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一メートルの空

ご覧いただきありがとうございます。

低高度浮上試験の朝、私の左足はいつもより重かった。


痛みはない。


けれど、床へ足を着いた瞬間、身体の左側だけが寝台に置き忘れられているような感覚がした。


「……反応、少し遅い」


宿舎の部屋で、声に出して確認する。


立ち上がる。


右足へ体重が偏った。


左膝へ意識を向け、ゆっくり重心を戻す。


歩ける。


ただ、普段より少し注意が必要だった。


昨日は飛行訓練をしていない。


それでも、地上走行試験で神経を使いすぎたのだろう。


机の上の通信端末が淡く光る。


『起床を確認しました。体調報告を求めます』


「おはよう、グライフ」


『おはようございます、リサ』


「左足が少し重い。痛みはないけど、普段より反応が遅い気がする」


『歩行音からも、左脚の接地時間が通常より〇・一四秒長いことを確認しています』


「そこまで分かるんだ」


『追加の生体情報取得を許可しますか?』


以前、許可なく確認されて嫌だったと伝えてから、グライフは必ず尋ねるようになった。


「許可するよ」


『ありがとうございます』


首の後ろに埋め込まれた端子が、わずかに温かくなる。


『左下肢の神経疲労が通常値より十九パーセント高い状態です』


「今日の試験、できる?」


『私には最終判断権限がありません』


「グライフの判断では?」


『浮上試験そのものは可能です。ただし、補正率を上げる必要があります』


「どれくらい?」


『通常補正の八十パーセントを提案します』


地上走行試験では、補正を五十パーセントまで下げた。


自分の左側の遅れを知り、自分で扱うために。


今日、補正を八十パーセントへ戻せば、グライフが私の弱い部分を大きく肩代わりすることになる。


「六十パーセントじゃ駄目?」


『理由を求めます』


「自分でも操作したいから」


『本日の目的は、リサが補正なしで機体を制御することではありません』


「分かってるけど」


『浮上状態では地面との接触がありません。地上走行時より、小さな姿勢変化が大きな移動へつながります』


グライフの声は冷静だった。


『安全を優先してください』


安全。


その言葉を聞くたび、胸の奥に小さな反発が生まれる。


安全だけを求めるなら、飛ばなければいい。


軍を辞め、両親の会社へ戻ればいい。


でも、そうしなかったから私はここにいる。


とはいえ、補正を拒んで墜落したら意味がない。


「……分かった。八十パーセントで」


『適切な判断です』


「少し悔しい」


『悔しいという感情は、試験結果に有益ですか?』


「次に上手くなりたいと思えるから、有益」


『学習しました』


「それに、今日は一メートル浮くだけだからね」


『一メートルの落下でも、機体の接地姿勢が不適切であれば主脚を損傷します』


「グライフ」


『はい』


「今日、少し厳しくない?」


『リサが浮上試験を過小評価しているためです』


言い返せなかった。


胸の中では、もう空へ上がることばかり考えている。


一メートル。


たった一メートル。


でも、グライフの言うとおりだ。


地面から離れた瞬間、この子は二十トンを超える航空機になる。


脚を滑らせても支える手はない。


「試験手順を守ります」


『約束を記録しました』


「毎回記録するね」


『リサの約束には、記録が必要です』


「信用されてないなあ」


『過去の行動に基づく合理的判断です』


朝から少しだけ傷ついた。


◇◆◇


「浮上試験は延期よ」


医務室へ入って五分後。


ミラ軍医は、私の期待をあっさり切り捨てた。


「えっ」


「左下肢の神経疲労が残っている」


「グライフは、補正を上げれば可能だと」


「グライフは軍医ではないわ」


『異議はありません』


壁際の通信装置から、グライフが即答した。


「そこは反論しないんだ」


『医療判断はミラ軍医を優先するよう、リサから命令されています』


「私が言ったんだった」


検査台へ腰掛けたまま、私は左脚を見下ろした。


ミラ軍医が膝下へ測定器を当てる。


「昨日の試験で、左脚の神経経路へ小さな炎症反応が出ている。通常なら一日休めば戻る範囲だけれど、今日はまだ残っているわ」


「痛くないです」


「痛みがなければ正常だと思わないこと」


「でも、一メートル浮くだけです」


ミラ軍医の指が止まった。


「リサ」


「はい」


「あなたは今、試験を小さく見せて許可を取ろうとしている」


「そんなつもりは……」


「あるわ」


穏やかな声だった。


だからこそ、逃げられない。


「地上走行のときは、時速三キロだから大丈夫。今日は一メートルだから大丈夫。次は低速飛行だから大丈夫。そうやって少しずつ、自分に都合のいい理由を作るつもり?」


「違います」


「では、今日でなければならない理由は?」


言葉が出なかった。


試験日程が一日遅れる。


それだけだ。


戦争が始まっているわけでもない。


誰かを救うため、今すぐ飛ばなければならないわけでもない。


ただ、私が待てないだけ。


「……早く飛びたいからです」


「正直でよろしい」


ミラ軍医が端末へ記録する。


「でも、それは医学的理由にはならないわね」


「はい」


肩が落ちる。


分かっている。


正しい判断だ。


それでも悔しい。


「ただし」


ミラ軍医が続けた。


「午前中の再検査で疲労値が規定内まで下がれば、午後の試験を許可する可能性はある」


「本当ですか?」


「安静にすること。訓練は禁止。基地内を走り回るのも禁止」


「走り回りません」


「格納庫へ見に行くのも禁止」


「どうしてですか?」


「見に行ったら、機体へ乗りたくなるでしょう」


「見るだけです」


「あなたの見るだけは信用できないわ」


『同意します』


「グライフまで」


『過去の行動に基づく――』


「合理的判断なんでしょう。分かってる」


私は検査台から降りた。


左足へ体重をかける。


確かに少し鈍い。


乗ってしまえば問題ないと思っていた。


その考え自体が、無理をする始まりなのかもしれない。


「宿舎で休みます」


「食堂と宿舎以外は立入禁止ね」


「はい」


「ノアに監視を頼んでおくわ」


「そこまでしなくても」


「必要よ」


ミラ軍医はにっこり笑った。


やはり逆らえない。


◇◆◇


「だから来たのか」


宿舎の談話室で、ノアが工具箱を机へ置いた。


「監視役として?」


「違う。作業場所を変えただけ」


「その箱、何?」


「君の耐Gスーツ用の予備接続部品」


ノアは椅子へ座り、小さな接続金具を取り出した。


「太腿側の端子は軍の標準規格じゃない。故障したとき、交換部品を開発局へ申請する必要がある」


「すぐには届かないの?」


「届くかどうかも分からない」


「どういうこと?」


「部品番号がない」


以前、ドロテア技師が言っていた。


私の身体に埋め込まれた端子は、製造時に識別情報が消されている。


「だから、僕たちで予備部品を作る」


「作れるの?」


「完全な複製は無理。でも、スーツ側の接続部なら、今ある部品を組み合わせて代用品を作れる」


ノアは小さな工具を使い、金属部品を削り始めた。


作業中の表情は真剣だった。


「本当は、グライフの整備班に入ったんじゃないよね」


「何の話?」


「私がここへ来るから志願したんでしょう」


ノアの手が止まった。


「前にも言ったけど、事故の後に航空機整備科へ進んだんだよね」


「そうだよ」


「どうして?」


「機械が好きだったから」


「前は輸送船の運航管理科へ行くって言ってた」


初等学園の頃、ノアは両親の会社で働くつもりだった。


飛行船団の整備や航路管理。


私が空軍へ行っても、いつか同じ空路で会えると言っていた。


「気が変わった」


「病室で私を見たから?」


工具の擦れる音が止まる。


ノアはしばらく何も言わなかった。


「左腕も脚もなくて、呼吸器につながれてた私を見て、整備士になろうと思った?」


「……あの事故が、機体故障だったから」


「調査では複合故障って」


「壊れた理由を誰も説明できなかった」


ノアの声が低くなる。


「整備記録は正常。発進前点検も問題なし。制御装置は複数が同時に壊れた。そんな偶然が本当に起こるのか、僕には分からなかった」


「事故を調べるため?」


「最初は、そうだった」


「今は?」


ノアが私を見る。


「次に君が乗る機体を、少しでも安全にしたい」


まっすぐな言葉だった。


胸が少し痛くなる。


「私が飛ばなければ、ノアもこんな危険な部隊へ来なくてよかったのに」


「それは僕が決めることだ」


昨日、グライフから言われたことと似ていた。


誰かに道を用意されても、歩くのは自分。


「リサが空軍に残ると決めたように、僕もここへ来ると決めた」


「怖くない?」


「怖いよ」


ノアは笑わなかった。


「グライフの部品を確認していると、事故機の残骸を思い出す。焦げた配線とか、潰れた固定具とか」


病院で泣いていたノア。


あのときの彼も、事故の中に取り残されている。


私は自分の恐怖ばかり考えていた。


「ごめん」


「謝るなよ」


「でも」


「リサが墜落したのは、僕のせいじゃない。僕が怖いのも、リサのせいじゃない」


ノアは再び工具を動かす。


「だから、それぞれやれることをやる。それでいい」


「ノア、強くなったね」


「君が無茶ばかりするから」


「そこは関係ないと思う」


「大いにある」


通信端末が光った。


『ノア=クライン技術兵の意見を支持します』


「グライフ、聞いてたの?」


『リサが通信を切断していませんでした』


「最初から?」


『はい』


ノアが端末を睨む。


「個人的な会話を聞くな」


『リサとの会話は優先取得対象です』


「切っておけばよかった」


『なぜですか?』


「何でも機体に聞かせる必要はないからだ」


『私はリサの身体と生命を預かる機体です。リサの精神状態を理解する必要があります』


「それでも、全部じゃない」


『理由を求めます』


ノアとグライフの間に、また見えない火花が散り始める。


「二人とも」


私は通信端末を手に取った。


「グライフは聞く前に、一言確認して。ノアも、グライフが心配していることは分かってあげて」


『了解しました』


「……分かった」


二人とも、不満そうだった。


「なんだか、弟と妹の喧嘩を止めてるみたい」


『私はリサの妹ではありません』


「僕も弟じゃない」


また声が重なった。


思わず笑ってしまった。


◇◆◇


午後一時。


再検査の結果、神経疲労値は規定値を下回り、短時間の浮上試験であれば許可できる範囲まで回復していた。


「条件つきで許可するわ」


ミラ軍医が言った。


「浮上は一回のみ。高度一メートル。滞空時間は十秒。再試行は認めない」


「一回で成功させます」


「その言い方は嫌いね」


「どうしてですか?」


「失敗できないと思うと、異常が起きても続けるでしょう」


確かに。


「失敗しても中止します」


「よろしい」


「それと、補正率は八十パーセントで」


「グライフから聞いたわ。妥当な判断ね」


ミラ軍医は私の左膝を軽く叩く。


「今日は自分の弱さと戦う試験ではない。グライフと安全に浮く試験よ」


「はい」


「試験後は、結果にかかわらず二十四時間の飛行関連訓練禁止」


「そこまで?」


「異論があるなら、今ここで許可を取り消すわ」


「異論ありません」


即答した。


その様子を見て、ミラ軍医が小さく笑う。


「本当に飛びたいのね」


「はい」


「なら、生きて長く飛びなさい」


ヘルガ少佐と同じ。


イザーク大尉と同じ。


この部隊の人たちは、飛ぶことより帰ってくることを大切にする。


花形部隊にいた頃は、速さや戦果ばかり求められた。


帰投は当然のことだった。


でも、本当は違う。


帰るところまでが飛行なのだ。


◇◆◇


午後の試験区画には、普段より多くの人間が集まっていた。


整備員。


管制官。


兵器開発局の監査担当。


さらに、見慣れない黒い儀礼服の軍人たちが、防爆壁上の観測室へ入っていく。


「今日は見学者が多いんですね」


耐Gスーツの調整を受けながら尋ねると、ドロテア技師が肩をすくめた。


「グライフの初浮上だからね。開発局も軍上層部も興味津々」


「上の観測室にいる人たちは?」


「私たちには関係ないよ。見られてても、やることは同じ」


そう言われても気になる。


観測室の窓は反射処理され、内部は見えない。


『リサ』


通信端末を通じて、グライフの声が聞こえる。


『観測室内に、皇太子アレクシス=ルートヴィヒ=ヴァルグレン殿下がいます』


「皇太子殿下?」


声が裏返った。


「どうして?」


『次世代兵器開発計画の視察です』


ドロテア技師が額を押さえる。


「グライフちゃん、そういう重要情報は先に言おうね」


『質問されませんでした』


「聞かれなくても言うの」


『学習しました』


帝国の皇太子。


次期皇帝。


軍の最高監督官補佐として、国防政策にも関わっている。


年齢は私と同じ十七歳だと聞いている。


そんな人が、私の試験を見ている。


「緊張してきた」


『心拍数上昇を確認しました』


「皇太子殿下に見られてるんだよ」


『試験手順に変更はありません』


「分かってるけど」


『アレクシス殿下は、リサの操縦へ直接介入できません』


「そういう問題じゃないよ」


遠くからヴィオラ中尉が近づいてくる。


「観測室を見るのはやめなさい」


「はい」


「皇太子殿下がいようと、失敗する確率は変わらないわ」


「励ましています?」


「事実を言っているだけよ」


「少しだけ楽になりました」


「そう」


ヴィオラ中尉は試験区画を見る。


「今日は風が不安定よ。地上では毎秒二メートル前後だけれど、格納庫と防爆壁の間で流れが変わる」


「一メートルでも影響がありますか?」


「グライフの姿勢制御なら問題ない。ただし、あなたが過剰に修正しなければね」


「補正は八十パーセントです」


「機体へ任せる部分と、自分で行う部分を明確にして」


「高度と水平姿勢はグライフ。私は方向と出力の承認」


「いいでしょう」


彼女が私の耐Gスーツの左腕へ触れた。


「無理だと思ったら、殿下の前でも止めなさい」


「はい」


「試験を中止する勇気も、パイロットの能力よ」


その言葉を胸に、私はグライフへ向かった。


◇◆◇


コクピットへ入り、固定台へ身体を預ける。


右腕。


左腕。


両脚。


腰。


胸部。


今日も一つずつ固定される。


胸部固定具が近づいたとき、身体が強張った。


「少し待って」


『停止しました』


「大丈夫じゃない。怖い。でも、呼吸はできる」


『継続しますか?』


「うん」


固定具が閉じる。


コクピットが暗くなる。


『神経リンクを開始します』


アルフォンスの声。


『上限三十五パーセント。自発上昇抑制、三重に設定』


「三重?」


『前回までの結果を考慮した』


『私は必要性が低いと判断しています』


グライフが不満そうに言う。


『お前の判断は聞いていない』


『技術的反論を行っています』


『後にしろ』


二人のやり取りを聞きながら、意識が機体へ広がっていく。


『深度十パーセント』


翼が戻る。


『二十パーセント』


機体の輪郭が身体になる。


『三十パーセント』


動力炉の鼓動。


姿勢制御噴射口。


主脚にかかる重量。


『三十二パーセントで固定』


昨日までより深い。


グライフの存在が近い。


言葉を聞く前に、何をしようとしているか分かる気がした。


『補正率八十パーセント』


『リサの左下肢疲労、増加なし』


ミラ軍医。


『機体各部、正常』


ノアの声も聞こえる。


外部映像に、試験区画が広がる。


黄色い浮上地点。


周囲に配置された高さ一メートルの確認灯。


『管制よりグライフ。浮上地点への移動を許可』


「了解」


地上走行で機体を指定位置へ動かす。


左の遅れは、ほとんど感じない。


グライフが補正している。


でも、完全に消してはいない。


少しだけ、私の身体の癖を残してくれている。


『浮上地点、到達』


『主脚位置、許容範囲内』


『風速、毎秒二・四。西南西』


ハンナ少尉の報告が続く。


『VTOL系統、起動準備』


機体腹部へ力が集まる。


地上始動試験で、七・四センチだけ浮いたときの感覚。


今日は、その十三倍以上。


胸が高鳴る。


『リサ。高度制御は私が担当します』


「方向維持は私」


『横風補正を私が行います』


「出力変更は管制命令に従う」


『確認しました』


『浮上試験を開始する』


イザーク大尉の声。


『VTOL出力、一パーセント』


機体の下で空気が震えた。


砂と小石が吹き飛ぶ。


『二パーセント』


主脚へかかる重量が軽くなる。


『三パーセント』


機体が持ち上がろうとする。


胸の奥に、期待と恐怖が同時に膨らむ。


『四パーセント』


主脚が地面を離れた。


「浮いた……」


『高度〇・二メートル』


グライフの身体が、空中にある。


地面へ触れていない。


『高度〇・五』


外部映像で、機体の影が少し離れる。


その瞬間。


地面が迫ってきた。


違う。


今は上がっている。


でも、目の前には事故の日の地表が広がった。


回転する空。


近づく市街地。


警告音。


身体を押し潰す固定具。


「っ……!」


『リサ、心拍数急上昇』


『呼吸数増加!』


ミラ軍医の声が響く。


『高度〇・七メートル』


『浮上継続を中止するか?』


イザーク大尉。


止めたくない。


あと三十センチ。


一メートルまで行きたい。


「続け……られます」


『正確な報告を』


グライフが言う。


地面が近づく。


違う。


今は離れている。


分かっているのに、身体が墜落を再現する。


「怖い……地面が、上に来る」


『外部映像の一部を遮断します』


視界から地面が消えた。


機体の水平線と姿勢情報だけが残る。


『現在高度〇・七三メートル。下降していません』


「分かってる」


『リサ。浮上を中止しますか?』


グライフは続けろとは言わなかった。


私の判断を待っている。


胸が苦しい。


でも、呼吸はできる。


意識もある。


機体の姿勢は安定している。


地面が見えなければ、事故の映像も少し薄くなった。


「続ける。でも、あと二十七センチはグライフが上げて」


『了解しました』


自分で全部やろうとしない。


今は、この子へ任せる。


『高度制御を完全取得』


グライフが静かに出力を上げる。


『〇・八メートル』


身体がわずかに持ち上がる。


『〇・九』


息を吐く。


『一・〇メートル』


確認灯が機体と同じ高さに並んだ。


『指定高度到達』


私は一メートルの空にいた。


地上から見れば、ほんのわずかな高さ。


人間なら、手を伸ばせば届く。


でも、私にとっては事故後初めて、自分の意思で到達した空だった。


『滞空時間、計測開始』


十秒。


長く感じる。


西南西から風が吹く。


機体が右へ押される。


グライフが姿勢制御噴射口を使う。


私は機首方向を維持する。


『横移動、〇・一メートル』


『許容範囲内』


四秒。


五秒。


呼吸が少し落ち着く。


「グライフ」


『はい』


「飛んでるね」


『広義には飛行です』


「今日はヴィオラ中尉に怒られそう」


『事実です』


七秒。


そのとき、試験区画へ強い横風が吹き込んだ。


格納庫の壁に沿って流れた風が、機体の左翼下へ入り込む。


『突風! 毎秒八・二!』


ハンナ少尉の声。


左翼が持ち上がる。


機体が右へ傾いた。


「うっ!」


『姿勢角、右へ四度!』


『グライフ、補正!』


『実行中』


姿勢制御噴射口が連続で作動する。


しかし、傾いた感覚が事故の回転と重なった。


空と地面が入れ替わる。


翼が折れる。


警告。


「墜ちる!」


『墜落していません』


グライフの声が強く響く。


『現在高度〇・九六メートル。姿勢角二・一度。復元中です』


「右が落ちてる!」


『認識しています』


私は反射的に左へ修正しようとした。


『リサ、操作しないでください』


「でも!」


『私が姿勢を戻します。リサは機首方向を維持してください』


全部やろうとするな。


役割を分ける。


高度と姿勢はグライフ。


方向は私。


試験前に決めたことだ。


「分かった。方向だけ見る」


機首が風下へ流れようとする。


私は正面の基準線へ意識を集中させた。


左へ向ける。


左側の信号はグライフが補正する。


追加命令を出さず、待つ。


機首が戻る。


『姿勢角〇・五度』


グライフが機体を水平へ戻した。


『高度一・〇一メートル』


『規定時間十秒、経過!』


ハンナ少尉。


『着地へ移行!』


グライフが出力を下げる。


地面が再び見える。


身体が強張る。


今度は、落ちているのではない。


帰っている。


『高度〇・七』


ゆっくり。


『〇・四』


主脚が地面へ近づく。


『〇・二』


接地。


柔らかな衝撃が機体全体へ伝わった。


主脚が重量を受け止める。


『全脚、接地確認』


『VTOL系統停止』


『機体姿勢、正常』


『浮上試験、終了』


私は大きく息を吐いた。


全身から力が抜ける。


「……戻った」


『はい』


「墜ちなかった」


『当然です』


グライフの声は、いつもどおり冷静だった。


でも、思考のすぐ隣で、何かが大きく安堵している気がした。


『リサ』


「何?」


『よく、役割を維持しました』


「グライフが戻してくれたから」


『リサが過剰操作を停止したため、私が適切に補正できました』


「一緒にできたね」


『はい』


私は目を閉じた。


地面から一メートル。


十秒間。


途中で風に煽られ、事故を思い出した。


怖かった。


今も手が震えている。


それでも、途中で自分の状態を伝えた。


できない部分をグライフへ任せた。


そして、無事に戻った。


『管制よりリサ』


イザーク大尉の声。


『試験は合格だ』


「ありがとうございます」


『ただし、後半の反射操作は危険だった。反省会で詳しく確認する』


「はい」


『それでも』


短い間。


『よく戻った』


「……はい」


その一言が、胸へ深く染み込んだ。


◇◆◇


コクピットが開くと、ノアが昇降台へ上がってきた。


「リサ!」


「大丈夫じゃない。手が震えてる。呼吸は少し速い。左足は重いけど、痛くない」


一息に報告する。


ノアは何か言いかけ、少しだけ笑った。


「完璧な報告」


「成長したでしょ?」


「試験中、死ぬほど心配した」


「ごめん」


「でも、戻ってきた」


ノアが固定具の解除を手伝う。


右腕。


左腕。


両脚。


腰。


胸部。


最後の固定が外れた瞬間、身体が少し震えた。


ノアがすぐに背中へ手を回す。


「立たなくていい」


「歩けるよ」


「医務班の椅子が来るまで待つ」


以前なら反発していた。


でも、今は素直に頷いた。


「分かった」


昇降台の下では、ミラ軍医が検査装置を持って待っている。


ヴィオラ中尉も腕を組んでいた。


表情は厳しい。


「着地、おめでとう」


意外な言葉だった。


「浮上じゃなくて、着地なんですね」


「浮くことより、戻ることの方が重要だからよ」


「はい」


「突風時の初動は失格」


やっぱり厳しい。


「事故記憶へ引きずられ、反対方向へ過剰入力しかけた」


「分かっています」


「ただし、途中で自分の役割へ戻った」


「グライフに言われたからです」


「言われても止められない人間はいるわ」


ヴィオラ中尉は私の目を見る。


「今日のあなたは、元天才の飛び方ではなかった」


胸がわずかに痛む。


でも、その後に続いた言葉は違った。


「試験パイロットの飛び方だった」


「……ありがとうございます」


「まだ一メートルよ」


「分かっています」


「次は五メートル。その次は十。高度が上がれば、恐怖も負荷も大きくなる」


「はい」


「今日できたことが、次もできるとは限らない」


「それでも、次も戻ります」


ヴィオラ中尉は一瞬だけ目を細めた。


「それでいいわ」


◇◆◇


検査と反省会を終えた頃には、夕方になっていた。


試験区画へ戻ると、観測室前に黒い儀礼服の一団が立っている。


中央にいたのは、金色に近い淡い髪を持つ少年だった。


年齢は私と同じくらい。


整った顔立ちと、澄んだ青灰色の瞳。


儀礼服には帝国皇室の紋章が刺繍されている。


アレクシス=ルートヴィヒ=ヴァルグレン皇太子殿下。


実際に見ると、年齢以上に落ち着いて見えた。


けれど、肩に掛けられた金の飾緒や胸元の勲章は、彼の細い身体には重そうだった。


「リサ=エルフォート少尉候補生」


殿下が私の名を呼んだ。


私は慌てて姿勢を正し、敬礼する。


「お初にお目にかかります。殿下」


「楽にしてほしい。今日は軍務視察だ」


「はい」


楽にと言われても、できるはずがない。


ヘルガ少佐が私の隣に立つ。


「殿下。候補生は試験直後です。長時間の面談は避けていただきたい」


「承知している。短く済ませよう」


皇太子に対しても、ヘルガ少佐は普段と変わらない。


殿下も不快そうな顔をしなかった。


「浮上試験を見た」


「失敗しかけました」


反射的に答えてから、余計なことを言ったと思った。


けれど、殿下は静かに首を振った。


「試験中に予定外の事象が起きるのは、失敗ではない。その状況で何を得るかが試験の価値だと、ロートマン少佐から聞いている」


「はい」


「突風を受けた際、君は一度、誤った操作をしかけた」


「そのとおりです」


「しかし、機体と役割を分けて立て直した」


よく見ている。


儀礼的な視察ではなく、試験内容を理解しているのだ。


「恐怖はあったか?」


まっすぐな問いだった。


「ありました」


「墜落事故を思い出した?」


「はい。地面が迫ってくるように見えました」


周囲の軍人が、わずかに表情を変えた。


皇太子殿下の前で、パイロットが恐怖を口にするのは適切ではないのかもしれない。


でも、隠さないと決めている。


「それでも続けた理由は?」


「続けられる状態だと判断したからです」


「勇気を示すためではなく?」


「違います」


少しだけ迷い、続ける。


「正直に言えば、一メートルまで上がりたい気持ちはありました。でも、無理だと思ったら止めるつもりでした」


「本当に?」


ヴィオラ中尉と似た問い方だった。


「以前の私なら、止めなかったと思います」


事故前の私。


天才と呼ばれ、できないと言えなかった私。


「今は、戻ることも試験だと教わっています」


殿下はしばらく私を見つめた。


年齢は同じ。


けれど、その視線には人の命を預かる立場の重さがあった。


「帝国は、優秀な兵士へ無理を求めることがある」


静かな声だった。


「国益。任務。民の安全。その言葉を使えば、個人へ犠牲を求めることは容易だ」


周囲の空気が緊張する。


皇太子自身が口にするには、重い言葉だった。


「君の事故も、帝国は宣伝に利用した」


胸が小さく痛んだ。


「はい」


「表彰そのものを否定するつもりはない。君が民間人を守った事実は尊重されるべきだ」


殿下の指が、儀礼服の袖をわずかに握る。


「だが、十六歳の少女が身体を失うほどの重傷を負った事実を、英雄という言葉だけで覆うべきではなかった」


意外だった。


皇室も軍も、私を英雄として扱った。


その中心にいる人物から、そんな言葉を聞くとは思わなかった。


「申し訳ない」


殿下が言った。


「殿下が謝ることではありません」


「皇族は、帝国の行為に責任を持つ」


「でも、殿下は事故を起こしていません」


「そうだ。それでも、責任がないことにはならない」


言葉に詰まった。


常に皇太子として正しくあろうとする人。


そんな印象を受けた。


自分の感情ではなく、立場として謝っている。


でも、その目には本当の痛みもあった。


「私は、空軍を恨んでいません」


「そうなのか?」


「事故は怖いです。軍の広報には、今でも少し腹が立っています」


ヘルガ少佐が小さく咳払いした。


皇太子殿下の前で言いすぎたかもしれない。


けれど、殿下はわずかに口元を緩めた。


「正直だな」


「隠すと、ミラ先生にベッドへ縛られるので」


殿下の側近たちが目を見開く。


ヘルガ少佐が額を押さえた。


皇太子殿下は一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。


年相応の笑顔だった。


「それは恐ろしいな」


「はい。グライフも止めてくれません」


『ミラ軍医の医療判断は最優先です』


試験区画の通信装置から、グライフの声が響いた。


側近たちが一斉に黒い機体を見る。


殿下は驚くより、興味深そうに目を細めた。


「君がグライフゼロか」


『はい。アレクシス=ルートヴィヒ=ヴァルグレン皇太子殿下』


「リサを守ったと聞いた」


『リサも私の姿勢制御を補助しました』


「互いに守ったということか」


『適切な表現です』


殿下はグライフを見上げた。


「彼女を、兵器の部品として扱わないでほしい」


『その要求は不要です』


側近の一人が眉をひそめる。


けれど、グライフは続けた。


『リサは部品ではありません』


「では、何だ?」


少しの沈黙。


『私の搭乗者です』


それだけだった。


けれど、その言葉がどこか誇らしげに聞こえた。


「そうか」


殿下が私へ視線を戻す。


「次の試験も見たいところだが、明日には帝都へ戻らなければならない」


「お忙しいんですね」


「皇太子だからな」


笑顔はすぐに消えた。


望みより国益を優先する。


設定資料に書かれていた言葉ではなく、目の前の少年自身からそれを感じた。


「次に会うとき、君はもう少し高く飛んでいるだろうか」


「必ず、とは言いません」


以前なら、必ずと答えた。


「でも、少しずつ上がります」


「それでいい」


殿下は小さく頷いた。


「急ぐ者ほど、足元を見失う。私自身も覚えておこう」


それは私への言葉であると同時に、自分へ言い聞かせているようにも聞こえた。


◇◆◇


皇太子殿下の一行が観測区画を離れていく。


黒い儀礼服に飾られた金の飾緒が、夕日の中で小さく揺れていた。


同じ十七歳。


それなのに、あの背中には帝国という国そのものが載せられているように見えた。


「皇太子だからな」


殿下はそう言った。


まるで、それだけで自分の望みを諦める理由になるかのように。


『リサ』


「何?」


『アレクシス殿下を見ています』


「うん」


『心拍数がわずかに上昇しています』


「そういうの、毎回言わなくていいよ」


『不快でしたか?』


「不快じゃないけど……少し恥ずかしい」


グライフの青い光が、静かに明滅する。


『アレクシス殿下に関心がありますか?』


「あるよ」


答えてから、少し考える。


「皇太子だからじゃなくて、あの人自身が少し気になる」


『理由を求めます』


「私と似ているところがある気がしたから」


『リサと皇太子殿下は、身体構造、家系、軍籍、権限のすべてが異なります』


「そういう意味じゃないの」


私は小さく笑った。


「自分の人生なのに、自分だけでは決められないところ」


私には空を飛ぶ才能があった。


事故のあと、その才能を必要とする誰かによって、知らないうちに身体を作り替えられた可能性がある。


アレクシス殿下は、生まれたときから皇太子だった。


彼が望んだわけではない。


それでも、帝国の責任を背負わされている。


「殿下も、怖いって言えるのかな」


『質問の回答は、本人へ確認する必要があります』


「簡単には聞けないよ」


『なぜですか?』


「人間には、聞かれたくないこともあるの」


『リサは私に多くの質問を許しています』


「グライフが遠慮しないだけでしょう」


『否定できません』


格納庫の向こうで、夕日が地平線へ沈み始めていた。


私は今日、一メートルの空へ上がった。


ほんの十秒。


手を伸ばせば、地上から届きそうな高さ。


それでも、そこから見えたものは、試験区画の地面だけではなかった。


私とは違う重さを抱えながら、それでも立ち続けている人がいる。


怖いと言えないまま、歩いている人がいる。


もしかすると、空へ戻ろうとしているのは私だけではないのかもしれない。


アレクシス殿下の背中が、基地の建物の向こうへ消える。


一メートルの空で出会った少年のことを、私はもう少し知りたいと思った。

お読みいただきありがとうございました。

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