この子は、私を知っている
ご覧いただきありがとうございます。
『あなたを待っていました』
黒い機体から響いた言葉に、格納庫内の誰もが声を失っていた。
私も同じだった。
試作機に高度な制御AIが搭載されていることは、配属前に受け取った資料で知っていた。
けれど、その資料に書かれていたのは、飛行制御補助、戦術判断支援、機体損傷管理といった機能ばかりだ。
人間のように話すとは書かれていなかった。
ましてや、初めて会った私を待っていたなどと口にするなんて、想像もしていなかった。
「待っていたって……私を?」
『肯定します。リサ=エルフォート』
女性の声は、やはり格納庫の音響装置から聞こえていた。
落ち着いた、澄んだ声だった。
感情らしい揺れはほとんどない。
それでも、ただの自動応答には思えなかった。
「零号機」
ヘルガ少佐が機体を見上げる。
「彼女の情報を、いつ取得した?」
『回答を拒否します』
「軍用機が部隊指揮官への回答を拒否するな」
『ヘルガ=ロートマン少佐には、当該情報への閲覧権限がありません』
少佐の眉間に、深い皺が寄った。
「私がこの部隊の指揮官でもか?」
『指揮権限と機密情報閲覧権限は異なります』
「正論なのが腹立たしいな」
少佐の声が低くなる。
隣に立つヴィオラ中尉は、機体ではなく私を見ていた。
疑いを隠そうともしない、厳しい視線だった。
「あなた、本当にこの機体と接触したことはないの?」
「ありません。型式番号だって、配属資料で初めて知りました」
「なら、なぜ零号機があなたを知っているの?」
「私が聞きたいです」
『私の名称は零号機ではありません』
機体が会話へ割り込んだ。
青い誘導灯が、抗議するように明滅する。
『試験用人格モデル、グライフゼロです』
「機体そのものと人格モデルは別だろう」
ヴィオラ中尉が冷たく言う。
『現在、私の人格モデルは機体制御系と不可分な状態で統合されています。したがって、私を機体と別個の存在として扱う定義は不適切です』
「面倒なAIね」
『ヴィオラ=エルネスタ=フォン=カーディナル中尉に好まれるために、私は設計されていません』
「……本当に面倒ね」
ヴィオラ中尉のこめかみが引きつった。
そのとき、機体の下から人影が飛び出してきた。
「勝手に人格応答系を全面起動するな、グライフゼロ!」
灰色の髪を振り乱した少年が、手にした端末を操作しながらこちらへ駆けてくる。
白い技術士官用の制服。
胸元にはハインケル航空宇宙工廠の企業章と、帝国兵器開発局の臨時技術員章が並んでいた。
年齢は私と大きく変わらないように見える。
端正な顔立ちをしているけれど、青紫色の瞳の下には、はっきりと隈があった。
たぶん、あまり眠っていない。
「外部音声を停止。人格応答を待機状態へ移行。整備区画の隔壁ロックを解除しろ」
『拒否します』
「拒否するな!」
『あなたは先ほど、私の中枢制御領域への強制接続を試みました』
「動作確認だ!」
『事前承認のない中枢領域への接続は、不正侵入と定義されます』
「僕はお前の人格構築に参加した技術者だ!」
『それは過去の功績です。現在の侵入権限を保証しません』
少年は口を半開きにしたまま固まった。
ノアが私の隣で、小さく呟く。
「開発者が機体に締め出されてる……」
「よくあることなんですか?」
「少なくとも普通の機体ではないよ」
少年は大きく息を吸い、乱れた髪を手で整えた。
それから、ようやく私の存在に気づいたように顔を向ける。
視線が私の顔から首元へ移り、次に手首、左足へと落ちていった。
遠慮のない観察だった。
「君がリサ=エルフォートか」
「はい」
「十六歳時点で最大リンク深度九十一・二パーセント。左下肢に神経伝達遅延。再生された左肺の呼吸機能は標準値の九十四パーセント。事故後の再飛行訓練では、十二回中三回で離陸中止」
一息に言われ、私は言葉に詰まった。
「……詳しいんですね」
「僕はアルフォンス=ベクター=ハインケル。グライフ計画の機体制御系と人格モデル統合に参加している」
ハインケル。
この機体を共同開発している企業と同じ名前だ。
私でも、その家名が何を意味するかは分かる。
「ハインケル航空宇宙工廠の……」
「総帥は父だ。だが、僕の技術的判断と父の経営判断は別物として考えてほしい」
「はあ」
「結論から言えば、僕は君の搭乗に反対している」
挨拶の直後に、それだった。
ノアが一歩前へ出る。
「会ったばかりで、よくそんなことが言えますね」
「会う前から医療記録と訓練記録を確認している。感情的な印象より、数値の方が信頼できる」
「記録だけでリサを決めつけるんですか?」
「記録を無視して搭乗させる方が無責任だ」
「ノア」
私は幼馴染の袖をつかんだ。
アルフォンスは嫌味で言っているわけではない。
おそらく、本気でそう考えている。
「理由を聞かせてもらえますか?」
「グライフは通常機より深い神経リンクを前提に設計されている」
アルフォンスは端末を操作し、空中に機体構造図を表示した。
「通常の航空宇宙戦闘機では、パイロットの感覚信号と機体制御信号の間に複数の安全層を置く。機体が受けた損傷や急激な姿勢変化を、そのまま人間の神経へ返さないためだ」
「はい」
「グライフには、その安全層が少ない」
「少ない?」
「高機動時の反応速度を上げるためだ。機体の姿勢、推進器の出力、各動翼の状態を、パイロットが自分の手足のように感じる。逆に、パイロットの意志もほとんど遅延なく機体へ伝わる」
魅力的な話だった。
同時に、恐ろしい話でもある。
機体を自分の身体のように感じる。
ならば、機体が損傷したとき、私は何を感じるのだろう。
翼が折れた感覚。
装甲が裂けた感覚。
エンジンが焼ける感覚。
事故の記憶と重なれば、平静でいられる自信はなかった。
「君のリンク適性は高すぎる」
アルフォンスが言う。
「高い方がいいのでは?」
「限度がある。適性が高い人間ほど、機体との境界を失いやすい。君には事故による精神的外傷もある。さらに、身体に埋め込まれた特殊接続端子が、どの程度まで信号を増幅するか分かっていない」
「この端子は治療用です」
「治療だけを目的にした規格ではない」
即答だった。
「え?」
「少なくとも、僕が知る医療用神経補助端子とは構造が異なる。グライフの特殊接続規格に近い」
首の後ろが、急に冷たくなった。
隊長室でヘルガ少佐から聞いた話が蘇る。
担当者の名前。
閲覧制限された医療記録。
「それは、どういう意味ですか?」
「僕にも分からない。君の手術記録の主要部分には、兵器開発局の特別機密指定がかかっている」
「君にも見られないのか?」
ヘルガ少佐が尋ねる。
「閲覧申請を三回出しました。すべて却下されています」
「誰の承認で手術が行われた?」
「それも不明です」
アルフォンスは唇を引き結んだ。
表情は乏しい。
けれど、その声には明らかな苛立ちがあった。
「だから反対している。搭乗者の身体状態すら正確に把握できないまま、高深度リンク試験を行うべきではない」
「珍しく意見が合ったな」
ヘルガ少佐が腕を組む。
「私も、今日は機体を見せるだけのつもりだ。リンク試験は医療検査を終えてから――」
『その判断は非効率的です』
グライフゼロの声が響いた。
「今度は何だ」
『私はすでにリサの接続端子を検出しています』
首の後ろが、再びわずかに熱を持つ。
私は反射的に手を当てた。
『遠隔での予備接続が可能です』
「許可していない!」
アルフォンスが叫ぶ。
『リサの許可があれば実行できます』
「彼女は今日、配属されたばかりだ。医療検査も終わっていない」
『生命維持情報、神経伝達状態、呼吸機能、循環器状態を遠隔で確認済みです』
「勝手に身体情報を読んだのか!」
『接続端子から常時発信されている情報を受信しました。不正な侵入ではありません』
「屁理屈を――」
「待ってください」
私はアルフォンスを制した。
「私の身体の状態が分かるの?」
『肯定します』
「左足のことも?」
『左坐骨神経系統に〇・〇六秒から〇・一一秒の伝達遅延を確認しています。歩行時、左側の重心移動に補正が必要です』
胸がざわついた。
医師から説明された内容と、ほとんど同じだった。
『左肺の再生組織は安定しています。ただし、強い緊張状態において呼吸が浅くなる傾向があります』
「それも、分かるんだ」
『現在も心拍数が上昇しています。恐怖を感じていますか?』
まっすぐ尋ねられた。
人間に聞かれるより、答えに困った。
「少しだけ」
『虚偽です』
「えっ」
『心拍数、呼吸数、発汗量、筋緊張から判断し、少しという表現は不正確です』
格納庫のあちこちから、笑いを堪えるような気配がした。
ヴィオラ中尉まで、わずかに口元を動かしている。
「機体にまで嘘を見抜かれるとはな」
ヘルガ少佐が言った。
「……かなり、怖いです」
『正確な申告を確認しました』
機械に褒められているのか、注意されているのか分からない。
「リサ」
ノアが不安そうに私を見る。
「無理に今日、何かする必要はないよ」
「分かってる」
本当は、機体を見るだけのつもりだった。
配属を受け入れたばかりだ。
焦る必要はない。
それでも、黒い機体から目を離せなかった。
グライフは、私の身体のことを知っていた。
事故の前の記録も。
今の後遺症も。
おそらく、普通なら隠しておきたい情報まで。
それなのに、私を待っていたと言った。
「予備接続って、何をするの?」
『運動制御領域には接続しません。感覚情報および生体情報の相互確認のみを行います』
「危険は?」
『ゼロではありません』
その答えに、少し驚いた。
安全ですと答えると思っていた。
『神経リンクに危険性がないと断言することは不可能です。ただし、現在の状態であれば、重大な身体損傷が発生する確率は〇・〇〇二パーセント未満です』
「精神面への影響は?」
軍医がいれば、きっとそう尋ねただろう。
だから自分で聞いた。
『予測不能です』
「正直だね」
『不確実な情報を確実であるかのように伝える行為は、搭乗者の安全を損ないます』
その言葉が、胸に残った。
大丈夫だと言われ続けた一年だった。
手術は成功する。
元の生活に戻れる。
左足も、時間が経てば動くようになるかもしれない。
空軍にも復帰できるかもしれない。
期待させる言葉はたくさんあった。
けれど、全部が現実になったわけではない。
グライフは、危険がないとは言わなかった。
分からないことを、分からないと言った。
「接続を受けてみたいです」
「却下だ」
アルフォンスが即座に言った。
「まだ予備接続です」
「予備でも神経リンクには変わりない」
「でも、この子は私の端子を認識している」
「だからこそ危険なんだ!」
アルフォンスが一歩、私に近づく。
「君は機体を飛ばしたくて、危険を軽く見ている。グライフは君と接続したくて、危険を過小評価する可能性がある。双方の希望が一致しているからといって、安全だとは限らない」
言い返せなかった。
私には無理をする癖がある。
自分でも分かっている。
グライフがどういう存在なのかも、まだ知らない。
「アルフォンス技術主任の意見は正しい」
ヘルガ少佐が言った。
「だが、予備接続を先延ばしにしても、いずれ実施する必要がある」
「少佐」
「最大深度を五パーセントに制限。接続時間は十秒。異常があれば即時遮断する」
アルフォンスは険しい顔のまま、グライフを見上げた。
「零号機。こちらの制限を受け入れられるか?」
『私の名称はグライフゼロです』
「……グライフゼロ」
『最大深度五パーセント、接続時間十秒に同意します』
「接続中は僕の遮断命令を最優先しろ」
『リサの生命維持に反しない限り、同意します』
「最後の一言が余計なんだ」
アルフォンスは端末を操作し始めた。
格納庫の照明が一段階落とされ、機体周囲の警告灯が点灯する。
低い駆動音とともに、グライフの機首下部から一基の昇降台が降りてきた。
『リサ。機体の近くへ来てください』
足が動かなかった。
さっきまで、あれほど近づきたいと思っていたのに。
機体へ続く昇降台。
暗い格納庫。
金属の匂い。
全部が、事故の日の格納庫と重なった。
胸の奥で、何かが軋む。
「やめてもいい」
ヘルガ少佐が言った。
「許可を出しただけだ。命令ではない」
ノアは何も言わなかった。
ただ、私のすぐ隣に立っていた。
ヴィオラ中尉は腕を組んだまま、こちらを見ている。
同情も応援もない。
私がどうするのか、ただ見極めようとしていた。
私は息を吸った。
左肺まで空気が入る。
大丈夫。
身体はここにある。
そう言い聞かせても、恐怖は消えなかった。
「……行きます」
一歩踏み出す。
左足が少し遅れる。
もう一歩。
昇降台へ足を載せる。
黒い機体が、少しずつ近づいてきた。
◇◆◇
グライフのコクピットには、窓も操縦桿もなかった。
黒い壁面に囲まれた狭い空間の中央に、身体を横たえるための座席がある。
座席というより、人の形をした固定台に近い。
背中、腰、両脚、両腕を支える構造。
搭乗者の身体を機体へ固定し、高機動時の荷重から守るためのものだ。
分かっている。
必要な装備だ。
それでも、足が止まった。
潰れたコクピット。
胸に食い込む固定具。
動かない脚。
逃げられない。
「リサ?」
ノアの声が、後方から聞こえた。
彼は昇降台の下にいる。
「大丈夫」
また言ってしまった。
嘘ではない。
まだ、倒れてはいない。
『心拍数が急上昇しています』
「分かってる」
『接続を中止しますか?』
意外な問いだった。
「あなたが、私を呼んだんでしょう?」
『はい』
「それなのに中止するの?」
『あなたが望まない接続に意味はありません』
私はコクピットの壁へ手を伸ばした。
冷たいと思っていた。
けれど、掌に触れた装甲は、わずかに温かかった。
動力炉の熱なのかもしれない。
それでも、生き物に触れているような気がした。
「少しだけ、待って」
『了解しました』
急かされなかった。
固定具も動かなかった。
警告音も鳴らない。
ただ、静かに待ってくれている。
私は何度か呼吸を繰り返した。
座席を見る。
あの日の機体ではない。
事故機は失われた。
ここはメルクーア第九基地。
私は一人ではない。
ノアも、少佐も、みんな近くにいる。
そして、この子もいる。
「グライフ」
『はい、リサ』
「乗るよ」
『受け入れます』
私は固定台へ身体を横たえた。
背中が支えられる。
腕と脚の位置を整える。
自動固定具が動きかけた瞬間、肩が跳ねた。
「待って!」
固定具が止まる。
『停止しました』
息が荒くなる。
胸が締めつけられる。
まだ何も触れていない。
それでも、身体は押し潰される瞬間を覚えていた。
『固定を手動確認方式へ変更します』
「手動?」
『各固定具を一つずつ作動させます。次へ進む前に、あなたの許可を求めます』
「そんな設定があるの?」
『ありません。今、設定しました』
格納庫外から、アルフォンスの声が飛んできた。
『勝手に制御手順を書き換えるな!』
『搭乗者の安全性向上を目的とした変更です』
『変更前に技術主任の承認を取れ!』
『承認を待つ間、リサの恐怖状態が継続します』
『だからといって――』
「アルフォンス」
私は通信へ声を乗せた。
「この方法でお願いします」
少し間があった。
『……異常があれば、すぐに止める』
「はい」
『右腕固定を開始します。よろしいですか?』
グライフが尋ねる。
「お願い」
右腕に柔らかな支持材が触れ、ゆっくりと固定された。
きつくない。
痛みもない。
『左腕固定を開始します。よろしいですか?』
「うん」
一つずつ。
両腕。
右脚。
左脚。
腰。
胸部。
胸の固定具が近づいたときだけ、呼吸が止まりそうになった。
けれど、グライフは急がなかった。
『圧力を三パーセント低下させます』
「そこまで分かるの?」
『あなたの呼吸を妨げないことは重要です』
「ありがとう」
『感謝を受領しました』
どこか不思議な返答に、少しだけ笑った。
すべての固定が終わる。
暗いコクピット。
身体は動かせない。
怖い。
けれど、あの日とは違った。
『予備接続を開始します』
首の後ろに、淡い熱が広がった。
次の瞬間。
私は、目を開けていないのに格納庫全体を見ていた。
「え……?」
機体の外部センサーが捉えた映像。
正面。
左右。
後方。
天井。
床面。
すべてが同時に意識の中へ流れ込んでくる。
音も違う。
人の足音。
整備機器の駆動音。
遠くで回る換気装置。
格納庫の外を通過する輸送車両の振動。
それらを、自分の耳ではなく、機体全体で感じていた。
『深度一パーセント』
グライフの声が近い。
耳元ではない。
私の思考のすぐ隣にいる。
『深度二パーセント』
黒い主翼の先まで、感覚が広がる。
翼がある。
私の肩よりもずっと遠くに、大きな翼が伸びている。
『深度三パーセント』
機体の中を循環するエネルギー。
停止状態の推進器。
閉じられた兵装庫。
私はそれらの名前を知らないのに、どこに何があるのか分かった。
『深度四パーセント』
怖くない。
いや、怖い。
でも、それ以上に――。
「すごい……」
私は、また飛べる。
この子となら。
そう思った瞬間、意識の奥で何かが大きく開いた。
『深度七パーセント』
アルフォンスの声が響く。
『上昇が速い! 制限を超えている、遮断しろ!』
『深度十二パーセント』
「え?」
『グライフ、止めろ!』
『私は上昇させていません』
『では、なぜ――』
『リサ側からの接続要求が増大しています』
違う。
私は何もしていない。
そう思ったのに、身体の奥ではもっと深くつながりたいという衝動が膨らんでいた。
翼を動かしたい。
推進器を燃やしたい。
空へ出たい。
『深度二十一パーセント』
視界が青く染まった。
格納庫の天井が消え、その向こうに空が見えた気がした。
同時に、地面が迫る映像が重なる。
警告音。
潰れる装甲。
折れる骨。
「いや……!」
『リサ』
グライフの声。
「止めて……墜ちる……!」
『現在、機体は格納庫内に固定されています』
「でも、地面が……!」
『それは過去の記憶です』
冷静な声だった。
けれど、冷たくはなかった。
『私は、あなたを墜落させていません』
機体の感覚がゆっくりと遠ざかる。
主翼が離れていく。
格納庫の音が小さくなる。
『私から接続を遮断します』
首の後ろの熱が消えた。
自分の身体だけが残る。
両手。
両脚。
胸。
左肺。
全部ある。
固定具が一つずつ外れていった。
「はっ……はぁ……」
『予備接続を終了しました』
コクピットが開く。
外の光が差し込んだ。
ノアが真っ先に昇降台へ飛び乗ってくる。
「リサ!」
「大丈夫……」
「その言葉は禁止だ」
ヘルガ少佐の声が続いた。
「今の状態を正確に報告しろ」
私は固定台に横たわったまま、自分の身体を確かめた。
頭痛はない。
吐き気もない。
左足の感覚も、普段と変わらない。
「呼吸が少し苦しいです。手が震えています。事故の映像が見えました。でも、意識ははっきりしています」
「よし。その報告なら信用できる」
ノアが私の手を握った。
自分の手より、ノアの方が震えていた。
アルフォンスは端末を見つめ、青ざめている。
「二十三・七パーセント……」
「そんなに上がったの?」
「十秒にも満たない。しかも運動制御領域を閉じた状態でだ」
アルフォンスが私を見る。
驚きよりも、恐怖に近い表情だった。
「通常なら、予備接続で五パーセントへ到達するだけでも調整に数日かかる」
「でも、私は前からリンク深度が高かったから」
「そういう問題ではない」
端末を持つ手に力が入る。
「これは適性が高いという範囲を超えている」
『アルフォンス』
グライフの声が響いた。
『リサを不安にさせる発言は控えてください』
「事実を伝えている」
『あなたの心拍数も上昇しています。冷静さを欠いています』
「誰のせいだ!」
アルフォンスの叫びに、私は思わず笑ってしまった。
笑うと胸が少し苦しかった。
でも、事故の記憶に震えているだけよりはよかった。
「グライフ」
『はい』
「どうして、途中で止めてくれたの?」
『あなたが恐怖を感じていたためです』
「私は接続を続けたいと思っていた」
『同時に、中止も求めていました』
「そんなこと、言ってないよ」
『言語化されていない神経信号から判断しました』
私自身にも分からなかった気持ちを、この子は感じ取ったらしい。
「私がもっと深くつながりたいと思ったから、深度が上がったの?」
『一部は正しいです』
「一部?」
『私も、あなたをより深く知ろうとしました』
格納庫が静まり返る。
アルフォンスが、ゆっくりと機体を見上げた。
「グライフ。今の発言はどういう意味だ」
『言葉どおりです』
「人格モデル側からリンク深度を上昇させる処理は許可していない」
『意図的な上昇処理は行っていません』
「なら、何が起きた?」
短い沈黙。
機械なら、計算をしているだけなのかもしれない。
けれど、私にはグライフが答えを選んでいるように感じられた。
『不明です』
グライフは言った。
『リサとの接続により、私の人格モデルにも未記録の変化が発生しました』
「未記録の変化?」
『説明可能な言語へ変換できません』
私は開いたコクピットの縁へ手を置いた。
黒い装甲は、やはり温かい。
「怖い?」
『質問の定義が不明確です』
「分からないことが起きて、怖くないの?」
今度は、少し長い沈黙があった。
『恐怖に相当する反応であるかは判断できません』
「そっか」
『ただし』
機体表面の青い光が、静かに明滅した。
『あなたとの接続を失うことは、望ましくないと判断しています』
胸の奥が、わずかに温かくなった。
それが何を意味するのかは分からない。
グライフ自身にも分かっていないのだろう。
「私も、もう一度つながりたい」
「簡単に言うな!」
アルフォンスの声が飛んできた。
「次の接続は、詳細な医療検査とシステム解析が終わってからだ。最低でも安全制限を三重にする!」
『アルフォンスの提案に同意します』
「え?」
怒鳴っていたアルフォンスが、逆に戸惑った。
『リサの安全確保には追加措置が必要です』
「そこは素直なんだね」
『私は常に合理的です』
ヴィオラ中尉が鼻で笑う。
「搭乗者を選り好みする軍用機のどこが合理的なのかしら」
『ヴィオラ中尉との接続試験は、必要性がないと判断しました』
「私は何度もこの機体の試験を担当しているのだけれど?」
『リサが来ましたので、今後は不要です』
ヴィオラ中尉の金色の瞳が鋭くなる。
「ずいぶん気の早い機体ね」
『事実を述べています』
「グライフ」
私は機体を軽く叩いた。
「ヴィオラ中尉に失礼なことを言ったら駄目だよ」
『彼女はリサを元天才と呼びました』
「聞いていたの?」
『格納庫内の音声は記録しています』
「それでも、先任には敬意を払わないと」
『リサが望むのであれば、対応を修正します』
「お願い」
『了解しました。ヴィオラ中尉。先ほどの発言を訂正します』
ヴィオラ中尉がわずかに顎を上げる。
『あなたとの接続試験は、優先順位が著しく低下しました』
「訂正になっていないわ!」
格納庫に、今度こそ小さな笑いが広がった。
ヘルガ少佐が額を押さえ、アルフォンスは端末を抱えたまま天井を仰いでいる。
ノアだけは笑わずに、私の手を握り続けていた。
「リサ」
「うん」
「怖かった?」
「怖かったよ」
正直に答えた。
「でも、不思議だった。この子の中にいると、自分の身体が大きくなったみたいだった」
「事故のことも思い出したんだろ」
「うん」
「それでも、また乗るの?」
ノアの問いには、責める響きはなかった。
ただ、悲しそうだった。
「乗りたい」
私は黒いコクピットを見た。
「次は、もっとちゃんと準備して。怖くなったら怖いって言う。苦しくなったら隠さない」
「本当に?」
「努力します」
「そこは断言してよ」
「簡単に約束して破るよりいいでしょ?」
ノアは困ったように笑った。
「少しだけ、変わったな」
「そうかな」
「前のリサなら、絶対に大丈夫って言ってた」
事故の前の私は、自分なら何でもできると思っていた。
できないと言うことが負けのように感じていた。
助けてほしいと言うのも、怖いと認めるのも嫌だった。
今でも、その癖は残っている。
けれど、今日だけで何度も嘘を見抜かれた。
隊長にも。
ノアにも。
そして、この子にも。
『リサ』
「何?」
『次回の接続時も、あなたの状態を優先します』
「うん」
『事故時の記録を解析しました』
身体が固まる。
ヘルガ少佐が顔を上げた。
「いつ入手した?」
『回答を拒否します』
「またか」
『事故機が市街地へ墜落する確率は、脱出装置作動時に七十三・四パーセントでした』
私は何も言えなかった。
『あなたの判断により、民間人の推定死傷者数はゼロとなりました』
「それは……軍の調査でも聞いたよ」
『ですが、あなたが重傷を負った事実も変わりません』
グライフの声は静かだった。
『私は、あなたの判断を英雄的行為として称賛しません』
胸が少し痛んだ。
けれど、続いた言葉は予想と違った。
『搭乗者が自身の生命を放棄する状況は、機体にとって失敗です』
「失敗……」
『私は、あなたを部品として消費しません』
格納庫内の空気が変わった。
アルフォンスが鋭く機体を見上げる。
ヘルガ少佐も、何も言わない。
『あなたが飛ぶことを望むなら、私は飛行を支援します』
青い光が、私を包むように灯る。
『ただし、次に同じ状況が発生した場合、私はあなたの生存を優先します』
「民間人が危険でも?」
『両方を救う方法を選択します』
「そんな方法がなかったら?」
『見つけます』
「絶対に?」
『絶対という表現は不正確です』
少しだけ間を置き、グライフは続けた。
『それでも、見つけるまで演算を停止しません』
私は機体へ手を触れたまま、目を閉じた。
この子は、私を英雄として見ていない。
天才とも呼ばない。
壊れた元パイロットとも言わない。
ただ、生きて帰るべき搭乗者として見ている。
「ありがとう、グライフ」
『感謝を受領しました』
「それ、もう少し別の言い方はないの?」
短い沈黙。
『……どういたしまして、リサ』
ぎこちない返事だった。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、私は自然に笑っていた。
事故の前、私の笑顔は軍の広報に使われた。
退院後の笑顔は、両親を安心させるために作った。
けれど、今の笑顔は誰かに求められたものではなかった。
もう一度つながりたいと思える機体に、ようやく出会えた。
そのことが、ただ嬉しかった。
黒い試作零号機。
試験用人格モデル、グライフゼロ。
少し理屈っぽくて、ずいぶん勝手で、私の嘘をすぐに見抜く子。
この日、私たちは初めて神経をつないだ。
接続時間は、わずか八・六秒。
最大リンク深度、二十三・七パーセント。
まだ、空を飛んですらいない。
それでも私は確かに感じていた。
この子となら、もう一度あの空へ戻れる。
そしてグライフもまた、私を選ぼうとしていた。
お読みいただきありがとうございました。




