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地上に縛られた翼

ご覧いただきありがとうございます。

翌朝、私は目覚ましが鳴るより先に目を覚ました。


時刻は午前四時五十二分。


窓の外はまだ暗く、基地宿舎の廊下からも物音は聞こえない。


「……早すぎるよね」


もう一度眠ろうと目を閉じる。


けれど、眠気は戻ってこなかった。


今日、グライフのエンジンを動かす。


飛行試験ではない。


地上で動力炉を起動し、低出力で推進器を作動させるだけだ。


それでも、胸の奥が落ち着かなかった。


期待と不安が、同じ場所で膨らんでいる。


寝台から身体を起こし、床へ両足を下ろす。


右足。


左足。


左は、やはりわずかに遅れた。


立ち上がった瞬間、膝が小さく揺れる。


「大丈夫じゃない。少し反応が遅い」


昨日、何度も注意されたことを思い出し、自分の状態を口に出してみた。


痛みはない。


痺れもない。


呼吸も正常。


夜中に一度だけ目を覚ましたが、墜落の夢は見なかった。


悪くない状態だと思う。


窓辺へ歩き、遮光板を少しだけ開く。


基地の誘導灯が、暗闇の中に並んでいた。


その向こうに、格納庫群の輪郭が浮かんでいる。


あそこにグライフがいる。


そう思った瞬間、机の上に置いていた小型通信端末が淡く光った。


『起床を確認しました』


「グライフ?」


『はい』


端末から、聞き慣れ始めた女性の声が流れる。


「どうして、私が起きたって分かったの?」


『耐Gスーツ調整時に登録された個人端末から、生体認証情報を取得しました』


「それ、ずっと見てるの?」


『常時監視ではありません。定期的に状態を確認しています』


「私の許可なしに?」


少しだけ強い口調になった。


昨日、自分の身体へ知らない機能を持つ端子が埋め込まれていたと知ったばかりだ。


たとえグライフでも、勝手に身体情報を見られるのは落ち着かない。


通信端末の光が、一度だけ明滅した。


『不快でしたか?』


「うん。少しだけ」


『了解しました。今後、試験時間外の生体情報取得には、事前に許可を求めます』


「すぐ直してくれるんだ」


『リサが望まない行為を継続する合理的な理由はありません』


軍や病院の担当者より、ずっと話が早い。


「ありがとう」


『どういたしまして』


昨日より自然な返事だった。


「今日は地上試験だね」


『はい。動力炉の始動、推進系統の低出力試験、姿勢制御噴射口の個別作動確認を予定しています』


「楽しみ?」


『質問の定義が不明確です』


「動くの、嬉しくない?」


短い沈黙。


『待機状態より、機能を使用できる状態が望ましいと判断します』


「それを嬉しいって言うんじゃないかな」


『学習します』


思わず笑う。


すると、グライフがすぐに続けた。


『リサの心拍数が上昇しました』


「取得しないって言ったよね?」


『音声から推定しました』


「そんなことも分かるの?」


『呼吸音と声帯の振動変化から、おおよその状態は判断できます』


「もう何も隠せない気がする」


『隠す必要がありますか?』


何気ない問いだった。


けれど、答えるまで少し時間がかかった。


「……ずっと、隠すのが普通だったから」


『事故後の恐怖を?』


「それも。痛いことも、苦しいことも。飛びたいって思っていることも」


『なぜですか?』


「みんなが心配するから」


お父さんも、お母さんも、ノアも。


私が飛びたいと言うたび、悲しそうな顔をした。


治療中に弱音を吐けば、もう軍へは戻れないと思われそうで怖かった。


だから笑った。


痛くても。


眠れなくても。


怖くても。


『情報を隠すことで、リサの安全性は低下します』


「分かってるよ」


『では、今日の試験では隠さないでください』


「努力します」


『努力ではなく、実行してください』


「厳しいなあ」


『必要です』


優しく励ましてくれるわけではない。


でも、グライフの言葉は不思議と嫌ではなかった。


「分かった。約束する」


『記録しました』


「記録するの?」


『約束には記録が必要です』


「それなら、私も覚えておく」


まだ夜明け前の部屋で、私は黒と黄色のフライトジャケットを羽織った。


今日は飛ばない。


けれど、この一日はきっと忘れない。


◇◆◇


「早いわね」


格納庫へ入ると、すでにヴィオラ中尉がいた。


赤褐色の長い髪を高い位置でまとめ、黒と黄色の耐Gスーツの上からフライトジャケットを着ている。


手には紙の試験手順書。


電子端末ではなく紙を使っているのが意外だった。


「おはようございます」


「試験開始は七時。今は六時二十分よ」


「眠れなくて」


「体調不良?」


「違います。楽しみで早く起きました」


ヴィオラ中尉がわずかに眉をひそめる。


「遊びではないわ」


「分かっています」


「そうは見えない」


朝から厳しい。


けれど、昨日より少しだけ理由が分かるようになった。


ヴィオラ中尉は私を嫌っているというより、私が試験へ浮かれて失敗することを警戒しているのだろう。


「試験項目を確認してもいいですか?」


「手順書は受け取っているでしょう」


「読みました。でも、監督役と認識を合わせたいです」


ヴィオラ中尉の金色の瞳が、私をじっと見た。


「動力炉始動後、主推進器は出力五パーセントまで。姿勢制御噴射口は一基ずつ〇・五秒以内。機体固定具は全工程で解除しない」


「神経リンクは二十パーセント上限」


「異常を感じた場合は?」


「即座に申告。独断で試験を継続しない」


「管制から中止命令が出た場合は?」


「理由にかかわらず、ただちに停止します」


「グライフが続行可能と判断した場合は?」


一瞬、答えに迷った。


「管制命令を優先します」


「正解よ」


ヴィオラ中尉は手順書を閉じた。


「機体AIがどれほど高性能でも、試験の責任を負うのは人間よ。機体に好かれているからといって、判断まで預けないことね」


「はい」


『異議があります』


格納庫内にグライフの声が響いた。


ヴィオラ中尉の目が細くなる。


『私はリサから判断能力を奪う意図はありません』


「聞いていたのね」


『機体格納庫内の会話です』


「あなたは搭乗者を優先しすぎる傾向がある。昨日の記録でも明白よ」


『リサの生存を優先することは、機体として正常な判断です』


「任務では、搭乗者一人より作戦全体が優先される場合もある」


『その状況においても、リサを生存させたまま任務を達成する方法を選択します』


「すべてを救えるとは限らないわ」


『演算能力が不足していると判断しますか?』


「傲慢だと言っているの」


『ヴィオラ中尉の評価を記録しました』


「記録しなくていいわ」


二人の会話を聞きながら、私は小さく息を吐いた。


「グライフ」


『はい、リサ』


「今日の試験では、ヴィオラ中尉と管制の指示を守って」


『リサの安全に反しない限り、従います』


「また、その条件をつけるの?」


『必要です』


ヴィオラ中尉が私へ視線を向ける。


「あなたが命令しなさい」


「私が?」


「搭乗者として、機体を制御するのでしょう」


試されている。


グライフが私を選んだからといって、私はまだ正式な搭乗者ではない。


この子の言うことに流されるだけなら、試験パイロットにはなれない。


「グライフ。試験中、緊急の生命危機がない限り、部隊管制の命令を最優先して」


格納庫が静かになる。


『その命令は、リサの意思ですか?』


「うん」


『了解しました』


素直に受け入れた。


ヴィオラ中尉はわずかに顎を引く。


「最低限ね」


褒められたわけではない。


でも、昨日より一歩だけ前へ進めた気がした。


◇◆◇


試験開始三十分前。


私は更衣区画で耐Gスーツに着替えていた。


黒い生地が身体へ密着し、首、手首、太腿の端子へ自動接続される。


昨日より着るのは早くなった。


それでも、鏡に映る自分の姿にはまだ慣れない。


「左脚の圧力、少し強くない?」


隣で端末を見ていたドロテア技師が尋ねる。


「言われてみれば、少し」


「よし。二パーセント下げるね」


スーツの締めつけがわずかに緩む。


「我慢してた?」


「我慢というほどでは」


「小さな違和感を放置すると、高G環境では大きな問題になるよ」


「はい」


「それと、生体情報は全部ミラ先生へ届くから。誤魔化してもすぐ分かる」


「昨日から、隠せないって何度も言われています」


「君、隠す顔をしてるからねえ」


「どんな顔ですか?」


「笑顔で『大丈夫です』って言う顔」


自分では分からない。


でも、みんなには分かるらしい。


調整室の扉が開き、ミラ軍医が入ってきた。


「今朝の状態を報告して」


「睡眠は約五時間。途中で一度起きました。痛みなし。左脚は起床直後に少し遅れがありましたが、今は普段どおりです」


「恐怖感は?」


「格納庫へ入ったときに少し緊張しました。今は、楽しみな気持ちの方が強いです」


「呼吸は安定しているわね」


ミラ軍医が胸部センサーを確認する。


「今日の中止基準を伝えるわ。血中酸素濃度九十三パーセント未満。心拍数百九十以上が五秒継続。神経信号の逆流。幻肢感覚の急激な増大。事故記憶による応答不能」


「一つでも該当したら中止ですか?」


「即時中止」


「少し休めば続けられそうでも?」


「中止よ」


「分かりました」


残念そうな顔をしたのか、ミラ軍医が私の頬を軽くつまんだ。


「痛いです」


「今のは正常な痛覚確認」


「絶対に違います」


「無理をしたくなったら思い出して」


穏やかな笑顔。


やっぱり、この部隊で一番逆らってはいけない人だ。


「リサ」


入口からノアが顔を出した。


「グライフの外部点検、終わったよ」


「どうだった?」


「機体側は全部正常。固定架も二重確認した」


ノアは私のスーツ姿を見ても、昨日のように目を逸らさなかった。


代わりに、左脚の接続部や首元を整備員の目で確認する。


「スーツ側の接続表示も正常だね」


「今日は平気なんだ」


「何が?」


「昨日は顔を逸らしたのに」


ノアの耳が赤くなった。


「今日は仕事中だから」


「昨日も仕事中だったよ?」


「リサちゃん、そこまでにしてあげて」


ドロテア技師が笑いを堪えている。


ノアは小さく咳払いし、私へフライトジャケットを差し出した。


「格納庫まで着ていって。冷えるから」


「ありがとう」


ジャケットへ腕を通す。


こういうとき、ノアは昔から自然だった。


過剰に優しくするでもなく、何もなかったふりをするでもない。


必要なことを、必要なだけしてくれる。


「怖くなったら言って」


「うん」


「本当に?」


「約束したから」


「誰と?」


「グライフと」


ノアの表情が少しだけ複雑になった。


「僕との約束じゃないんだ」


「ノアにも言うよ」


「ならいい」


少し拗ねたような返事に、胸が温かくなった。


◇◆◇


グライフのコクピットへ入る。


昨日と同じ、窓も操縦桿もない暗い空間。


中央には人型の固定台。


見た瞬間、胸の奥がわずかに縮んだ。


『心拍数の上昇を確認しました』


「緊張してる。でも、入れる」


『固定手順は昨日と同じ方式を使用しますか?』


「一つずつお願い」


『了解しました』


固定台へ身体を預ける。


右腕。


左腕。


両脚。


腰。


胸部。


一つずつ確認しながら、固定具が閉じていく。


胸の固定具が近づいたとき、墜落時の衝撃が一瞬だけ蘇った。


ぐしゃり。


装甲が潰れる音。


押し込まれる肋骨。


「待って」


『停止しました』


私は目を閉じ、ゆっくり息を吸った。


左肺も動いている。


胸は潰れていない。


「少し事故を思い出した。呼吸はできる。続けられると思う」


『ミラ軍医へ報告しました』


『こちらでも確認したわ』


通信からミラ軍医の声が聞こえる。


『無理はない?』


「はい。まだ大丈夫です」


『その表現なら許可します。異常が増えたら中止するわよ』


「了解です」


胸部固定具がゆっくりと閉じる。


圧迫感はある。


でも、あの日とは違う。


私の意思で止められる。


外には仲間がいる。


そして、この子が聞いている。


『固定完了』


コクピットが閉じ、完全な暗闇になる。


次の瞬間、外部センサー映像が意識へ流れ込んだ。


格納庫全体。


整備員。


固定架。


管制区画のガラス窓。


その向こうにいるハンナ少尉とイザーク大尉。


機体を通して世界を見る感覚は、二度目でも驚くほど鮮明だった。


『神経リンクを開始する』


アルフォンスの声。


『初期深度三パーセント。安全制限二十パーセント。人格モデル、制限確認』


『確認しました』


『リサ、異常は?』


「ありません」


『深度五パーセント』


翼が私の意識へ戻ってくる。


大きな身体。


黒い装甲。


眠っている動力炉。


『深度十パーセント』


自分の身体と機体の境界が薄くなる。


左脚の遅れは感じない。


グライフの脚に当たる部分はないけれど、機体全体が均等に反応している。


それが、少し嬉しかった。


『深度十五パーセント』


「安定しています」


『リサ側の神経活動、正常範囲』


ドロテア技師の声が続く。


『深度十八パーセントで固定』


さらに深くなると思っていた感覚が、そこで止まった。


少し物足りない。


もっと近く。


もっと、この子を感じたい。


『深度上昇要求を検出』


アルフォンスが即座に言った。


『リサ、何をしている?』


「何もしてません」


『接続要求が出ている』


『私が抑制しています』


グライフの声が、思考のすぐそばで響く。


『リサ。今日は十八パーセントで維持します』


「うん」


『不満を検出しました』


「少しだけ」


『試験手順を優先してください』


「私より真面目だね」


『リサが命令したためです』


自分で言ったことを守らされている。


少し悔しい。


でも、悪い気分ではなかった。


『動力炉始動準備』


ハンナ少尉の声が管制通信へ入る。


『全区画、外部電源切り離し確認』


『整備班、切り離し完了』


整備班長らしい男の低い声。


『冷却系統正常』


『燃料供給系統正常』


『機体固定架、全六基ロック確認』


『管制よりグライフゼロ。動力炉始動を許可します』


『了解しました』


私の胸の奥で、何かが目を覚ました。


低い振動。


最初は小さく。


やがて、機体全体を満たすように広がっていく。


小型核融合炉が起動する。


熱ではない。


力そのものが、身体の中心へ集まってくる感覚。


「これが……グライフの心臓」


『比喩としては妥当です』


声が近い。


『出力一パーセント。炉心安定』


格納庫の床が微かに震える。


整備員たちが機体から距離を取る。


『出力三パーセント』


力が増す。


翼の内側に血が通うようだった。


事故機のエンジン音が、一瞬だけ記憶の底から浮かぶ。


甲高い異音。


破裂音。


警告。


呼吸が浅くなる。


『リサ。恐怖反応を確認』


「エンジンの音を思い出した。でも、今の音とは違う」


『現在、異常振動はありません』


「分かってる。続けられる」


『報告を受領しました』


『動力炉、定格待機出力へ移行』


ハンナ少尉の指示。


『次、主推進器低出力試験。出力一パーセントから開始』


グライフの後方推進器へ力が流れる。


自分の背中に、大きな翼と尾があるような感覚。


その奥へ火が入る。


ゴォォォン――!


格納庫内に低い轟音が響いた。


固定架が機体を押さえ込む。


身体へ荷重はほとんどない。


それでも、私は反射的に息を止めた。


動いている。


この子が生きている。


『出力二パーセント』


もっと上げられる。


そう感じる。


二パーセントなんて、眠ったまま指先を動かした程度だ。


推進器はまだ目覚め切っていない。


私が意識を向ければ、さらに強い出力を引き出せる。


『出力三パーセント』


翼が空を求めている。


違う。


私が求めている。


格納庫の扉は閉じている。


固定架もついている。


それなのに、空へ駆け出したい衝動が膨らんでいく。


『リサ側から推進出力要求』


アルフォンスの鋭い声。


「勝手に?」


『要求値十二パーセント。抑制しろ!』


『抑制しています』


グライフが答える。


私は慌てて意識を引き戻そうとした。


「ごめん、グライフ」


『謝罪は不要です。飛行欲求が運動信号として変換されています』


「止められる?」


『可能です』


推進器の出力が三パーセントで固定される。


それでも、飛びたい衝動は消えない。


『リサ、状況を報告』


イザーク大尉の声。


「機体を前へ出したい感覚があります。自分の脚を動かすみたいに、推進器を使おうとしてしまいました」


『意識的に止められるか?』


「やってみます」


『違う』


ヴィオラ中尉の声が割り込んだ。


『やってみるではない。止めなさい』


厳しい言葉。


でも、今はそれが必要だった。


私は意識の中で、飛びたい気持ちと機体への命令を分けようとした。


空へ行きたい。


それは消さなくていい。


けれど、今は飛ばない。


今は地上試験。


決められた出力を守る。


「グライフ。私からの出力上昇要求を無効化して」


『すでに無効化しています』


「それでも、自分で止めたい」


『了解しました』


私は深く息を吸った。


機体を前へ出すのではなく、地面へ置く。


翼を広げるのではなく、休ませる。


推進器に流れようとする信号を、ゆっくり閉じる。


『出力要求、低下』


アルフォンスが言う。


『八パーセント……五……三……消失』


格納庫内に、誰かが息を吐く音が聞こえた。


『よくできた』


ヴィオラ中尉の声。


短い一言だった。


けれど、初めて彼女に認められた気がした。


「ありがとうございます」


『まだ試験中よ。気を抜かないで』


「はい」


『主推進器、五パーセントまで上昇』


ハンナ少尉の指示。


グライフの推進器が、さらに強く唸る。


今度は衝動へ流されない。


力を感じる。


でも、命令はしない。


機体固定架が軋む。


黒い翼の表面を、青い光が走る。


グライフは飛べる。


今すぐにでも。


それでも、地上に留まっている。


私の命令を守って。


『主推進器、出力五パーセント。数値安定』


『振動値、許容範囲』


『炉心温度正常』


『神経リンク十八・二パーセント。上昇傾向なし』


次々と報告が流れる。


地上試験は順調だった。


『主推進器停止。次、姿勢制御噴射口の個別確認へ移行』


機体各部に配置された小型噴射口が、一つずつ短く作動する。


右主翼。


左主翼。


機首。


胴体下部。


尾部。


そのたびに、身体のあちこちを軽く押されるような感覚があった。


「くすぐったい」


『感覚信号を二パーセント低減しますか?』


「ううん。このままでいい」


『了解しました』


右側面の噴射口。


左側面。


上部。


下部。


最後に、機体腹部の垂直離着陸用噴射口へ試験が移る。


『VTOL系統、出力〇・五パーセント』


機体の下で、空気が震えた。


固定架へ下から力が加わる。


ほんのわずか。


けれど、身体が浮く感覚があった。


空へ近づく感覚。


胸が高鳴る。


『リサ、心拍数上昇』


「嬉しいだけです」


『正確な報告と判断します』


グライフの声にも、ほんの少しだけ柔らかさが混じった気がした。


『VTOL出力一パーセント』


固定架の警告表示が一斉に点灯した。


『固定架三番、荷重上昇』


ノアの声。


『許容範囲内です』


『機体重量補正に誤差!』


アルフォンスが叫ぶ。


『出力を止めろ!』


『停止します』


その瞬間、機体がわずかに持ち上がった。


ほんの数センチ。


固定架の遊びの分だけ。


けれど確かに、地面から離れた。


私の身体が浮く。


胸の奥が熱くなる。


「飛んだ……」


『飛行ではありません』


ヴィオラ中尉の声が即座に返ってくる。


『固定架内部で浮上しただけよ』


「でも、浮きました」


『浮いただけ』


『リサの主張を支持します』


グライフが言った。


『機体は地表面から七・四センチ離脱しました。広義には飛行と定義可能です』


『あなたは黙っていなさい!』


ヴィオラ中尉の声が格納庫に響いた。


次の瞬間、機体は固定架へ静かに戻った。


衝撃はない。


姿勢も乱れていない。


『VTOL系統停止』


『固定架、損傷なし』


『機体各部、異常なし』


報告が続く。


私は高鳴る心臓を押さえようとした。


実際には、固定具で胸へ手を当てることはできない。


それでも、鼓動はグライフへ伝わっていた。


『リサ』


「何?」


『喜びを検出しました』


「うん」


『私も、望ましい状態であると判断します』


「それって、嬉しい?」


少し間があった。


『おそらく』


初めて、グライフが自分の感情らしいものを認めた。


そのことが、浮上したことと同じくらい嬉しかった。


◇◆◇


地上試験は、その後も予定どおり進んだ。


リンク深度は十八・五パーセントを超えず、動力炉、主推進器、姿勢制御系統にも異常はなかった。


ただし、VTOL試験で機体が七・四センチ浮いた件については、終了後すぐに反省会が開かれた。


「重量補正値に、六・二パーセントの誤差があった」


アルフォンスが会議室の画面へ数値を表示する。


「グライフの実測重量ではなく、設計段階の予測値が制御系に残っていたことが原因だ」


「設計ミス?」


私が尋ねると、アルフォンスの顔が険しくなった。


「統合時の確認漏れだ。僕の責任でもある」


「でも、事故にはならなかった」


「結果論で片づけるな」


鋭く言われ、私は口を閉じた。


「今回は七センチで済んだ。だが、出力が一桁違えば固定架を破壊していた可能性もある」


「はい」


「試験は、異常が起きなかったから成功ではない。異常の芽を見つけ、次に起こさない状態へ修正して初めて意味がある」


アルフォンスは自分にも厳しい。


私を責めているのではなく、試験そのものを軽く考えるなと言っている。


「修正にはどれくらいかかりますか?」


「今日中に終わらせる」


「早いですね」


「本来、試験前に終わっているべき作業だ」


彼は端末を閉じた。


「次はない」


その横で、イザーク大尉が眠たげな目を私へ向ける。


「エルフォート。今日の自己評価は?」


「最初に飛行欲求を出力信号へ流してしまいました。グライフが抑制してくれなければ、手順違反になっていたと思います」


「他には?」


「事故時のエンジン音を思い出しました。でも、今の音と違うと自分で判断できました」


「無理は隠したか?」


「隠していません」


ミラ軍医を見る。


彼女が小さく頷いた。


「今日については、本当よ」


「なら、合格だ」


イザーク大尉が言った。


「地上始動試験は合格。次は低速移動試験へ進む」


「低速移動?」


「機体を地上走行させる。滑走路ではなく、専用試験区画内だけだ」


「いつですか?」


「機体修正と医療評価が終わってからだ。早くても三日後」


「三日……」


「不満か?」


「いいえ」


即答したものの、少しだけ肩が落ちた。


ヴィオラ中尉がこちらを見る。


「あなた、すぐに飛行試験へ進めると思っていたの?」


「少しだけ」


「甘いわ」


「分かっています」


「分かっていないから、そんな顔をするのよ」


厳しい。


でも、今度は目を逸らさなかった。


「ヴィオラ中尉」


「何?」


「今日、止めなさいと言ってくれて、ありがとうございました」


彼女の金色の瞳がわずかに見開かれる。


「私は監督役として当然の指示を出しただけよ」


「それでも、必要でした」


「そう」


ヴィオラ中尉は短く答え、手元の記録へ視線を落とした。


完全に認められたわけではない。


けれど、昨日までの冷たさとは少し違う。


「ただし」


彼女が再び顔を上げる。


「今日、あなたが制御できたのは低出力だったからよ。実際の飛行では、推進力も速度も身体負荷も桁が違う」


「はい」


「グライフがあなたを守ってくれるからといって、自分で制御する努力をやめないこと」


「やめません」


「その言葉は、飛んでから証明しなさい」


挑戦を突きつけるような言葉だった。


胸が高鳴る。


「必ず」


そう答えると、ヴィオラ中尉はほんのわずかに口元を緩めた。


◇◆◇


反省会の後、私はノアと一緒に格納庫へ戻った。


グライフの周囲では、整備員たちが重量補正装置と固定架を確認している。


アルフォンスもすでに作業へ加わっていた。


「地上試験、終わったね」


ノアが言う。


「うん」


「怖かった?」


「少し。でも、それより嬉しかった」


「七センチ浮いただけなのに?」


「七・四センチ」


「細かい」


「グライフがそう言ってたから」


黒い機体を見上げる。


動力炉は停止し、青い誘導灯だけが静かに灯っている。


眠っているように見えた。


『眠っていません』


格納庫のスピーカーから声が響いた。


「聞いてたの?」


『リサの音声を優先的に取得しています』


ノアの眉が動く。


「優先的に?」


『はい』


「ほかの人より?」


『はい』


「どうして?」


『リサが私の搭乗者であるためです』


「まだ正式には決まってないだろ」


『決まっています』


「どこで?」


『私が決定しました』


ノアが困った顔で私を見る。


「軍の人事より強引だ」


「でも、私は嬉しいよ」


『喜びを確認しました』


「グライフも?」


『はい』


今度は迷わず答えた。


『今日、私はリサと初めて地表から離れました』


「七・四センチだけどね」


『重要な距離です』


「うん。私もそう思う」


空へ戻るには、まだ遠い。


七・四センチなんて、歩けば一歩にも満たない。


けれど、一年前の私は寝台から身体を起こすことすらできなかった。


左腕も、両足も、左目もなかった。


そこから治療を受け、立ち上がり、歩き、再び機体へ乗った。


今日、ほんの少しだけ地面を離れた。


「次は地上走行だって」


『確認しています』


「その次は?」


『低高度浮上試験が予定されています』


「その次は?」


『飛行試験です』


胸が強く鳴った。


期待だけではない。


地面が迫る映像も、同時に思い浮かぶ。


怖い。


それでも、飛びたい。


「急がないようにする」


『必要です』


「でも、諦めない」


『当然です』


グライフの青い光が、静かに明滅した。


『私は飛行するために造られました』


「私も、飛ぶためにここへ来た」


『ならば、目的は一致しています』


私は機体の前脚へ手を触れた。


冷たい装甲。


けれど、その奥には今日初めて動いた心臓がある。


「また一緒に飛ぼうね」


『訂正します』


「何を?」


『また、ではありません』


グライフの声が穏やかに響く。


『私とリサは、まだ空を飛んでいません』


「そうだったね」


『ですから』


青い光が、私だけへ向けられているように見えた。


『初めての飛行を、私にください』


胸の奥が、熱くなった。


事故の後、初めて空へ戻った訓練機ではない。


過去の天才だった私を運んだ機体でもない。


今の私が、自分の意思で選ぶ最初の翼。


「うん」


私は笑った。


「私の最初を、あなたにあげる」


その言葉を聞いた瞬間、グライフの青い誘導灯が、機体全体を走るように強く輝いた。


『約束を記録しました』


格納庫の奥で、アルフォンスが端末を取り落とす音がした。


「人格モデルの感情領域が、また勝手に変化した……?」


誰に向けたものでもない呟き。


私はその意味を、まだ深く考えなかった。


ただ、黒い機体へ触れたまま、次の試験を思い描いていた。


地上を走る。


低く浮く。


そして、空へ上がる。


一年前に墜ちた空へ。


今度は一人ではなく、この子と一緒に。

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