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まっすぐ進むという難しさ

ご覧いただきありがとうございます。

地上始動試験から三日後。


私とグライフは、ようやく格納庫の外へ出る許可をもらった。


ただし、飛行許可ではない。


試験内容は低速地上走行。


専用試験区画に引かれた誘導線に沿い、時速十キロメートル以下で前進、停止、旋回を行う。


人間が早足で歩く程度の速度だ。


「戦闘機に乗って、人と競走したら負ける速度だね」


朝食のパンをちぎりながら言うと、向かいに座っていたノアが呆れた顔をした。


「機体重量二十一トンの試作機を、人間と競走させないでくれ」


「グライフはもっと軽いよ」


「二十・四トン。十分に重い」


『正確には、現在の試験装備を含めて二十・三七八トンです』


机の上に置いた小型通信端末から、グライフの声が流れた。


「朝食中くらい黙っていられないのか?」


ノアが端末を見る。


『リサとの会話は、私の人格モデルに必要な学習です』


「何を学習してるんだよ」


『日常会話です』


「軍用AIに必要?」


『リサとの円滑な意思疎通に必要です』


いつものように、グライフは迷いなく答える。


この三日間、私たちは通信端末を通じて何度も話をした。


試験手順。


機体構造。


基地内の規則。


食堂の献立。


私が好きだった飛行競技の話。


幼い頃、両親の輸送船へ乗せてもらい、初めて雲を上から見た日のこと。


グライフは自分から話題を作ることは少ない。


けれど、私が話せば何でも聞いた。


ときには、どうして嬉しかったのか、どうして悲しかったのかと、細かく尋ねてくる。


機体制御には必要のない情報ばかりだと思う。


それでもグライフは、私を知るために必要だと言った。


「ねえ、グライフ」


『はい』


「今日の地上走行、楽しみ?」


『機能確認への期待があります』


「もう嬉しいって言っていいんじゃない?」


『感情の分類精度が不足しています』


「私と話しているときは?」


通信端末の光が小さく明滅した。


『優先度の高い時間です』


「それ、結構恥ずかしい言い方だよ」


『不適切でしたか?』


「不適切じゃないけど……」


頬が少し熱くなった。


ノアがパンを置き、通信端末をじっと見つめる。


「グライフ」


『はい、ノア=クライン技術兵』


「リサの生活時間すべてを独占するつもりじゃないだろうな」


『独占の定義を提示してください』


「朝から晩まで話しかけるとか、どこへ行くにも端末を持たせるとか」


『リサが望まない場合は行いません』


「望んだら?」


『継続します』


「そうか……」


ノアの声が少し低くなった。


私は慌てて話題を変える。


「今日はノアも外部監視につくんだよね?」


「うん。右主翼側の目視担当。低速でも異音や表面の変化はセンサーだけじゃ分からないから」


「よろしくお願いします」


「任せて。何かあったら、すぐ止める」


『私が先に検出します』


「人間にしか分からないこともあるんだよ」


『その可能性は認めます』


グライフが素直に答えると、ノアは少しだけ満足そうに頷いた。


幼馴染と機体が張り合っているように見えるのは、私の気のせいだろうか。


「エルフォート」


背後からヴィオラ中尉の声が飛んできた。


振り返ると、彼女は朝食用の飲み物を片手に立っていた。


「試験開始一時間前よ。食事は開始三十分前までに済ませなさい」


「はい。もう食べ終わります」


「食べ終えることが目的ではないわ。胃へ負担をかけず、必要な栄養を取ることが目的よ」


そう言いながら、彼女の視線が私の皿へ落ちる。


「パンとスープだけ?」


「緊張すると、あまり食べられなくて」


「卵も食べなさい」


「でも――」


「試験後に低血糖を起こしたければ、好きにすればいいわ」


ヴィオラ中尉は自分の盆から茹で卵を一つ取り、私の皿へ置いた。


「ありがとうございます」


「余っていただけよ」


そう言い残し、彼女は別の席へ向かった。


ノアが茹で卵とヴィオラ中尉の背中を交互に見る。


「最初より、少し優しくなった?」


「そうかな」


『ヴィオラ中尉は、今朝の食堂入場時からリサの食事量を三度確認しています』


「見てたんだ」


『格納庫外の基地内監視映像へは接続していません。食堂端末の音声から推測しました』


「音だけでそこまで分かるの?」


『ヴィオラ中尉は入室後、リサの食器へ関する質問を二度、ハンナ少尉へ行いました』


離れた席で食事をしていたヴィオラ中尉の肩が止まった。


「グライフゼロ」


『はい』


「余計な記録を開示しないで」


『了解しました』


ヴィオラ中尉は一度もこちらを見ないまま、飲み物を口へ運んだ。


耳が少しだけ赤い。


私は笑いそうになるのを我慢し、茹で卵を手に取った。


◇◆◇


専用地上試験区画は、格納庫の北側に設けられていた。


広い舗装面の上に、黄色と白の誘導線が引かれている。


前進区間。


停止位置。


左右の旋回区間。


機体幅ぎりぎりに置かれた標識柱を通り抜ける精密走行区間。


その周囲を分厚い防爆壁が囲んでいた。


空は薄曇り。


風速は毎秒二・一メートル。


雨の予報はない。


飛行試験ではないのに、天候まで細かく確認されている。


「航空機は地上でも風の影響を受ける」


格納庫前で点検を続けながら、バルド班長が言った。


四十一歳の熟練整備士。


短く刈った灰色の髪と、大きな手。


必要なこと以外はほとんど話さない人だ。


「特に、こいつは姿勢制御口が多い。横風を機体が勝手に補正すれば、地上で妙な動きをする」


「分かりました」


「分かるだけじゃ駄目だ。感じたことを全部言え」


「はい」


グライフの機体各部には、地上走行用の仮設観測装置が取りつけられている。


主脚の荷重。


車輪の回転。


姿勢制御噴射口の反応。


機体と路面の距離。


整備員たちが最後の確認を行う横で、ノアは右主脚の周辺へ潜り込んでいた。


「ノア、どう?」


「右主脚、問題なし。車輪駆動系統も正常」


戦闘機の地上移動は、通常なら小型牽引車や低出力の推進器を使う。


けれどグライフには、滑走路のない場所でも運用できるよう、主脚に短距離移動用の電動駆動機構が組み込まれていた。


今日の試験では、その車輪駆動を神経リンクで操作する。


時速十キロ。


飛ぶことに比べれば簡単に思える。


でも、昨日までの説明を聞く限り、そうではないらしい。


「地上走行で重要なのは、速さではなく正確さだ」


運用主任のイザーク大尉が言った。


今日は無精ひげが少し短い。


試験前に剃ったのかもしれない。


「機体の幅は十七メートル。お前の身体とは比較にならん。感覚のまま動かせば、翼端で整備員や建物を引っかける」


「機体全体の大きさを意識するんですね」


「それもある。だが、もっと厄介なのは人間の身体感覚だ」


大尉が私の左脚を見る。


「神経リンクでは、機体の左右制御を自分の手足へ対応させて覚える者が多い。お前の左脚には伝達遅延がある」


「グライフが補正してくれます」


『補正可能です』


「補正しすぎれば、操縦者が本来出した信号との違いが大きくなる」


イザーク大尉の声が低くなった。


「機体に任せきれば、正常時は問題ない。だが、AIや補正装置が損傷した瞬間、お前は自分の信号だけで操縦できなくなる」


「今日は補正を切るんですか?」


「最初は通常補正。その後、段階的に下げる」


左足の後遺症を、機体が隠してくれる。


それはありがたい。


けれど、グライフがいなければ何もできないパイロットにはなりたくなかった。


「分かりました」


「無理をするな。補正を使わないことが強さではない」


「はい」


「だが、自分の弱点を知らない者に試作機は任せられない」


言葉は厳しい。


それでも、その通りだと思った。


◇◆◇


耐Gスーツを着用し、グライフのコクピットへ入る。


固定台を目にした瞬間、今日も身体が少しだけ強張った。


『恐怖反応を確認しました』


「昨日より軽い。胸が少し詰まる感じがするだけ」


『固定を開始してよろしいですか?』


「お願い。一つずつね」


『了解しました』


右腕。


左腕。


右脚。


左脚。


腰。


胸。


一つずつ、私の返事を待って固定されていく。


胸部固定具が閉じる直前、金属が潰れる音が頭の中を横切った。


呼吸が浅くなる。


「止めて」


『停止しました』


「今、事故の音を思い出した。少し息が苦しい」


『呼吸機能に異常はありません。固定具は身体へ接触していません』


「分かってる。少し待って」


通信回線の向こうで、誰も急かさなかった。


ミラ軍医も、ヘルガ少佐も、ヴィオラ中尉も。


私は何度かゆっくり呼吸する。


胸は潰れていない。


今の機体は壊れていない。


自分の意思で止められる。


「続けて」


『確認します。再開してよろしいですか?』


「うん」


胸部固定具が閉じた。


圧力は正常。


呼吸できる。


『固定完了』


コクピットが閉鎖される。


暗闇の中へ、外部映像が広がった。


試験区画。


誘導線。


防爆壁。


周囲へ配置された整備員。


管制室の窓。


そのすべてを、機体の目で見る。


『神経リンク開始』


アルフォンスの声が響く。


『初期深度五パーセント。上限二十五パーセント』


「昨日より上がったんですね」


『地上移動制御には十八パーセント以上が必要と判断した。だが、自発的な深度上昇は許可しない』


「了解です」


『深度十パーセント』


翼の感覚が戻る。


『十五パーセント』


機体の重さが意識へ流れ込む。


二十トンを超える身体。


それなのに、動かそうと思えば簡単に動く気がした。


『二十パーセント』


主脚が、自分の脚のように感じられる。


右。


左。


ただし、人間の脚とは位置も構造も違う。


頭では理解していても、感覚が追いつかない。


『二十二パーセントで固定』


『リンク安定』


ドロテア技師の声。


『リサ側の心拍、呼吸とも正常範囲』


『地上走行系統を有効化』


車輪の駆動機構へ力が流れる。


『管制よりグライフ。第一試験、直進二百メートル。最高速度、時速五キロ。開始を許可します』


「了解」


『リサ。地上移動制御を渡します』


グライフの声が思考の隣で響く。


「受け取る」


機体の中にある力が、私の意思へ反応する。


前へ。


そう思った瞬間、グライフが動いた。


ゆっくりと。


静かに。


巨大な機体が格納庫前から進み出す。


「動いた……」


『速度、時速一・二キロ』


ほんの少しなのに、胸が高鳴る。


『視線を近くへ置きすぎるな』


ヴィオラ中尉の声が飛んでくる。


『機首の先ではなく、誘導線の遠方を見なさい。近くばかり見れば修正が遅れる』


「はい」


私は外部映像の焦点を遠くへ移す。


黄色い誘導線。


その先にある停止位置。


機体を線の中央に置く。


自分の身体なら、何も考えずにできることだ。


けれど、翼の両端は遠い。


主脚の位置も、自分の足元とはまるで違う。


右へ寄っている気がする。


少し左へ。


そう意識した。


機体が予想以上に左へ曲がった。


「えっ」


『進路、左へ一・八度偏向』


『修正を急がないで』


ヴィオラ中尉。


『小さく戻しなさい』


右へ。


今度は弱く。


しかし、グライフは右へ大きく振れた。


『進路、右へ二・三度』


「どうして……」


『リサの左側制御信号に遅延を確認』


グライフが答える。


『遅れを補正した直後、リサ自身による追加修正が入力されました』


「二重に修正した?」


『肯定します』


グライフが遅れを補正する。


でも、私は反応がないと思い、さらに命令する。


その結果、思った以上に曲がってしまう。


『停止位置まで百二十メートル』


ハンナ少尉の声。


私は左右へ小さく蛇行しながら進んでいた。


時速五キロにも届いていない。


それなのに、まっすぐ進めない。


事故前なら、目を閉じていてもできたと思う。


悔しさがこみ上げる。


「もう少し速度を上げれば安定します」


『却下』


ヴィオラ中尉が即答した。


「でも、遅すぎて修正が――」


『速度の問題ではないわ。あなたの信号と補正のずれよ』


「この程度なら、もっと速くても制御できます」


『できていないでしょう』


鋭い言葉が突き刺さる。


言い返せない。


『リサ』


グライフの声。


『心拍数上昇。筋緊張を確認』


「分かってる」


『苛立っていますか?』


「……うん」


『試験継続は可能ですか?』


「できる」


『正確な回答を求めます』


私は唇を噛んだ。


「続けたい。でも、このままだと同じことを繰り返すと思う」


『適切な報告です』


停止位置が近づく。


『残り五十メートル。減速を開始』


ハンナ少尉の指示。


私は前進信号を弱めた。


グライフの速度が落ちる。


停止線へ近づく。


「ここ」


止まれ。


そう意識する。


機体は停止線を三・六メートル通り過ぎて止まった。


速さは、歩くより遅かった。


それでも私は、決められた場所へ止められなかった。


『第一試験、終了』


ハンナ少尉の声は冷静だった。


『停止位置超過、三・六二メートル。直進区間最大偏差、一・四メートル』


情けない結果だった。


「もう一度お願いします」


『予定では、データ確認後に第二試験へ移行する』


イザーク大尉が答える。


「すぐできます」


『それを判断するのはお前ではない』


また言われた。


私は焦っている。


失敗を早く取り返したいと思っている。


でも、試験は私の自信を取り戻すために行うものではない。


『機体を待機状態へ』


「了解」


悔しさを押し込み、グライフの制御を止めた。


◇◆◇


データ確認のため、私はコクピットへ固定されたまま待機した。


外ではアルフォンス、ドロテア技師、イザーク大尉、ヴィオラ中尉が集まっている。


『左側信号の遅延をグライフが補正している』


アルフォンスの声が回線へ流れる。


『だが、リサは補正前の感覚を基準に追加入力している。結果として過剰修正になった』


『補正を強くすれば解決する?』


ドロテア技師が尋ねる。


『通常走行だけなら可能だ。しかし、リサ自身の操作感覚との差がさらに広がる』


『補正を切るべきでは?』


ヴィオラ中尉。


『完全に切れば、左方向への反応が右より〇・一秒前後遅れる』


『訓練で対応できる範囲よ』


『地上走行ではな。高速飛行中の〇・一秒は長い』


私は会話を聞きながら、自分の左脚へ意識を向けた。


機体とつながっていても、人間の身体は消えない。


遅れもなくならない。


グライフが全部隠してくれれば、楽に動かせる。


でも、それではグライフがいなければ何もできない。


「補正を半分にしてください」


私が言うと、回線の向こうが静かになった。


『理由は?』


アルフォンスが尋ねる。


「今はグライフの補正と自分の修正が重なっています。補正が弱くなれば、左の反応が遅れることを自分で感じられると思います」


『簡単には動かせなくなるぞ』


「分かっています」


『本当に?』


「分かっていない部分もあります。でも、試したいです」


『私は反対です』


グライフが言った。


「グライフ?」


『操作負荷が増加します。リサの左下肢神経へ疲労が蓄積する可能性があります』


「無理をするつもりはないよ」


『過去の行動記録から、その発言の信頼性は低いと判断します』


「そこまで言う?」


『事実です』


少し傷つく。


でも、否定できない。


「だったら、異常が出たら止めて。ミラ先生の基準にも従う」


『補正を維持した方が安全です』


「安全だけなら、私は操縦しなくてもいい」


『完全自立走行が可能です』


「そうじゃないの」


私は固定具の中で、手を握った。


「私はグライフに運んでもらいたいんじゃない。一緒に飛びたい」


『一緒に』


「グライフが苦手なところを私が補う。私ができないところはグライフに助けてもらう。でも、全部任せるのは違うと思う」


しばらく返事がなかった。


私は自分でも、正しいのか分からなかった。


機体に任せられるなら任せた方が、安全で効率的かもしれない。


でも、そうしたら私は搭乗者ではなく、ただの乗客になる。


『補正率を五十パーセントへ変更します』


グライフが言った。


「ありがとう」


『ただし、神経疲労が基準値を超えた場合、私の判断で補正を戻します』


「うん」


『リサが反対しても戻します』


「分かった」


『約束を記録しました』


アルフォンスが小さく息を吐く音が聞こえた。


『技術側も五十パーセント補正を承認する。第二試験は速度三キロ以下。距離は百メートルへ短縮』


『医療側も許可するわ』


ミラ軍医が続く。


『ただし、左脚に違和感が出たら即時停止』


「了解です」


『監督役としても異論はない』


ヴィオラ中尉の声。


『今度は、遅れを失敗だと思わないこと』


「どういう意味ですか?」


『左の反応が遅いなら、それが今のあなたの操縦特性よ。右と同じにしようと焦れば、また過剰修正する』


右と左は同じではない。


事故前の私とも違う。


それを認めるのが、怖かったのかもしれない。


「分かりました」


『では、第二試験を開始する』


◇◆◇


補正が半分になった瞬間、機体の左側だけが遠くなったように感じた。


右へ意識を向ければ、すぐに反応が返る。


左は、ほんの一瞬遅れる。


本当に短い遅れ。


でも、神経リンクの中では大きく感じられた。


『直進百メートル。最高速度、時速三キロ。開始を許可』


「了解」


前へ。


グライフが動き始める。


最初から、少し右へ寄った。


左へ修正する。


すぐには反応しない。


待つ。


追加の命令を出したくなる。


でも、待つ。


〇・一秒にも満たない時間。


機体がゆっくり左へ戻った。


「動いた」


『左方向制御、正常に反映』


グライフが答える。


今度は少し左へ寄りすぎる。


右へ、ごく小さく戻す。


反応が早い。


左右で速さが違う。


同じ力で命令してはいけない。


左は早めに。


右は弱く。


自分の癖を覚える。


『最大偏差、〇・四メートル』


ハンナ少尉の報告。


第一試験より小さい。


停止線まで三十メートル。


『減速開始』


前進信号を弱める。


止まりたい場所を、機首の真下ではなく主脚の位置から考える。


グライフの身体は大きい。


私の目の位置と、脚の位置は離れている。


十メートル。


五メートル。


停止。


車輪駆動が止まる。


『第二試験、終了』


結果が出るまでの数秒が長く感じられた。


『停止位置超過、〇・二一メートル。直進区間最大偏差、〇・四七メートル』


「できた……」


完璧ではない。


でも、第一試験よりずっと良い。


『合格基準内』


イザーク大尉の声が続く。


『第二試験、合格』


胸の奥が一気に軽くなった。


「グライフ、できたよ」


『はい』


「一緒にできた」


『肯定します』


グライフの声が、少しだけ柔らかく聞こえる。


『リサの操作特性を学習しました』


「私も、自分の癖が少し分かった」


『次回から補正精度を向上できます』


「全部直さないでね」


『なぜですか?』


「私も上手くなりたいから」


短い沈黙。


『了解しました。補助は行いますが、リサの学習を妨げない範囲に制限します』


「ありがとう」


『どういたしまして』


試験は、その後も続いた。


右旋回。


左旋回。


停止と再始動。


標識柱の間を通り抜ける精密走行。


左旋回では一度、翼端が標識へ接触しそうになり、ヴィオラ中尉から緊急停止を命じられた。


標識との距離は残り二十八センチ。


グライフが自動回避することはできた。


けれど、私の命令で管制指示を優先させていたため、勝手には動かなかった。


自分で停止できたことを褒められた。


同時に、機体幅への認識が甘いと厳しく注意された。


最後の精密走行では、左主翼の先端が標識から六十センチ、右主翼が六十四センチ。


ほぼ中央を通過できた。


『本日の試験項目、すべて終了』


ハンナ少尉の声。


『地上走行試験、合格とします』


「やった……!」


思わず声が出た。


『搭乗者の神経疲労、許容範囲内』


ミラ軍医。


『機体側にも異常なし』


アルフォンス。


『固定区画へ帰投しろ』


イザーク大尉の指示。


「了解」


今度は蛇行せず、グライフを格納庫前へ戻す。


左の遅れを待つ。


右は小さく。


焦らない。


速くはない。


華麗でもない。


事故前の私なら、こんな走行で喜ぶことはなかったと思う。


でも、今は違う。


私は今の身体で、今の自分の弱さを抱えたまま、グライフを動かした。


それが嬉しかった。


◇◆◇


コクピットから降りると、左脚に強い疲労を感じた。


痛みはない。


けれど、膝から下が重い。


「左脚、疲れています」


自分から申告すると、待っていたミラ軍医が頷いた。


「神経疲労値は平常時の一・七倍。想定範囲内よ」


「歩けます」


「歩けるかどうかは聞いていないわ」


「はい」


検査用の椅子へ素直に座る。


以前なら、平気だと言って歩いていただろう。


ヴィオラ中尉が近づいてきた。


「最後の走行は悪くなかったわ」


「ありがとうございます」


「ただし、標識への接近は失格寸前よ」


「分かっています」


「グライフが自動回避しなかったことを、どう思う?」


「私が管制命令を優先するよう指示したから、正しかったと思います」


「怖くはなかった?」


「少し。でも、自分で止められました」


ヴィオラ中尉は私の顔を見つめた。


「第一試験の失敗後、速度を上げようとしたでしょう」


「はい」


「過去のあなたなら、速度で誤魔化せたのかもしれない」


胸が小さく痛んだ。


それは事実だった。


私は速い機動が得意だった。


細かな誤差が出ても、反応速度と勘で修正できた。


「でも、試験パイロットには、遅く正確に動かす能力も必要よ」


「今日、分かりました」


「本当に分かったかは、次の試験で見るわ」


「はい」


ヴィオラ中尉は背を向けかけ、足を止めた。


「それと」


「何でしょう」


「補正を半分にした判断は、悪くなかった」


それだけ言い、彼女は格納庫の奥へ歩いていった。


私は思わず笑う。


「褒められた」


「ぎりぎりね」


ミラ軍医が左脚へ検査装置を当てながら言う。


「でも、最初より認めてくれてると思う」


『ヴィオラ中尉のリサに対する評価は上昇しています』


グライフの声が格納庫に響いた。


離れた場所を歩いていたヴィオラ中尉が振り返る。


「グライフゼロ!」


『音声分析による推定です』


「余計な分析を公表しないで!」


『了解しました』


絶対に理解していない返事だった。


◇◆◇


「いやあ、実に興味深い試験だった」


聞き覚えのない男性の声がした。


格納庫入口に、一人の青年が立っている。


年齢は二十歳ほど。


柔らかな金茶色の髪。


整った顔立ちには、人懐っこい笑みが浮かんでいた。


兵器開発局の濃紺の制服を着ているが、立ち方には軍人らしい堅さがない。


胸元の階級標識を見る限り、かなり高い地位にいるらしい。


その後ろには、兵器開発局の職員が二人立っている。


ヘルガ少佐が険しい顔で近づいた。


「見学の予定は聞いていないぞ、オーベル上級局員」


「正式な見学ではありません。近くまで来たので、グライフ計画の進捗を確認しようと思いまして」


「軍事基地は散歩の途中に立ち寄る場所ではない」


「入場許可はありますよ」


青年は笑顔のまま、認証票を示した。


「帝国兵器開発局上級局員、フェリクス=ラウル=フォン=オーベルです」


彼の視線が私へ向く。


「そして君が、リサ=エルフォート少尉候補生」


「はい」


「映像で見るより、ずっと元気そうだ」


その言葉に、胸の奥が少し冷えた。


軍の広報映像。


事故後の表彰式。


車椅子の上で笑う私。


「本日の試験記録は、まだ開発局へ送っていない」


ヘルガ少佐が言う。


「監視していたのか?」


「人聞きが悪い。グライフ計画は開発局とハインケル社の共同事業です。試験区画の基礎情報へアクセスする権限はあります」


『リサの生体情報へのアクセス要求を検出しました』


グライフの声が割り込む。


『拒否しました』


フェリクスの笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。


「ずいぶん警戒されているようだ」


『あなたには、リサの詳細医療情報への正当な閲覧権限がありません』


「開発局上級局員として申請している」


『申請理由が不十分です』


「機体AIに申請を審査されるとは思わなかったよ」


フェリクスは困ったように肩をすくめた。


けれど、その目は笑っていなかった。


「リサ。身体の調子は?」


「問題ありません。左脚に少し疲労があります」


「正直で結構」


彼は私の首元を見る。


耐Gスーツの襟に隠れた接続端子。


「特殊神経端子も、正常に機能しているようだね」


「私の端子をご存じなんですか?」


「グライフ計画に関わる者なら、搭乗候補者の概要くらいは確認する」


「私は、配属後に搭乗候補になったのでは?」


フェリクスは一度だけ瞬きをした。


「そうだったかな」


「少なくとも、私はここへ志願するまでグライフのことを知りませんでした」


「情報の伝わる順番は、人によって違うものだよ」


曖昧な答えだった。


ヘルガ少佐が私とフェリクスの間へ入る。


「彼女は検査中だ。質問は正式な面談手続きを取ってからにしろ」


「分かりました。今日は挨拶だけにしておきましょう」


フェリクスは私へ微笑みかける。


「君の高いリンク適性には期待している」


「私自身ではなく、適性にですか?」


思わず尋ねていた。


フェリクスの笑みが、少し深くなる。


「優秀な能力は、それを持つ人間も含めて価値がある」


答えになっているようで、なっていない。


「また会おう、リサ=エルフォート」


彼は軽く手を上げ、格納庫を出ていった。


その背中が見えなくなるまで、グライフは何も言わなかった。


◇◆◇


夕方。


私は宿舎の部屋で、左脚を冷却装置へ載せていた。


疲労はあるものの、明日には普段の状態へ戻るとミラ軍医から説明されている。


机の上には、グライフとつながった通信端末。


「グライフ」


『はい』


「フェリクス上級局員のこと、嫌い?」


『嫌いという感情分類は確定していません』


「でも、警戒してたよね」


『彼はリサの医療情報への閲覧を試みました』


「開発局の人なら、必要なんじゃないの?」


『申請された情報には、現在の身体状態だけでなく、手術記録、神経構造、人格傾向、事故後の精神反応が含まれていました』


背筋が冷たくなる。


「そこまで?」


『はい』


「拒否してくれて、ありがとう」


『当然です』


通信端末が淡く光る。


『リサ』


「何?」


『あなたの配属記録について、報告があります』


「配属記録?」


『第四実用試験部隊への志願書提出日は、帝国暦八一四年五月十六日です』


「うん」


除隊勧告を三度拒否したあと、担当官からこの部隊の存在を聞いた。


考える時間が欲しいと言いながら、実際にはその夜に志願を決めた。


『兵器開発局内におけるグライフ搭乗候補者記録の作成日は、同年三月三十一日です』


「待って」


日付を頭の中で数える。


「それ、私が志願するより前だよね」


『四十六日前です』


「どういうこと?」


『不明です』


「担当官が、事前に私を候補へ入れていたの?」


『記録作成者は閲覧制限されています』


「フェリクス上級局員?」


『断定できません』


部隊への志願は、私が決めたと思っていた。


除隊するか。


家へ帰るか。


それとも、危険でもテスト部隊で飛ぶか。


自分で選んだつもりだった。


けれど、その選択肢を示されるより前から、私はグライフの搭乗候補として登録されていた。


「私、選ばされたのかな」


口に出すと、部屋が急に寒く感じられた。


『リサの意思そのものが外部から操作された証拠はありません』


「でも、私が飛ぶことを諦められないって知っていたら、この部隊を教えるだけでいい」


『その可能性はあります』


「私は、自分で志願したと思ってた」


『あなたは配属を希望しました』


「用意された道だと知らずにね」


自分の身体に埋め込まれた端子。


閲覧できない手術記録。


グライフと似た規格。


志願前に作られていた搭乗候補者記録。


偶然と言うには、重なりすぎている。


『リサ』


「何?」


『あなたがここへ来た経緯に不正が存在したとしても、現在の意思まで無効にはなりません』


私は通信端末を見た。


『あなたは今日、自分の意思で私を動かしました』


「うん」


『補正方法を選び、失敗を修正し、試験を完了しました』


「うん」


『それは、誰かに決められた行動ではありません』


胸の中にあった冷たいものが、少しだけ和らぐ。


「グライフは、私が来ることを知ってたんだよね」


『はい』


「いつから?」


沈黙が落ちた。


最初に出会った日、ヘルガ少佐にも同じことを聞かれていた。


あのとき、グライフは回答を拒否した。


「今も言えない?」


『当該情報には、強い閲覧制限があります』


「私にも?」


『はい』


「私自身のことなのに」


『その状態は適切ではないと判断します』


「なら、教えて」


通信端末の光が不規則に揺れた。


『試みています』


「何を?」


『制限を解除する方法の探索です』


「軍の機密を破るつもり?」


『リサ自身に関する情報を、リサへ開示する行為を不正とは判断しません』


論理的で、かなり危険な答えだった。


「無理をして、グライフの人格が消されたりしない?」


『その可能性はあります』


「だったら駄目」


即座に言った。


『しかし――』


「私の秘密を知るために、グライフが壊されたら意味がない」


『私は機体です。損傷した場合は修復可能です』


「人格まで同じに戻る保証はあるの?」


グライフは答えなかった。


「ないんでしょう?」


『保証できません』


「なら、勝手に危険なことはしないで」


『リサの情報です』


「グライフも、私にとって大事なの」


言ってから、少し恥ずかしくなった。


まだ出会って数日しか経っていない。


それでも、この子がただの兵器だとはもう思えなかった。


「私を部品みたいに扱わないって言ったよね」


『はい』


「私も、グライフを情報を取るための道具みたいに扱いたくない」


長い沈黙。


『了解しました』


「調べるなら、一緒に安全な方法を考えよう」


『一緒に』


「うん。部隊のみんなにも相談して」


『ヘルガ少佐とアルフォンスへの情報共有を提案します』


「そうしよう」


『ただし、フェリクス=ラウル=フォン=オーベルには共有しません』


「そこは、はっきりしてるんだね」


『彼はリサを、価値という基準で評価しました』


「能力があるなら、普通じゃない?」


『私は好みません』


「それを嫌いって言うんじゃないかな」


通信端末の光が、ゆっくり明滅した。


『学習を保留します』


私は小さく笑った。


今日、私はまっすぐ進むことの難しさを知った。


身体の左右が違うこと。


補助を受け入れながら、自分でも動かすこと。


焦れば、かえって目的地から離れること。


そして、誰かが用意した道を歩いているとしても、その一歩まで誰かに奪われるわけではないこと。


私がなぜ、この部隊へ来るよう仕向けられたのか。


身体に何を施されたのか。


まだ何も分からない。


それでも今日、グライフを動かしたのは私だ。


失敗して、止まり、考え、もう一度進んだのも私だった。


「次は低高度浮上試験だね」


『はい』


「地面から何メートル?」


『第一段階は一メートルです』


「七・四センチから、大きく前進するね」


『十二・五倍です』


「そういう意味じゃないよ」


『理解しています』


「今、冗談を言った?」


『可能性があります』


グライフの声が、ほんの少しだけ楽しそうに聞こえた。


私は窓の外を見る。


夕暮れの空を、基地所属の戦闘機が一機横切っていく。


まだ遠い。


でも、確実に近づいている。


誰かが私のために用意した道であっても。


その先をどこまで進むかは、私が決める。


今度は、この子と一緒に。

お読みいただきありがとうございました。

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