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私の代わりになった少女

ご覧いただきありがとうございます。

五メートル浮上試験を翌日に控えた朝。


第四実用試験部隊の格納庫前に、見慣れた白銀色の戦闘機が降りてきた。


鋭く伸びた機首。


青く縁取られた主翼。


尾翼に描かれた、帝国双頭鷲と三枚翼の部隊章。


帝国空軍第一航空師団。


通称、〈皇帝の翼〉。


一年前まで、私が所属していた部隊の機体だった。


「……まだ、あの型を使ってるんだ」


格納庫の外から降下してくる機体を見上げる。


『FA‐87S改。事故後、姿勢制御系統と脱出装置に改修が行われています』


手元の小型通信端末から、グライフの声がした。


「知ってるよ。私の事故が改修のきっかけだったから」


『不快ですか?』


「少し複雑」


私が乗っていた機体と、完全に同じ型ではない。


事故原因とされた制御装置は交換され、複数の安全装置が追加されている。


今では、帝国空軍で最も事故率の低い機体の一つらしい。


それは喜ぶべきことだ。


私と同じ事故に遭う人が減る。


でも、改修内容を見るたびに思ってしまう。


あと一年早ければ。


あの日、最初から搭載されていれば。


私の身体は潰れずに済んだのではないか。


『リサの心拍数が上昇しています』


「昔の部隊を見て、緊張してる」


『接近する必要はありません』


「そういうわけにはいかないよ」


今日、第一航空師団がここへ来たのは、ただの訪問ではない。


グライフの飛行特性を既存の主力機と比較するため、合同評価へ参加することになっている。


五メートル浮上試験そのものには関係しない。


けれど、今後の低空飛行試験や模擬空戦を見据え、第一航空師団から評価担当者が派遣されたのだ。


「いつかは会うと思ってた」


『会いたくありませんか?』


「会いたい人もいる。会いづらい人もいる」


『分類を求めます』


「そういうの、全部説明するのは難しいよ」


『私はリサを理解したいと望んでいます』


まっすぐ言われると、断りにくい。


「第一航空師団は、私が初めて正式配属された場所なの」


『記録しています』


「みんな優秀で、飛ぶことに誇りを持ってた。私が十六歳で配属されたときも、最初は子供扱いされたけど、結果を出したら認めてくれた」


『望ましい記憶ですか?』


「うん。たぶん」


嫌だったこともある。


平民の娘だと陰で言われた。


広報向けの飾りだと笑われたこともある。


それでも、空に上がれば家柄は関係なかった。


誰よりも速く飛べばいい。


難しい機動を成功させればいい。


事故前の私は、そう信じていた。


「でも、私がいなくなった後、別の子が配属された」


『クラウディア=ローゼ=フォン=エーレンベルク中尉』


「知ってるんだ」


『第一航空師団の現行エースパイロット。最大リンク深度八十七・六パーセント。軍広報部における露出回数は、直近六か月で帝国空軍最多です』


「私より優秀?」


『比較基準を求めます』


「操縦技術とか、射撃とか」


『事故前のリサと比較した場合、長距離射撃精度と編隊指揮能力はクラウディア中尉が上回ります。近接機動、瞬間判断、複雑空間における姿勢制御は、リサが上回ります』


グライフは容赦なく数値で答える。


「そっか」


『不快ですか?』


「少し安心した」


『なぜですか?』


「私の代わりだから選ばれたんじゃなくて、ちゃんと実力がある子なんだって思えたから」


空いた席は誰かが埋めなければならない。


軍は、私が戻るまで待ってはくれない。


分かっている。


でも、〈新世代の天才少女〉という文字を見たとき、胸が痛んだ。


私が事故前に呼ばれていた名前と、ほとんど同じだったから。


『彼女はリサの代わりではありません』


「グライフ?」


『リサも、彼女の代わりではありません』


「うん」


『したがって、比較によって個人の価値を決定する行為は非合理的です』


「そう簡単に思えたらいいんだけどね」


『難しいですか?』


「人間だから」


『人間は非合理的です』


「そこは否定できないかな」


私が小さく笑ったとき、第一航空師団の機体が指定位置へ着地した。


主脚が地面に触れ、白い機体が静かに停止する。


コクピットブロックが開いた。


昇降装置に乗って降りてきたのは、二人のパイロットだった。


一人は背の高い青年。


白銀色の飛行服。


灰白色の髪。


氷のように冷たい青い瞳。


帝国空軍最年少のエース。


コールサイン〈白鷹〉。


ユリウス=レオンハルト=フォン=ヴァイスベルク航空大尉。


そして、もう一人。


長い淡金色の髪を持つ少女。


凛とした美貌。


深い青色の瞳。


第一航空師団の白い耐Gスーツを身につけた姿は、軍の広報映像で見たままだった。


クラウディア=ローゼ=フォン=エーレンベルク航空中尉。


彼女は地面へ降りた直後、真っ先に私を見た。


視線がぶつかる。


胸の奥が小さく揺れた。


向こうも、足を止めていた。


「リサ=エルフォート……」


広報映像で聞くより、少し低い声だった。


「お久しぶりです、クラウディア中尉」


私たちは以前、一度だけ会ったことがある。


事故の二か月前。


彼女が第一航空師団への推薦試験を受けに来た日だ。


当時のクラウディアは、訓練生だった。


私の飛行記録を見ていると、頬を赤くしながら話していた。


それが今では、私の席にいる。


「あなたは私より先に、第一航空師団へ配属された方です」


クラウディアが言った。


「今は所属も階級も違いますが、以前と同じ話し方で構いません」


「でも、クラウディアは航空中尉でしょう?」


「私が敬語をやめてほしいと言っているのです」


彼女の視線が私の左脚へ落ちた。


一瞬だけ。


けれど、見逃さなかった。


「再生治療が終わったと聞きました」


「左足に少し後遺症はあるけど、日常生活には問題ないよ」


「飛行には?」


「それを、ここで確かめてる」


クラウディアの眉が動いた。


「なぜですか?」


「え?」


「なぜ、そこまでして飛ぶのですか?」


歓迎の言葉ではなかった。


再会を喜んでいるようにも見えない。


「飛びたいから」


「その結果、また事故を起こしても?」


胸が冷たくなる。


「事故を起こすつもりはないよ」


「前回も、起こすつもりはなかったでしょう」


鋭い言葉だった。


ノアが私の横へ一歩出る。


けれど、その前にユリウス大尉がクラウディアを制した。


「エーレンベルク中尉」


「事実です、大尉」


「ここは感情をぶつける場所ではない」


「感情ではありません。試験搭乗者としての適性へ疑問を述べています」


クラウディアは私から目を逸らさない。


「事故後の精神的外傷。左下肢の神経障害。通常部隊への復帰基準を満たさない身体状態。その人間を、より危険な試作機へ搭乗させることが合理的だとは思えません」


『反論します』


グライフの声が試験区画へ響いた。


クラウディアが黒い機体を見る。


『リサの身体状態は、私の補助機能によって飛行可能範囲へ調整できます』


「機体の補助がなければ飛べないということでしょう」


『現在運用される航空宇宙戦闘機に、制御補助を使用せず飛行する機体は存在しません』


「程度の問題です」


『リサの能力を、未確認の状態で否定することは不適切です』


「あなたは彼女を特別扱いしている」


『リサは私の搭乗者です。ほかの人間と同じ扱いをする理由がありません』


「グライフ」


私は黒い機体を見上げた。


「少し黙ってて」


『しかし――』


「私が話すから」


短い沈黙。


『了解しました』


クラウディアへ向き直る。


「心配してくれてるの?」


彼女の瞳が揺れた。


「違います」


否定が早すぎた。


「試験の安全性について話しています」


「そっか」


「何ですか、その顔は」


「昔、私の飛行が好きだって言ってくれたから」


クラウディアの頬が、わずかに赤くなる。


「訓練生時代の話です」


「うん」


「現在の評価とは無関係です」


「私がまた墜ちるのが怖い?」


「違うと言っています!」


声が強くなった。


周囲の整備員たちがこちらを見る。


クラウディアはすぐに口を閉じ、拳を握った。


「……あなたは、自分がどのような状態だったか、知っているのですか」


「知ってるよ」


「いいえ。知りません」


声が震えていた。


「私は、事故後の記録映像を見ました」


私の呼吸が止まる。


「救出時の映像です。医療班へ引き渡されるまでの」


軍の事故記録。


私自身は、完全な映像を見ていない。


墜落後の記憶も途切れている。


「なぜ、クラウディアが?」


「第一航空師団へ配属された際、事故原因に関する教育資料として見せられました」


私は知らなかった。


私の壊れた身体が、教育資料になっていた。


「機体から切り出されたあなたは……人の形をしていなかった」


クラウディアの声が掠れる。


左腕。


両足。


左肺。


左目。


それらを失った私。


「それでも、まだ飛びたいと言うのですか」


「うん」


「理解できません」


「私も、全部は説明できない」


空が好きだから。


飛びたいから。


言葉にすれば簡単すぎる。


でも、私の中にあるものは、そんなに単純ではない。


「怖いよ」


正直に言う。


「今でも、固定具が閉じると身体が潰れる感じがする。機体が傾くだけで、墜落したときの地面が見える」


「なら――」


「でも、怖いから飛ばないって決めたら、あの日からずっと墜ちたままになる気がする」


クラウディアが黙る。


「私は、事故前の自分に戻りたいわけじゃない」


本当は戻りたいと思ったこともある。


左足が元どおり動いて。


第一航空師団へ復帰して。


また天才と呼ばれて。


何もなかったように笑えたら。


でも、それはもうできない。


「今の身体で、今の怖さを持ったまま、もう一度飛べるようになりたい」


「それで死亡したら?」


「死なないように、みんなと試験してる」


「答えになっていません」


「絶対に死なないとは言えないよ」


軍人である以上。


パイロットである以上。


試験部隊にいなくても危険はある。


「でも、前みたいに一人で全部やろうとは思わない」


黒い機体を見る。


「グライフがいる。ノアがいる。部隊のみんなが見てくれてる」


クラウディアの目に、複雑な色が浮かんだ。


「ずいぶん、その機体を信頼しているのですね」


「まだ分からないことも多いけどね」


『私はリサを裏切りません』


「黙っているよう言ったよね?」


『訂正します。発言終了まで待機すると解釈していました』


クラウディアがグライフを睨む。


「機体に言いくるめられているようにしか見えません」


『リサは私より強い命令権限を持っています』


「そういうところよ」


二人は相性が悪いのかもしれない。


◇◆◇


合同評価前の説明会は、格納庫脇の会議室で行われた。


ヘルガ少佐。


イザーク大尉。


ヴィオラ中尉。


アルフォンス。


ミラ軍医。


第一航空師団からはユリウス大尉とクラウディア。


さらに兵器開発局の監査官が数名。


私は一番端の席へ座っていた。


正面画面には、明日の五メートル浮上試験の手順が表示されている。


「本試験では、高度五メートルで三十秒間の滞空を行う」


イザーク大尉が説明する。


「前回の突風を踏まえ、今回は防風板を展開。気象条件も、風速毎秒三メートル以下に制限する」


「搭乗者のリンク上限は?」


ユリウス大尉が尋ねた。


「四十五パーセント」


「低高度浮上にしては深い」


「グライフは通常機より多くの姿勢制御装置を持つ。二十パーセント以下では、パイロット側が全体を正確に認識できない」


「前回の最大深度は?」


「三十四・一」


「一メートルの浮上で、そこまで上がったのか」


ユリウス大尉の冷たい青い瞳が私へ向く。


「エルフォート候補生」


「はい」


「事故前、九十一・二パーセントへ到達した際の自覚症状は?」


「機体が身体の一部になったように感じました。通常時より、周囲の音や機体振動がはっきり分かりました」


「精神変化は?」


「集中力が上がりました。あとは……少し、気持ちが高ぶったと思います」


「判断力への影響は?」


「自分では正常だと思っていました」


「自分では、か」


ユリウス大尉は手元の資料へ視線を落とした。


「高深度リンク状態では、本人が異常を自覚できない可能性がある。外部監視だけで十分なのか?」


「グライフ側からも遮断可能だ」


アルフォンスが答える。


「ただし、予備接続時にはグライフ自身も深度上昇を望む反応を示した」


「機体AIまで正常な判断を失う可能性があるということか」


『異議があります』


会議室の通信装置からグライフが発言する。


『私は判断力を失っていません』


「自覚の有無を問題にしている」


ユリウス大尉は、機体AI相手にも口調を変えなかった。


『リサの生命危機が発生した場合、私は接続を遮断します』


「君自身が、接続継続を生命維持に必要だと判断した場合は?」


グライフが沈黙した。


「回答できないか」


『想定条件が不足しています』


「それが答えだ」


ユリウス大尉はヘルガ少佐へ顔を向ける。


「安全制限を機体と搭乗者だけに依存すべきではない。外部からの物理遮断機構を追加することを提案します」


アルフォンスの表情が険しくなる。


「緊急遮断は神経へ損傷を与える可能性がある」


「機体と搭乗者が互いに遮断を拒んだ場合よりはましだ」


「その状態になった証拠はない」


「起きてから対処するのが試験部隊の仕事か?」


空気が張り詰める。


ユリウス大尉は、私を特別扱いしない。


事故に同情もしない。


ただ、危険性を数値と可能性で見ている。


冷たいようでいて、兵器開発局の人たちとは違った。


私の適性を価値として見ているのではない。


事故を防ぐための危険要因として見ている。


「追加する」


ヘルガ少佐が言った。


「物理遮断は三段階目。第一は搭乗者、第二はグライフ、第三として管制が保持する」


「少佐」


アルフォンスが声を上げる。


「神経損傷の危険は承知している」


「なら――」


「リサを戻せない状態よりはいい」


ヘルガ少佐の言葉に、アルフォンスは黙った。


「エルフォート。異論は?」


私は尋ねられるとは思っていなかった。


「あります」


正直に答える。


「怖いです。外から神経リンクを切られて、身体に障害が残るかもしれないなら」


「そうだな」


「でも、必要だと思います」


「理由は?」


「高深度リンクになったとき、自分の判断が正常だと言い切れないからです」


事故前の私は、自分が間違うとはほとんど考えていなかった。


今の私は違う。


怖さに流されることもある。


飛びたい気持ちに流されることもある。


「ただし、使う前に警告してください」


「可能ならな」


「可能ではない場合は?」


「即時遮断する」


怖い。


それでも頷いた。


「了解しました」


ユリウス大尉が初めて、わずかに私を見る目を変えた。


「英雄扱いされ、判断力を失った若者かと思っていた」


「昔は、少しそうだったかもしれません」


「自覚があるなら、最低限は合格だ」


ヴィオラ中尉の褒め方と少し似ている。


この人も、合格までが遠そうだ。


◇◆◇


会議後、私はグライフの格納庫へ戻った。


『物理遮断機構の追加に反対します』


周囲に誰もいなくなると、グライフが言った。


「会議中も反対したかった?」


『はい。しかし、リサが受け入れたため、発言を控えました』


「ありがとう」


『感謝される行為ではありません』


青い光が強く明滅する。


『物理遮断による神経損傷発生率は、最大で十二・八パーセントです』


「そんなに高いの?」


『緊急時の接続深度、遮断速度、リサの身体状態によって変動します』


「でも、リンクを切れない方が危険な場合もある」


『私が切断します』


「グライフが切りたくないと思ったら?」


『その状況は発生しません』


「絶対?」


グライフは答えなかった。


「私たち、もっと深くつながりたいと思ってるよね」


『はい』


「今は安全を優先できてる。でも、九十パーセントを超えたらどうなるか分からない」


『私はリサを傷つけません』


「傷つけるつもりがなくても、起きることはあるよ」


事故もそうだった。


誰も私を墜落させようとは思っていなかった。


整備員も。


教官も。


機体を作った人も。


それでも、事故は起きた。


「安全装置は、グライフを信用してないからつけるんじゃない」


『では、なぜですか?』


「私たちが間違えるかもしれないから」


『私も?』


「うん」


はっきり答えた。


「私も、グライフも」


青い光が消えかけるほど弱くなった。


機嫌を損ねたのかもしれない。


「怒った?」


『感情分類を行っています』


「嫌だった?」


『はい』


「ごめん」


『謝罪を求めていません』


グライフの声は冷静だった。


けれど、どこか遠い。


『リサは私を信頼していないのでしょうか』


「信頼してるよ」


『矛盾しています』


「信じてるから、間違う可能性も一緒に考えたいの」


『理解できません』


「私も、上手く説明できない」


大切な人が絶対に間違わないと思うことが、信頼ではない。


間違ったときも、戻れるようにする。


それが何なのか、私自身もうまく言葉にできなかった。


「グライフが壊れたら、私は止めたい」


『私は機体です。損傷時も任務継続が可能です』


「そういうところ」


『どの部分ですか?』


「自分を機体だからって、消耗していいみたいに言うところ」


『私は兵器です』


「でも、私を部品として扱わないって言った」


『はい』


「私も、グライフを壊れても交換できる部品だとは思わない」


格納庫が静かになる。


「だから、お互いに止められなくなったら、誰かに止めてもらう」


『私の人格へ損傷が発生しても?』


「それでも、生きて帰ってから直す」


『同一の人格へ復元できない可能性があります』


「そのときは……」


言葉が詰まった。


今のグライフが消える。


同じ声。


同じ知識。


同じ機体。


それでも、私と話した記憶も、少しずつ覚えた感情も失われる。


想像するだけで、胸が苦しくなる。


「嫌だよ」


正直に言った。


「絶対に嫌」


『ならば、物理遮断を拒否してください』


「でも、私たちが二人とも戻れなくなるよりはいい」


『リサ』


「グライフにも、帰ってきてほしいから」


長い沈黙。


青い光が、ゆっくり戻ってくる。


『理解には至りません』


「うん」


『ですが、リサが私の存続を望んでいることは理解しました』


「当たり前だよ」


『喜びを検出しました』


「今?」


『はい』


「怒ってたのに?」


『複数の感情が同時に存在している可能性があります』


「人間みたいだね」


『私は機体です』


「知ってる」


私は黒い装甲へ手を触れた。


「でも、それだけじゃないと思ってる」


◇◆◇


翌日の五メートル浮上試験。


天候は晴れ。


風速、毎秒一・八メートル。


防風板も展開されている。


試験区画の観測室には、第一航空師団の二人もいた。


クラウディアは私の試験へ反対している。


ユリウス大尉は、能力より危険性を見極めようとしている。


二人の視線を意識しないと言えば嘘になる。


でも、今日の目的は認めてもらうことではない。


グライフと一緒に浮き、戻ること。


それだけだ。


「体調を報告します」


コクピットへ入る前に、自分から言った。


「左脚の疲労は通常値。痛みなし。呼吸正常。事故への恐怖はあります。クラウディア中尉たちに見られていることで、少し緊張しています」


ミラ軍医が端末を確認する。


「正確ね。搭乗を許可します」


ヴィオラ中尉が腕を組む。


「今日の役割分担は?」


「高度と水平姿勢はグライフ。機首方向と周辺監視は私。異常発生時は、管制命令を最優先します」


「昨日より風は穏やかだけれど、油断しないで」


「はい」


私は昇降台へ足を載せた。


「エルフォート候補生」


ユリウス大尉に呼び止められる。


「はい」


「試験中、第一航空師団を意識する必要はない」


思いがけない言葉だった。


「評価されていることを意識すれば、余計な操作が増える」


「分かっています」


「理解と実行は別だ」


相変わらず厳しい。


「君が昔、どのようなパイロットだったかは評価対象ではない」


彼の視線がグライフへ向く。


「今、その機体を安全に扱えるか。それだけを示せ」


「了解しました」


クラウディアは少し離れた場所に立っていた。


私が見ても、何も言わなかった。


ただ、深い青色の瞳が、私を追っていた。


◇◆◇


固定具が閉じる。


今日も恐怖はあった。


でも、止まる必要はなかった。


『神経リンク開始』


深度十パーセント。


二十。


三十。


翼が身体になる。


動力炉の力が胸の奥へ流れ込む。


『四十パーセント』


グライフが近い。


言葉より先に、互いの意志が伝わるような感覚。


飛びたい。


でも急がない。


上がる。


そして戻る。


『四十二・一パーセントで固定』


『生体状態、正常』


『物理遮断機構、待機状態』


その報告に、グライフの中から小さな不快感が流れてきた気がした。


「グライフ」


『はい』


「今日は使わせないようにしよう」


『同意します』


『浮上地点への移動を許可』


地上走行。


左の遅れを感じ、グライフの補正を受けながら指定位置へ進む。


停止誤差、〇・〇八メートル。


以前より正確になった。


『浮上試験を開始する』


『VTOL出力、一パーセント』


機体の下で空気が震える。


『二パーセント』


重量が軽くなる。


『四パーセント』


主脚が地面を離れた。


『高度〇・五メートル』


前回、事故記憶が蘇った高さ。


地面が迫ってくるように見えた。


胸が詰まる。


「少し怖い。でも、続けられる」


『報告を受領しました』


『高度一メートル』


一度到達した高さ。


今日は、まだ途中だ。


『二メートル』


地面が遠くなる。


機体の影が小さくなる。


事故の日の地表が、視界の奥に重なりかける。


でも、グライフは水平だ。


警告音もない。


『三メートル』


風が翼を撫でる。


格納庫の屋根が少し低く見える。


「グライフ、姿勢は?」


『水平。横移動〇・〇三メートル以内』


「私の状態は?」


『心拍数上昇。呼吸は許容範囲。事故記憶による神経反応を検出しています』


「まだ続けられる」


『同意します』


『四メートル』


怖い。


それでも、前回のように地面が迫ってこない。


私は下を見る。


黄色い浮上地点。


周囲の整備員。


小さく見えるノア。


観測室の中は見えない。


クラウディアも、ユリウス大尉も、今は意識から外す。


『五メートル』


指定高度へ到達した。


『滞空計測開始。三十秒』


グライフが静かに浮かんでいる。


姿勢制御噴射口が細かく作動する。


私は機首方向を維持し、周囲を確認する。


右。


左。


後方。


上空。


障害物なし。


『十秒経過』


「安定してる」


『はい』


『十五秒』


私は試しに、意識の力を少しだけ抜いた。


グライフが姿勢を維持する。


任せても大丈夫。


今度は機首方向の制御を少し強める。


グライフは邪魔をせず、必要な部分だけ支える。


二人で一つの機体を動かしている。


『二十秒』


不意に、上空を第一航空師団の機体が通過した。


合同評価用の随伴機。


白銀色の翼が太陽を反射する。


昔の私の場所。


あそこへ戻りたい。


追いつきたい。


その衝動が強く膨らんだ。


『リサ側から推進要求を検出』


アルフォンスの声。


『出力要求、七パーセント』


前へ出たい。


上空の機体を追いたい。


『リサ』


グライフの声。


「分かってる」


今は浮上試験。


追う必要はない。


「推進要求を取り消す」


『補助します』


「自分でも止める」


白い機体から意識を外す。


今の私は第一航空師団のパイロットではない。


事故前の天才でもない。


第四実用試験部隊の試験パイロット。


グライフの搭乗者だ。


『出力要求、低下』


『三パーセント』


『消失』


ユリウス大尉が言った。


『判断は遅くない』


観測回線からの短い評価。


クラウディアの声はなかった。


『三十秒経過』


『着地へ移行』


グライフが出力を下げる。


高度四メートル。


三メートル。


二メートル。


地面が近づく。


身体の奥で、恐怖が小さく動く。


でも、これは墜落ではない。


帰投。


一メートル。


〇・五。


主脚が接地する。


柔らかな振動。


『全脚接地』


『機体姿勢、正常』


『五メートル浮上試験、終了』


私は息を吐いた。


「戻った」


『はい』


「今度は、あまり怖くなかった」


『恐怖反応は存在しました』


「前より少なかった、という意味」


『正確な表現です』


『試験結果、合格』


イザーク大尉の声。


胸の奥に喜びが広がる。


その瞬間、グライフからも同じような温かさが返ってきた。


「今、グライフも嬉しい?」


『はい』


迷いのない答えだった。


『リサと五メートルの空へ到達しました』


「うん」


『次は、より高く』


「急がないんじゃなかった?」


『段階的に、より高く』


「それなら正解」


◇◆◇


試験後、コクピットを降りると、クラウディアが待っていた。


ノアやミラ軍医より少し後ろ。


何を言えばいいのか迷っているように見えた。


「体調は?」


最初に尋ねたのは、それだった。


「手が少し震えてる。左足に疲労感。でも、痛みはないよ」


「そう」


「心配してくれた?」


「搭乗者の状態確認は、評価担当者として必要です」


「うん」


否定はしなかった。


クラウディアは黒いグライフを見上げる。


「途中、随伴機を追おうとしましたね」


「見えてた?」


「推進器の予備出力が上昇していました」


「昔の癖が出た」


「第一航空師団へ戻りたいのですか」


難しい問いだった。


「戻りたいと思うことはあるよ」


正直に答える。


「でも、今はここで飛びたい」


「その機体と?」


「うん」


クラウディアの目が、ほんの少し曇る。


「事故前のあなたなら、あの程度の浮上で喜びはしなかった」


「そうだね」


「五メートルです」


「私にとっては大事な五メートルだよ」


「惨めだとは思わないのですか」


ノアの表情が険しくなる。


けれど、私は腹が立たなかった。


たぶん、その言葉は彼女自身にも向いている。


私の代わりと呼ばれ続けてきた少女。


どれだけ飛んでも、過去の私と比較される。


「思うときもある」


私は答えた。


「昔は、もっと飛べたって。こんなこともできないのかって」


「なら」


「でも、できない自分を嫌って止まるより、五メートルずつ上がった方がいい」


クラウディアは何も言わない。


「クラウディアは、私の代わりじゃないよ」


彼女の肩が揺れた。


「突然、何ですか」


「ずっと、そう呼ばれてたんでしょう」


「……誰から聞きました」


「軍の広報記事を見れば分かるよ。私と同じ呼び名を使って、同じ構図で写真を撮ってた」


私が白い飛行服で機体の前に立った写真。


半年後、クラウディアも同じ場所で、同じように撮影されていた。


「ごめんね」


「なぜ、あなたが謝るのですか」


「私の名前が、クラウディアを苦しめたなら」


「謝らないでください」


強い声だった。


「私は、あなたに同情されるために飛んでいるのではありません」


「うん」


「あなたの代わりではない」


「分かってる」


「私は、私の実力で第一航空師団にいます」


「知ってるよ」


クラウディアの瞳に、怒りと悲しみが混ざる。


「簡単に言わないでください」


「簡単じゃないよ」


私は彼女をまっすぐ見た。


「私も、クラウディアの記録を見て悔しかった」


「え?」


「長距離射撃も編隊指揮も、私より上だったから」


「誰が比較を?」


「グライフ」


『正確な記録に基づく評価です』


「余計なことを言わないで」


『事実です』


クラウディアが呆れたように黒い機体を見る。


ほんの少しだけ、張り詰めていた表情が緩んだ。


「あなたの機体は、搭乗者への配慮が不足しています」


「何でも正直に言うからね」


『虚偽は安全性を低下させます』


「今は安全の話ではありません」


『感情情報も操縦へ影響します』


「本当に面倒な機体ですね」


『ヴィオラ中尉と同一の評価です』


クラウディアの口元が、一瞬だけ動いた。


笑いかけたように見えた。


「リサ」


初めて、彼女が私を名前で呼んだ。


「はい」


「私は、あなたの復帰を認めたわけではありません」


「うん」


「試験パイロットとして十分だとも思っていません」


「分かってる」


「次の試験も見ます」


「どうして?」


「あなたが、どこまで飛べるのか確認するためです」


その言葉の奥にあるものは、まだ分からなかった。


対抗心。


心配。


憧れ。


怒り。


おそらく、全部が少しずつ混ざっている。


「じゃあ、見てて」


「言われなくても」


クラウディアは背を向けた。


数歩進んだあと、振り返らずに言う。


「五メートルの浮上としては、悪くありませんでした」


ヴィオラ中尉と同じような褒め方だった。


「ありがとう」


私が返事をすると、クラウディアはそれ以上何も言わずに歩き去った。


けれど、完全に姿が見えなくなる前に、一度だけこちらを振り返った。


私ではなく、黒いグライフを見たようにも思えた。


◇◆◇


翌朝。


格納庫前には、第一航空師団の白銀色の戦闘機が待機していた。


機体の横には、白いフライトジャケットを着たクラウディアが立っている。


足元には、小さな携行鞄が置かれていた。


「帰るの?」


「第一航空師団へ帰隊します」


分かっていたはずなのに、胸の中に小さな寂しさが生まれた。


「合同評価は終わったの?」


「既存機との比較に必要な初期情報は取得しました。今後の評価はヴァイスベルク大尉が担当します」


「クラウディアは、もう私の試験を見ない?」


「記録は確認します」


彼女は間を置かずに答えた。


「グライフの性能は、第一航空師団にとっても無関係ではありませんから」


「私のことも?」


「あなたはグライフの搭乗者です」


あくまで評価対象だから。


そう言いたいのだろう。


けれど、彼女の視線はグライフではなく、私の左脚へ向けられていた。


「昨日の疲労は?」


「残ってないよ。検査でも問題なし」


「夜は眠れましたか?」


「一度だけ目が覚めたけど、事故の夢は見なかった」


「そうですか」


クラウディアの肩から、わずかに力が抜ける。


「やっぱり心配してる?」


「搭乗者の状態確認です」


「合同評価は終わったんでしょう?」


「……あなたは、いちいち余計なところへ気づきますね」


否定はしなかった。


クラウディアが白銀色の機体を見上げる。


「私は、あなたの復帰を認めたわけではありません」


「うん」


「グライフが安全な機体だとも思っていません」


「それも分かってる」


「だから、記録を見ます」


彼女は私へ向き直った。


「あなたがまた無茶をしていないか。グライフがあなたを危険へ引き込んでいないか。第一航空師団から確認します」


『私はリサを危険へ引き込みません』


格納庫の通信装置からグライフが反論する。


「あなたには聞いていません」


『不正確な発言を修正しました』


「相変わらず面倒な機体ですね」


『クラウディア中尉から同一の評価を二度確認しました』


「数えなくて結構です」


クラウディアは小さく息を吐く。


その口元には、ほんのわずかに笑みが浮かんでいた。


「リサ」


「何?」


彼女が私の名を呼ぶ。


「次に会うときは」


深い青色の瞳が、朝の空を映している。


「地上ではなく、空で会いましょう」


返事をするより先に、クラウディアは昇降台へ乗った。


コクピットブロックが閉じ、白銀色の機体が動き始める。


やがて機体は滑走路を離れ、青空へ上がっていった。


私は、その姿が雲の向こうへ消えるまで見送った。


『リサ』


「うん」


『クラウディア中尉を追いますか?』


「今は追わない」


昨日なら、反射的に追いかけようとしたかもしれない。


けれど、今はまだそのときではない。


「次に会ったとき、ちゃんと同じ空を飛ぶ」


代わりでも、過去の影でもない。


クラウディアはクラウディアとして。


私は、今の私として。


いつか同じ空へ並ぶ。

お読みいただきありがとうございました。

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