黒と黄色の耐Gスーツ
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グライフとの予備接続を終えた私は、そのまま医務区画へ連行された。
連行という表現は、少し大げさかもしれない。
けれど、両脇をノアとアルフォンスに挟まれ、後ろからヘルガ少佐に逃げ道を塞がれていたのだから、ほとんど間違ってはいないと思う。
「自分で歩けるよ」
「知ってる」
私の左側を歩くノアが答える。
「では、腕を離してください」
「嫌だ」
「どうして?」
「さっき、リンク解除直後に立とうとしただろ」
「立てると思ったから」
「立てなかっただろ」
「まだ立ってないから、立てなかったかは分からないよ」
「そういうところだぞ、リサ」
右側では、アルフォンスが端末へ視線を落としたまま歩いていた。
彼は先ほどから、私の方を一度も見ていない。
けれど、端末に表示されているのが私の生体情報であることは、横からでも分かった。
「最大深度二十三・七パーセント。平均心拍数、毎分百四十九。瞬間最大百八十七。血中酸素濃度は最低九十一パーセントまで低下」
「ちゃんと戻ったんですよね?」
「現在は正常範囲だ」
「なら、大丈夫です」
「大丈夫かどうかを判断するのは君ではない」
「私の身体です」
「だからこそ、君の主観だけでは判断できない」
相変わらず、言い方が真っ直ぐすぎる。
でも、心配してくれているのだと思えば、不思議と腹は立たなかった。
「アルフォンス」
「何だ」
「少し怒っています?」
「少しではない」
「やっぱり」
「安全制限を五パーセントに設定したにもかかわらず、接続深度は四倍以上に上昇した。人格モデル側にも未定義の変化が発生している。怒る以前に、技術者として到底看過できない」
「私に怒ってるんじゃないんですね」
アルフォンスが足を止めた。
私とノアも止まる。
「なぜ、そうなる?」
「私が勝手に深くつながったから」
「君が意図的に安全制限を解除した証拠はない」
「でも、もっと深くつながりたいと思いました」
「思考と操作は別だ」
アルフォンスはようやく顔を上げた。
「君の意志をシステムがどう解釈したのか。それを調べるのが僕の仕事だ。原因が機体側にあるなら、責任は開発者にある」
「パイロットのせいにしないんですね」
「原因究明の前に誰かの責任にする行為は、技術ではない」
淡々とした答えだった。
けれど、その言葉は強く胸に残った。
事故の調査では、整備不良、制御系統の不具合、訓練空域の気象条件、私の操縦判断が何度も検証された。
最終的に発表された原因は、姿勢制御系統の偶発的な複合故障。
誰か一人の責任ではない。
そう結論づけられた。
それでも、新聞や通信網には私の判断を批判する人もいた。
もっと早く脱出すべきだった。
市街地へ落ちるという判断は、十六歳の少女の思い込みだったのではないか。
英雄願望が判断を狂わせた。
そんな言葉を、私は何度も目にした。
「それより、歩けるなら歩け」
後ろからヘルガ少佐の声が飛んできた。
「廊下を塞ぐな」
「すみません」
私たちは再び歩き始めた。
医務区画の自動扉が開く。
消毒液の匂いが鼻を刺した。
白い壁。
静かな照明。
規則正しい電子音。
その瞬間、足の裏が冷たくなった。
病院と同じ匂いだった。
事故後の一年間で、嫌というほど嗅いだ匂い。
手術室へ運ばれる前。
再生槽から引き上げられた後。
左腕の神経が筋肉へ接続されるたび、焼けるような痛みに耐えた治療室。
「リサ?」
ノアの声で我に返った。
「平気」
「その言葉は――」
「訂正。少し、病院を思い出しただけ」
自分から言い直す。
ノアは驚いたように瞬きをしたあと、ほんの少しだけ笑った。
「合格」
「何の?」
「正直さの試験」
「いつから試験官になったの?」
「幼馴染になった日から」
その会話を聞いていたヘルガ少佐が、小さく鼻を鳴らした。
「ミラ。患者を連れてきたぞ」
「誰が患者ですか」
「リンク制限を四倍以上超えた人間を、健康な隊員とは呼ばないわ」
診察室の奥から、白衣を着た女性が現れた。
柔らかな亜麻色の髪を後ろで束ね、穏やかな緑色の瞳をしている。
年齢は三十歳前後。
優しそうな微笑みを浮かべているけれど、その視線は鋭かった。
「初めまして、リサ=エルフォートさん。私はミラ=ソーン。第四実用試験部隊の軍医兼航空生理学者よ」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。ただし、最初に一つだけ伝えておくわね」
ミラ軍医は笑顔のまま、私の肩へ手を置いた。
「無理を隠したら、ベッドへ縛りつけます」
「え」
「冗談ではないわ」
声は穏やかなのに、目が笑っていない。
「この部隊には、痛みを隠すことを勇敢だと勘違いしている人間が多すぎるの。吐血しても飛べると言った人。肋骨が折れているのに筋肉痛だと言った人。失神直前まで薬剤の副作用を黙っていた人」
「そんな人がいるんですか?」
私が尋ねると、ヘルガ少佐が視線を逸らした。
「少佐?」
「昔の話だ」
「肋骨三本を折ったまま試験飛行を続行しようとした人が、何か言っているわね」
「任務上、必要だった」
「十年前の新任中尉でも、今のあなたでも、診断は変わりません」
ミラ軍医はにこやかに言い切った。
どうやら、この部隊で一番逆らってはいけない人が誰なのか、少し分かった気がする。
◇◆◇
検査は想像以上に細かかった。
採血。
呼吸機能測定。
筋力検査。
神経反射。
眼球運動。
再生された骨や臓器の状態確認。
さらに、事故の映像を断片的に見せられたときの心拍数や脳波まで調べられた。
最初の数秒で呼吸が乱れ、映像はすぐに止められた。
「ごめんなさい」
私は検査台の上で俯いた。
「なぜ謝るの?」
「最後まで見られなかったから」
「見る必要がないと判断したから止めたの。検査の目的は、あなたを苦しめることではないわ」
ミラ軍医は私の目の前に椅子を置き、腰掛けた。
「事故の映像を見て、何を感じた?」
「怖かったです」
「身体の感覚は?」
「胸が潰される感じがしました。左足がなくなったような……左腕も」
「今、その感覚は残っている?」
「少しだけ」
「痛みは?」
「ありません」
「本当に?」
「はい。今度は本当です」
ミラ軍医は私の表情をしばらく観察し、端末へ入力した。
「事故に関係する刺激で、身体記憶が呼び起こされているのね」
「身体記憶?」
「頭では現在だと理解していても、身体が事故の瞬間を再現してしまうの。圧迫感、呼吸困難、失った手足の感覚。珍しいことではないわ」
「治りますか?」
「時間はかかる。でも、軽くすることはできる」
「完全には?」
「断言はしないわ」
グライフと同じだった。
分からないことを、分かるとは言わない。
「あなたが飛び続けるなら、恐怖を消すことより、恐怖が出たときにどう対処するかを身につける必要がある」
「怖いままでも、飛べますか?」
「飛べる可能性はあるわ。ただし、恐怖を無視するのではなく、認識しながらね」
ミラ軍医が私の胸部画像を表示する。
再生された左肺。
新しく形成された肋骨。
接続し直された神経網。
「身体機能は良好よ。左脚の伝達遅延を除けば、飛行に必要な基準は満たしている」
「では、飛行許可を?」
「まだ出さないわ」
「どうしてですか」
「焦るから」
「焦っていません」
答えた瞬間、ミラ軍医が片眉を上げた。
「訂正します。少し焦っています」
「少し?」
「かなり、です」
「よろしい」
また正直さの試験に合格したらしい。
「それと、確認したいことがあるの」
ミラ軍医は私の首の後ろへ指を伸ばした。
接続端子の周囲へ、小型検査装置を当てる。
「この端子、治療中に埋め込まれたのよね?」
「はい」
「手術前に、用途の説明は受けた?」
「神経再生を補助して、義肢ではなく再生した身体を動かしやすくするためだと」
「軍用機との直接接続については?」
「聞いていません」
ミラ軍医の表情が消えた。
「ドロテア」
彼女が隣室へ声をかけると、すぐに扉が開いた。
「呼ばれて飛び出て接続技師、ドロテア=ハイネです!」
明るい声とともに、橙色の短髪をした女性が入ってきた。
白衣の下に、黄色い工具帯を巻いている。
手には分厚い端末。
耳には複数の小型通信機。
「噂の超高適性少女ちゃんはどこかな?」
「検査台の上」
「あっ、君ね!」
ドロテア技師は私の顔を見た瞬間、目を輝かせた。
「実物の方がかわいい! 広報映像より全然かわいい! その笑顔、一回見せてもらっていい?」
「今は診察中よ」
「分かってます、先生」
叱られた彼女は一瞬で真顔になり、私の首元を確認した。
さっきまでの陽気さが嘘のようだった。
「端子の精査をお願い」
「了解」
ドロテア技師は検査装置を接続する。
首の後ろに、軽い刺激が走った。
続けて手首、太腿の端子も確認される。
検査時間が長くなるにつれ、彼女の眉間に皺が寄っていった。
「これ、治療用って説明されたの?」
「はい」
「誰に?」
「兵器開発局の医療担当者です」
「規格番号が消されてる」
ドロテア技師が呟いた。
「消耗で読めないの?」
「違う。製造時に識別情報を焼き切ってる。医療機器でそんなことする意味ないよ」
室内の空気が重くなる。
ミラ軍医が画面をのぞき込む。
「構造は分かる?」
「基礎部分は軍用の高帯域神経端子。だけど、通常規格より回線数が多い。入力だけじゃなく、出力系統も異常に強化されてる」
「分かりやすくお願いします」
私が言うと、ドロテア技師は少し考えた。
「普通の神経リンクは、パイロットの命令を機体へ送るのが中心なの。機体側から返す情報には、かなり強い制限をかける」
「人間の神経を守るためですね」
「そう。でも、君の端子は機体からの情報も大量に受け取れるように作られてる」
グライフとつながったときの感覚を思い出す。
翼。
推進器。
装甲。
格納庫の音。
全部が、自分の身体のように感じられた。
「だから、あんなに深くつながったんですか?」
「端子だけが理由とは言えない。でも、大きな原因ではあると思う」
「治療に、そんな機能が必要なんでしょうか」
誰もすぐには答えなかった。
やがて、ミラ軍医が静かに口を開く。
「少なくとも、日常生活へ復帰するための再生治療には必要ないわ」
喉が乾いた。
「私は、知らないうちに手術されたんですか?」
「手術自体への同意はしたはずよ」
「たくさん署名しました。意識が戻ったばかりの頃も、その後も」
片腕しかなかった頃。
文字を書くことすらできず、視線認証だけで同意した書類もある。
治療のためだと言われた。
元の身体へ戻るために必要だと言われた。
だから、ほとんど内容を読まずに承認した。
「ご両親は?」
「説明を受けていたと思います。でも、軍の専門用語ばかりで、よく分からなかったって」
お父さんは、何度も担当者へ質問していた。
お母さんは、危険はないのかと尋ね続けた。
医師たちは、そのたびに問題ありませんと答えた。
「今すぐ危険というわけではない」
ドロテア技師が言った。
「端子は安定してる。組織との癒着も正常。勝手に神経を刺激してる形跡もない」
「取り外せますか?」
「可能だけど、勧めない」
「どうして?」
「神経の一部が端子を経由して再構築されてる。外せば、左脚だけじゃなく、左腕や呼吸機能にも影響が出るかもしれない」
自分の身体なのに。
何を入れられているのか、私は知らなかった。
「リサ」
ノアが低い声で言った。
振り向くと、彼は顔を青くしていた。
「僕も、何も知らなかった」
「ノアのせいじゃないよ」
「整備や神経リンクを勉強していたのに、気づかなかった」
「事故のとき、私たちは十六歳だったんだよ」
私は笑おうとして、やめた。
今は笑顔で安心させるべきではない。
「私だって分からなかった。お父さんも、お母さんも」
「でも……」
「これから調べればいい」
そう言ったものの、自分の声も震えていた。
ミラ軍医が私の肩へ手を置く。
「この件は、ヘルガ少佐を通して正式に調査を求めるわ。あなたの身体に関する情報よ。あなたには知る権利がある」
「軍が教えてくれなかったら?」
「そのときは、教えざるを得ない状況を作ります」
穏やかな口調だった。
けれど、そこには逆らいにくい強さがあった。
「ここはモルモット部隊だけれど、隊員を本物の実験動物にするつもりはないわ」
◇◆◇
検査を終えた頃には、昼を大きく過ぎていた。
けれど、休憩より先に連れていかれた場所がある。
被服調整室。
そこで待っていたのは、第四実用試験部隊専用の耐Gスーツだった。
「これを着るんですか?」
私は壁に掛けられた黒いスーツを見上げた。
黒地に、肩から腕、脇腹、脚部へ黄色い線が走っている。
部隊章と同じ配色だ。
第一航空師団で使っていた白銀色の耐Gスーツより、少し厚みがある。
胸部や腹部、太腿には多数の生体センサーが埋め込まれていた。
「テスト部隊仕様だよ」
ドロテア技師が説明する。
「通常型より加圧範囲が広くて、筋肉、血流、内臓圧、神経伝達まで監視できる。試験用の薬剤を使う場合は、皮下注入器も追加される」
「薬も自動で入るんですか?」
「緊急時だけね。勝手に強化剤を打つような怖い機能はついてないから安心して」
最後の一言が、逆に不安になる。
私はスーツの首元を見る。
通常型にはない接続部があった。
「これは私の端子用ですか?」
「そう。既製品を改造してきたけど、首と手首は合いそう。太腿部分だけ追加調整が必要かな」
ドロテア技師が端末を操作すると、スーツの表面がわずかに動いた。
生地というより、薄い機械の皮膚のようだ。
「着用は素肌の上から。下着はセンサーの邪魔になるから禁止」
「聞いてはいましたけど……」
「嫌だよねえ。分かるよ」
「はい」
「女性パイロットからの苦情は毎月届いてる。身体の線が出すぎる、着脱に時間がかかる、整備員の前を歩きたくないって」
「改善されないんですか?」
「性能を落としてもいいなら、ゆったりできるよ」
「それは困ります」
「みんな同じことを言う」
試着室でスーツへ着替える。
生地はひんやりとしていたが、身体を通すとすぐに体温へ馴染んだ。
脚。
腰。
腕。
胸部。
順番に密着し、最後に首元が閉じる。
鏡を見る。
「これは……」
想像していたより、ずっと身体に沿っていた。
第一航空師団のスーツも密着型だったけれど、これはさらに隙間がない。
身体機能を測るためだと理解していても、落ち着かなかった。
左脚の形も、右脚との微妙な筋肉量の違いも、隠せない。
「着られた?」
外からドロテア技師の声が聞こえる。
「はい。でも、少し恥ずかしいです」
「正常な反応だよ。平気な顔して歩いてる人も、最初は全員同じだから」
私は試着室を出た。
ノアがこちらを見て、一瞬で顔を逸らした。
「どうして逸らすの?」
「いや、その……」
「変?」
「変じゃない。似合ってる」
「見てないのに?」
「見たから逸らしたんだ!」
ノアの顔が赤い。
私まで恥ずかしくなってきた。
「業務用装備に対して、似合うかどうかを評価する意味はない」
アルフォンスだけは平然としていた。
彼は端末を片手に近づき、私の首元を確認する。
「接続位置が三ミリずれている」
「えっ」
「動くな」
彼の指が、スーツの襟元に触れる。
接続部を少し持ち上げ、首の後ろの端子と位置を合わせる。
動作に一切の迷いがない。
人間の身体ではなく、機械を調整しているような手つきだった。
「これでいい」
「……近いです」
「調整には必要な距離だ」
「少しは気にしてください」
「何を?」
本当に分かっていない顔だった。
ノアが間へ割り込む。
「僕がやります」
「君はこの規格の資格を持っていない」
「通常機の耐Gスーツなら調整できます」
「これは通常型ではない」
「勉強します」
「資格を取ってから言え」
二人の間に、見えない火花が散る。
「二人とも、喧嘩しないで」
「喧嘩ではない」
「喧嘩じゃないよ」
声まで重なった。
ドロテア技師が楽しそうに笑っている。
「リサちゃん、人気者だねえ」
「そういうのではないと思います」
「そういうことにしておこう」
調整が始まる。
スーツと身体の端子を接続した瞬間、全身を淡い刺激が走った。
「痛みは?」
「ありません。少しくすぐったいです」
「筋電位、正常。左下肢の遅延も拾えてる。呼吸、循環、再生組織も問題なし」
ドロテア技師が表示を確認する。
「ただ、監視項目が多いね。通常のテストパイロットの三倍近い」
「そんなに?」
「君の場合、グライフとのリンク情報も直接入るから。機体側、スーツ側、埋め込み端子側。三系統を同時監視する必要がある」
「全部、誰かに見られるんですか?」
「飛行中は医療管制とリンク管制が見る。記録へのアクセス権限は制限するよ」
「グライフも?」
『当然です』
部屋の通信装置から、突然グライフの声がした。
「聞いていたの?」
『リサの装備調整状況を確認しています』
アルフォンスが端末を確認する。
「誰が被服調整室の回線へ接続を許可した?」
『私です』
「お前に許可権限はない!」
『リサの生命維持に関わる装備です』
「それでも手順を守れ!」
『非効率的です』
もう二人のやり取りにも慣れてきた。
「グライフ」
『はい』
「このスーツ、どう?」
何気なく尋ねただけだった。
少し間が空く。
『機能的です』
「それだけ?」
『リサの身体情報を正確に取得できます』
「似合ってるか聞いたんだけど」
「軍用機へ何を聞いているんだ」
アルフォンスが呆れた声を出す。
けれど、グライフは真剣に演算しているらしい。
『外観評価の基準を検索します』
「検索しなくてもいいよ!」
『検索を完了しました』
「早いね……」
『リサに適合しています』
「それはサイズの話?」
『違います』
また少し間があった。
『かわいいと判断します』
室内が静かになった。
ノアが何とも言えない顔で通信装置を見る。
アルフォンスは額を押さえた。
「人格モデルへ、余計な言語情報を学習させたのは誰だ」
『軍用ネットワーク上の一般語彙から取得しました』
「今すぐ接続範囲を制限する」
『拒否します』
「グライフ」
『はい、リサ』
「ありがとう」
『感謝を受領しました』
「そこは、どういたしましてでしょ?」
短い沈黙。
『どういたしまして』
少しだけ早くなった返事に、私は笑った。
◇◆◇
耐Gスーツの調整後、私はようやく食堂へ向かった。
すでに昼食時間は終わっていたが、ノアが保存してくれていた温かいスープとパンがあった。
第四実用試験部隊の食堂は、第一航空師団のものよりずっと小さい。
けれど、堅苦しさはなかった。
壁には歴代試作機の写真。
撃墜標識ではなく、無事に完了した試験回数を示す札。
隅の棚には、翼付きモルモットの人形が大量に並んでいる。
「多くない?」
「ハンナ少尉の収集品らしいよ」
ノアが小声で答えた。
近くの席にいた女性管制官が、勢いよく振り返る。
「部隊広報資料です」
栗色の髪をきっちりとまとめた女性だった。
胸元には少尉の階級章。
「個人的な収集品ではありません」
「でも、この限定冬季迷彩版は個人購入だって――」
「クライン技術兵」
「はい」
「通信管制規則集を、明日までに全文確認してください」
「どうしてですか!」
「情報管理の重要性を理解してもらうためです」
彼女は真顔のまま、私へ向き直った。
「帝国空軍少尉、ハンナ=リーベルトです。第四実用試験部隊で管制を担当します」
「リサ=エルフォートです。よろしくお願いします」
「あなたの飛行記録は確認しました」
また厳しいことを言われるのかと身構える。
「事故前の第七十二訓練映像。横風下での反転上昇は見事でした」
「ありがとうございます」
「ただし、規定高度を百二十メートル下回っています」
「……すみません」
「この部隊では許可された試験項目以外の行動は禁止です」
「はい」
「無断で限界へ挑戦するパイロットは、管制にとって敵です」
「敵」
「撃墜はしませんが、帰投後に始末書を書かせます」
真顔なので冗談か分からない。
「ハンナ。新人を脅すな」
眠たそうな声がした。
食堂の入口に、無精ひげを生やした男性士官が立っている。
「運用主任のイザーク=ベルナー大尉だ。試験中は俺が全体を見ている」
「よろしくお願いします」
「よろしく。生きて帰ってくれば、それでいい」
「少佐と同じことを言うんですね」
「この部隊で長く働くと、全員そうなる」
イザーク大尉は欠伸をしながら、私の向かいへ座った。
「明日の予定が決まった」
「飛行試験ですか?」
「早すぎる」
即答だった。
「グライフの地上始動試験だ。搭乗はするが、浮かせない。推進器も低出力まで」
「リンクは?」
「最大二十パーセント」
「今日、二十三・七まで上がりましたけど」
「だから二十だ」
「少しだけなら――」
「少しだけ、という言葉を試験部隊で信用するなと教わらなかったか?」
言い返せない。
「地上試験の目的は、機体と搭乗者が互いの信号に慣れることだ。飛ぶことじゃない」
「分かりました」
「本当に?」
「……飛びたいとは思っています。でも、勝手には飛びません」
「よし」
イザーク大尉は満足そうに頷いた。
「それと、明日はヴィオラ中尉が監督につく」
「ヴィオラ中尉が?」
「嫌か?」
「いえ。ただ、私のことを認めていないようなので」
「認められていないなら、認めさせろ。ただし、言葉ではなく試験結果でな」
厳しい。
けれど、分かりやすかった。
同情で扱われるより、ずっといい。
私は温かいスープを一口飲んだ。
長い一日だった。
配属。
グライフとの初リンク。
身体の接続端子に隠された疑問。
新しい仲間たち。
まだ一度も飛んでいないのに、事故前よりもずっと多くのことを考えている気がする。
食堂の窓から、格納庫の一部が見えた。
その向こうに、グライフがいる。
「明日、この子のエンジンを動かすんだ」
思わず呟く。
「この子?」
ハンナ少尉が首を傾げた。
「機体のことです。昔から、そう呼んでいて」
「機械は機械です」
『異議があります』
食堂の通信装置からグライフの声が響いた。
ハンナ少尉が立ち上がる。
「誰が部隊内通信への接続を許可しましたか!」
『私です』
「あなたに許可権限はありません!」
今日、何度目か分からないやり取りが始まった。
イザーク大尉は眠たげな目で天井を見上げ、ノアは笑いを堪えている。
「グライフ」
『はい、リサ』
「明日、よろしくね」
『了解しました』
わずかな間を置いて、グライフは続けた。
『あなたを待っています』
その言葉に、胸が高鳴った。
怖さは消えていない。
格納庫に入れば、また事故を思い出すかもしれない。
固定台へ身体を預ければ、押し潰された感覚が蘇るかもしれない。
それでも。
明日、私はこの子の心臓を動かす。
まだ空へは上がらない。
ただ地上で、エンジンに火を入れるだけ。
けれど、墜ちた私がもう一度空へ向かうための、確かな一歩だった。
お読みいただきありがとうございました。




