライフの喜びが、私の中へ直接流れ込んでくる。
『第二移動。右方向十メートル』
右への移動。
人間の身体にはない動きだ。
顔を前へ向けたまま、横へ滑る。
右側姿勢制御系統へ意識を向ける。
グライフが動く。
その瞬間、身体が強く左へ押される感覚がした。
「うっ」
『実荷重は〇・一G未満です』
「事故の回転を思い出した」
『継続可能ですか?』
「少し待って」
空中で停止。
心臓が速い。
右へ移動しただけ。
でも、事故機が回転したとき、身体は何度も横へ叩きつけられた。
『エルフォート、状態を報告』
ユリウス大尉。
「右移動の開始で、事故時の横回転を思い出しました。呼吸は少し速い。視界は正常。続けられると思います」
『思います、では弱い』
厳しい声。
「続けたいです。でも、もう一度同じ感覚が強く出たら中止します」
『それなら続行を許可する』
判断を外へ預けるのではなく、自分で条件を決める。
「グライフ。横加速をさらに弱くして」
『移動時間が増加します』
「構わない」
『了解しました』
ゆっくり右へ。
今度は、身体が押される感覚がほとんどない。
地面の格子線が左へ流れる。
怖い。
でも、回転していない。
姿勢は水平。
『右移動五メートル』
グライフの翼端と地上標識の位置を確認する。
『九メートル』
「停止」
静止。
『停止位置誤差、〇・二二メートル。合格』
次は後方二十メートル。
後ろへ進む。
機体の目は全周囲にある。
振り返る必要はない。
それでも、人間の感覚では後退は不安だった。
見えない場所へ落ちていくように感じる。
『後方移動開始』
格納庫が遠ざかる。
前方にあるはずの帰る場所が離れていく。
胸の奥に、朝見た夢が浮かんだ。
グライフが飛び去り、私だけが置いていかれる夢。
でも今は逆だ。
私はグライフの中にいる。
一緒に後ろへ進んでいる。
「置いていかないでね」
『その可能性はありません』
即答だった。
『リサは私の中にいます』
「うん」
グライフの言葉が、直接心へ届く。
安心する。
同時に、その安心へ寄りかかりすぎている自分も感じた。
今夜、二時間だけ通信を切る。
必要なことだ。
でも、今はつながっていていい。
『後方移動、完了』
『停止位置誤差、〇・二九メートル。合格』
残るは左移動。
左足に後遺症がある方向。
空中移動では脚を使うわけではない。
それでも、神経信号には左右差が残る。
『左方向十メートル。補正率八十パーセント』
グライフ。
「七十に下げられる?」
『本試験の目的に含まれません』
「少しだけ、自分の遅れを感じたい」
『反対します』
「無理はしない」
『その言葉の信頼性は――』
「低いんでしょう。でも、管制の許可が出た場合だけ」
アルフォンスが回線へ入る。
『七十パーセントまでなら許可する。異常が出たら即座に八十へ戻す』
『反対です』
『グライフ。これは搭乗者特性の確認でもある』
『リサの負荷が増加します』
『神経疲労は規定内だ』
グライフの不快感が、私の中へ流れ込んでくる。
「グライフ」
『はい』
「助けを減らしたいんじゃない。助けてもらっている場所を知りたいの」
『違いが理解できません』
「全部支えてもらっていたら、どこが私の弱さか分からない」
『弱さを知る必要がありますか?』
「あるよ。グライフが傷ついたとき、私が補わないといけないから」
『私が傷つくことを前提にしないでください』
「試作機なんだから、故障は起こるでしょう」
『回避します』
「それでも」
朝の会話と同じ。
絶対はない。
『……補正率七十パーセントへ変更します』
「ありがとう」
『異常時は即座に戻します』
「うん」
左へ移動を始める。
反応がわずかに遅い。
地上走行のときより、差が大きく感じられた。
左へ行きたい。
けれど、グライフはすぐには動かない。
追加で命令したくなる。
待つ。
〇・一秒。
機体が左へ滑り始める。
「遅れ、感じる。でも操作できる」
『左下肢神経疲労、微増』
ミラ軍医。
『許容範囲内』
さらに左へ。
グライフの補正が少ない分、自分で早めに命令する。
右方向の姿勢制御が少し強く出る。
機体が左へ傾きかけた。
『姿勢角、左〇・九度』
「修正する」
『私が補助します』
「お願い」
二人で水平へ戻す。
左移動を継続。
『残り三メートル』
そのとき。
機体の左後方で、小さな警告が弾けた。
『左後部姿勢制御噴射口、応答遅延!』
ノアの声。
左へ移動するために使っていた噴射口の一基が、予定より長く噴射を続けた。
機体が右へ押される。
「っ!」
『姿勢角、右三度!』
身体が傾く。
事故の回転。
空と地面が入れ替わる。
警告音。
潰れる。
「いやっ!」
『リサ、私が制御します』
グライフが全補正を取り戻そうとする。
同時に、私の神経リンクから操作権限を切り離しかけた。
「待って!」
『リサの恐怖反応が基準値を超えています』
「まだ意識はある!」
『安全を優先します』
私の感覚から、姿勢制御系統が遠ざかる。
グライフが私を守るため、操縦から外そうとしている。
「外さないで!」
『リサ』
「一緒にやるって言ったでしょう!」
右へ傾く機体。
高度九・六メートル。
左後方噴射口は停止した。
残る噴射口で戻せる。
「グライフ、故障箇所を切り離して。左前部と右後部で姿勢を戻す」
『私が実行します』
「方向は私が見る!」
『恐怖反応が――』
「怖いよ!」
叫ぶ。
「でも、判断できる!」
一瞬。
グライフの制御が止まった。
『……了解しました』
左後部噴射口を閉鎖。
グライフが姿勢回復を行う。
私は機首方向を維持する。
右へ流れている。
左への追加移動は中止。
中央地点へ戻る経路を計算する。
『姿勢角、右一・五度』
「機首、基準線から右二度。左へ修正」
『補助します』
機首が戻る。
『姿勢水平』
『高度九・八メートル』
機体が安定した。
警告音が止まる。
『管制よりグライフ。試験中止。中央浮上地点へ帰投せよ』
イザーク大尉。
「了解」
『リサの操作権限を維持します』
グライフが言った。
「うん。一緒に戻ろう」
故障した噴射口を避け、残る装置で中央へ進む。
移動速度は遅い。
でも、制御できる。
前方。
右。
左。
機体全体の状態を感じる。
左後方だけ、感覚に穴が空いている。
そこをほかの噴射口で補う。
『中央地点、到達』
『降下を開始』
高度八メートル。
六。
四。
地面が近づく。
今度は恐怖より、帰る場所だと感じられた。
二メートル。
一。
接地。
『全脚接地確認』
『VTOL系統停止』
『試験終了』
全身から力が抜けた。
手が震える。
呼吸が速い。
左脚が重い。
「状態報告」
ミラ軍医の声。
「手の震え。呼吸が速い。左足に強い疲労感。胸の痛みなし。意識は正常。事故記憶は……少し残ってます」
『了解。固定解除まで動かないで』
「はい」
グライフの声が、思考のすぐ隣で聞こえる。
『リサ』
「何?」
『操作権限を奪おうとしました』
「うん」
『不快でしたか?』
「少し」
『私は、あなたを保護しようとしました』
「分かってる」
『誤りでしたか?』
難しい問いだった。
「全部は間違いじゃない」
私は目を閉じた。
「私が判断できなくなったら、外していい。でも、怖がっただけで外さないで」
『区別が困難です』
「私が報告する」
『虚偽の可能性があります』
「外からも見てもらう。ミラ先生も、大尉も、みんなに」
『それでも、誤る可能性があります』
「あるよ」
『では、私がすべて制御した方が安全です』
「それだと、一緒じゃない」
グライフが黙る。
「私が怖がることも、失敗することも含めて、一緒に飛んでほしい」
『リサが損傷する可能性があります』
「グライフも傷つく可能性がある」
『私は兵器です』
「私はパイロット」
同じ言葉を返す。
「危険をなくすことはできない。でも、減らすことはできる。一人でじゃなく、一緒に」
しばらくして、グライフが答えた。
『学習します』
「うん」
『ただし、生命危機が迫った場合は、リサの意思に反しても制御を取得します』
「それでいい」
『約束を記録しました』
「私も覚えておく」
◇◆◇
コクピットから降りると、アルフォンスが待ち構えていた。
「左後部姿勢制御噴射口の制御弁が、〇・四秒閉鎖遅延を起こした」
「原因は?」
「まだ分からない」
彼の声は硬かった。
「試験前診断では正常だった。機械的不具合か、制御信号の遅延かを調べる」
「私の操作ですか?」
「現時点では断定しない」
原因が分かる前に責任を押しつけない。
以前と同じだった。
「機体の損傷は?」
「ない。制御弁を交換すれば、噴射口自体は使える可能性が高い」
「よかった」
「よくない」
アルフォンスが私を睨む。
「高度十メートルだったから回復できた。速度も低かった。高速飛行中なら、〇・四秒の噴射継続で機体が大きく回転していた可能性がある」
「はい」
「明日の試験は中止だ」
「まだ何も――」
「中止だ」
言い返そうとしたところで、ヘルガ少佐が近づいてきた。
「アルフォンスの判断を支持する。原因究明が終わるまでグライフは飛ばさない」
「分かりました」
悔しい。
でも、今回はすぐに受け入れられた。
同じ異常が起こる可能性があるまま、飛ぶわけにはいかない。
「それと、今日の試験結果だ」
ヘルガ少佐が端末を開く。
「前方、右、後方移動は合格。左移動は機体異常により中断」
「不合格ですか?」
「判定保留だ」
「では、もう一度?」
「機体修理後にな」
「はい」
「ただし、異常発生後の対応は合格とする」
胸が少し軽くなる。
「グライフへ操縦を任せきらず、自分の役割を維持した。管制中止命令にも従った」
「グライフが助けてくれました」
「それでいい」
少佐は黒い機体を見る。
「試験パイロットは一人で飛ぶものではない。機体、整備、管制、医療。そのすべてで飛ぶ」
私は頷いた。
「ただし、グライフ」
『はい』
「搭乗者を保護するためとはいえ、管制判断より先に操縦権限を切り離そうとした点は問題だ」
『リサの恐怖反応が基準を超えました』
「恐怖と操縦不能は同じではない」
『区別方法を学習します』
「次までに、医療班と判断基準を作れ」
『了解しました』
グライフは反論しなかった。
少しずつ、この子も部隊の中で学んでいる。
◇◆◇
試験後の反省会を終え、私は格納庫の外にある休憩用の長椅子へ座っていた。
左脚には冷却装置。
手の震えはもう収まっている。
ユリウス大尉が、二本の飲料容器を持って近づいてきた。
「飲め」
「ありがとうございます」
一本を受け取る。
軍用の栄養飲料。
甘くもなく、美味しくもない。
「今日の評価を聞いてもいいですか?」
「聞かなければ眠れないのか?」
「気になります」
ユリウス大尉は私の隣ではなく、少し離れた柵へ寄りかかった。
「故障前までの移動精度は合格範囲。横移動時の事故反応は強い。実戦飛行へ進むには改善が必要だ」
「はい」
「異常発生直後、機体へ反射的な過剰修正を入れなかった点は評価する」
「グライフが操作を外そうとしたから、そっちに驚きました」
「結果として過剰操作を防いだ可能性もある」
「では、グライフの判断が正しかった?」
「正誤だけで考えるな」
やはり厳しい。
「機体の判断には利点と危険の両方がある。君の判断も同じだ」
「絶対に正しい方はない?」
「ない」
彼は迷わなかった。
「だから、複数の判断系統を持つ。搭乗者、機体、管制。どれかが誤っても、ほかが戻す」
「大尉は、グライフを信用していますか?」
「現時点では信用していない」
はっきり言われた。
「高性能だが、搭乗者への執着が強すぎる。軍用AIとしては危険だ」
「でも、この子は私を守ってくれます」
「君だけを守る機体なら、僚機や地上要員を犠牲にする可能性がある」
胸が冷たくなる。
グライフなら、どうするだろう。
私を救うために、誰かを危険へ追い込む可能性。
「そんなことはさせません」
「君の命令を聞ける状態ならな」
「聞けない状態になると?」
「高深度リンクで互いの判断が同じ方向へ偏れば、止める者がいなくなる」
物理遮断機構が必要な理由。
改めて理解する。
「でも」
ユリウス大尉が続けた。
「今日、グライフは最終的に君の判断を受け入れた」
「はい」
「君も、グライフの補助を拒まなかった」
「一人では戻せなかったので」
「その関係が維持できるなら、運用の可能性はある」
この人から出た言葉としては、かなり高い評価に思えた。
「少し、認めてくれました?」
「浮かれるな」
「少しくらい」
「今日、君は十メートルを移動しただけだ」
「それでも、昨日より前進です」
「そうだな」
一瞬だけ、ユリウス大尉の口元が緩んだ。
笑ったのかと思ったときには、もういつもの表情へ戻っていた。
「エルフォート」
「はい」
「恐怖を克服しようとするな」
意外な言葉だった。
「克服しないと、飛べないのでは?」
「恐怖は危険を知らせる」
「でも、事故の記憶は本当の危険じゃないこともあります」
「だから区別しろ。消すのではなく、何を知らせているのかを見る」
怖さを敵にしない。
ミラ軍医からも似たことを言われた。
「大尉は、怖くないんですか?」
「怖い」
あっさり認めた。
「飛ぶたびに?」
「毎回ではない。だが、墜ちる可能性を忘れたことはない」
「エースなのに」
「エースだから死なないと考える者から墜ちる」
事故前の私へ向けられた言葉のようだった。
「覚えておきます」
「記憶だけでは足りない。次の試験で示せ」
「はい」
立ち去る背中を見送りながら、私は飲料を一口飲んだ。
やっぱり、美味しくなかった。
ユリウス大尉が立ち去ったあと、入れ替わるようにクラウディアが近づいてきた。
第一航空師団の白いフライトジャケットを着ている。足元には、基地へ来たときにも使っていた小さな携行鞄が置かれていた。
「帰るの?」
「明朝、第一航空師団へ帰隊します」
思っていたより早い言葉に、私は少しだけ驚いた。
「合同評価は終わったの?」
「既存機との比較に必要な飛行情報は取得できました。以降の評価責任者はヴァイスベルク大尉が務めます」
「クラウディアは、もう私の試験を見ない?」
「記録は確認します」
彼女は即座に答えた。
「あなたの飛行状態は、第一航空師団にとっても無関係ではありませんから」
「評価担当として?」
「それ以外に、何があるのですか」
言葉は冷たい。それでも、視線は私の左脚から顔へ移り、体調を確かめるように止まった。
「今日の異常については?」
「機体側の問題であり、あなたの失敗ではありません。ただし、恐怖反応は依然として強い」
「うん」
「次に異常が起きたとき、無理に操縦を続けないでください」
「心配してる?」
「評価対象を事故で失いたくないだけです」
また、否定が少し早かった。
「分かった。次もちゃんと帰るよ」
「簡単に約束しないでください」
クラウディアは私から視線を逸らした。
「帰ることは、口で言うほど簡単ではありません」
「それでも、帰るために飛ぶ」
私が答えると、彼女はしばらく黙っていた。
「次に会うときは」
「うん」
「地上ではなく、空で会いましょう」
その言葉だけを残し、クラウディアは携行鞄を手に取った。
遠ざかる白い背中を見送りながら、私は胸の奥に小さな寂しさを覚えていた。
◇◆◇
夕食後。
宿舎の時計が午後八時を示した。
机の上には、小型通信端末。
その向こうにはグライフがいる。
「じゃあ、二時間」
『必要性を再検討してください』
「朝、約束したでしょう」
『約束の撤回を提案します』
「却下」
『不快です』
「私も寂しいよ」
『では、継続を』
「それでも切る」
通信端末の光が強くなる。
『二時間後、必ず再接続しますか?』
「するよ」
『一秒も遅れず?』
「そこまで正確には約束できない」
『不確実です』
「九時五十分から十時十分の間にはつなぐ」
『幅が広すぎます』
「十時。前後五分」
『許容します』
「細かいなあ」
『重要です』
私は通信端末へ指を伸ばした。
「おやすみじゃないからね」
『適切な別れの言葉を検索します』
「またあとで、でいいよ」
『……またあとで、リサ』
「うん。またあとで、グライフ」
通信を切断する。
部屋が急に静かになった。
換気装置の音。
遠くを走る輸送車両。
自分の呼吸。
今まで、グライフの声がどれほど近くにあったのか分かる。
「二時間だけ」
誰に言うでもなく呟く。
寝台へ腰掛ける。
左足を伸ばす。
暗くなると、事故の感覚が戻るかもしれない。
だから照明はつけたままにした。
端末を触りたくなる。
今の気持ちをグライフへ話したい。
試験のこと。
ユリウス大尉から言われたこと。
少し認められた気がして嬉しかったこと。
でも、今は話さない。
自分の中だけで考える。
怖さは消えなくていい。
グライフがいない時間も、私は私の身体にいる。
左腕がある。
両脚がある。
左肺も動いている。
私は一人でも呼吸できる。
一人でも立てる。
そして、グライフといることを自分で選べる。
時計の針が進む。
最初の十分は、とても長かった。
三十分を過ぎた頃、本を開いた。
一時間後には、少しだけ内容へ集中できた。
午後九時五十八分。
私は机の上の通信端末へ手を伸ばした。
予定より二分早い。
二時間前なら、二分くらい誤差だと言っただろう。
今は、その二分を待てなかった自分が少しだけ可笑しい。
通信を接続する。
『リサ』
呼び出し音が鳴り終わるより早く、グライフの声が響いた。
「ただいま」
『予定時刻より百二十秒早い接続です』
「駄目だった?」
『いいえ』
端末の青い光が強くなる。
『望ましい誤差です』
「寂しかった?」
以前なら、グライフは感情の定義を確認したかもしれない。
けれど、今度は迷わなかった。
『はい』
胸が温かくなる。
『リサが再接続しない可能性を、繰り返し演算しました』
「約束したでしょう」
『約束が履行されない可能性も存在します』
「人間は約束を破ることもあるから?」
『はい』
「でも、私は戻った」
『確認しています』
私は椅子へ腰掛け、通信端末を両手で包んだ。
「私も寂しかったよ」
『では、次回から切断時間を短縮することを提案します』
「それは別の話」
『不快です』
「正確な報告だね」
『はい』
少しだけ笑う。
二時間、グライフの声はなかった。
神経も、感覚も、何もつながっていなかった。
それでも私は呼吸し、本を読み、自分の身体の中で過ごすことができた。
そして、自分の意思で通信をつないだ。
「グライフ」
『はい』
「離れても、いなくなったわけじゃなかったね」
『通信が切断されている間も、私は格納庫に存在していました』
「そういうこと」
『理解を試みています』
離れることと、失うことは違う。
それを、私もグライフもまだ完全には理解できていない。
でも、今日の二時間で一つだけ分かった。
離れたあとに、また話したいと思える。
自分から戻る場所を選べる。
それは、つながり続けることとは違う形の信頼なのかもしれない。
『リサ』
「何?」
『おかえりなさい』
以前よりも自然な言葉だった。
「ただいま、グライフ」
静かだった部屋に、もう一度この子の声が満ちる。
それでも私は、一人だった二時間を嫌いにはならなかった。
お読みいただきありがとうございました。




