翼の生えたモルモット
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グライフzero ー墜ちた空の少女は、モルモット部隊でもう一度飛ぶー
第1章 もう一度、空へ
メルクーア第九航空宇宙基地の正門は、私が想像していたよりもずっと大きかった。
分厚い複合装甲で造られた門柱の向こうには、灰色の格納庫がいくつも並び、そのさらに奥では軌道昇降施設の支柱が雲を突き抜けている。
低く唸る核融合エンジンの音。
大気を震わせる試験機の咆哮。
遠くの誘導路を横切っていく、翼の尖った航空宇宙戦闘機。
一年ぶりに間近で感じる、空軍基地の空気だった。
「……やっぱり、来ちゃった」
私は旅行鞄の取っ手を握ったまま、正門前で立ち尽くしていた。
肩に掛けたフライトジャケットの左胸には、まだ新しい部隊章が縫い付けられている。
翼の生えた黄色い小動物。
どう見ても、格好いい猛禽類ではない。
丸い耳。短い手足。妙に愛嬌のある顔。
帝国空軍航空技術試験団第四実用試験部隊。
軍内部での通称は、〈モルモット部隊〉。
試作機に乗る。
試作兵器を撃つ。
神経接続装置や補助薬の性能を、自分の身体を使って確かめる。
そんな部隊の性質を、誰かが皮肉って呼び始めたらしい。
正門脇に立つ衛兵が、私の認証票と顔を交互に見比べた。
「リサ=エルフォート航空少尉候補生?」
「はい」
「本人確認のため、左目の網膜認証を」
一瞬、息が止まった。
衛兵に悪気がないことは分かっている。
左目は再生治療によって、見た目も機能もほとんど元通りになっていた。視力検査でも問題はない。
それでも、左目という言葉を聞くと、胸の奥が冷たくなる。
「……了解しました」
私は認証装置をのぞき込んだ。
治療後に再登録された左目の網膜情報。
青白い光が瞳を走る。
その光が、あの日の警告灯と重なった。
『左主翼、応答なし!』
狭いコクピットに警報音が鳴り響いていた。
機体は激しく回転しながら高度を失い、正面表示には赤い警告が次々と浮かんでいた。
『エンジン二番、停止! 姿勢制御不能!』
違う。
今は基地の正門だ。
私は墜ちていない。
頭では分かっているのに、耳の奥で金属がひしゃげる音がした。
ぐしゃり。
骨と装甲と機械が、全部一緒に押し潰される音。
「エルフォート候補生?」
「っ……はい!」
私は装置から顔を離した。
衛兵が怪訝そうに見ている。
「認証完了です。正門を通過してください」
「ありがとうございます」
笑わなければ。
昔から、こういうときは笑顔を見せれば大丈夫だった。
両親も、学校の先生も、第一航空師団の仲間たちも、私が笑えば少しだけ安心した顔をしてくれた。
私は口元に笑みを作った。
衛兵は一瞬だけ目を丸くし、それから慌てて敬礼した。
「第四実用試験部隊へようこそ」
「はい。よろしくお願いします」
旅行鞄を引き、基地の中へ足を踏み出す。
左足がわずかに遅れた。
痛みはない。
日常生活にも、ほとんど支障はない。
けれど、歩き始めや急な方向転換では、ときどき神経の反応が遅れる。
空軍の規定では、それだけで通常航空部隊への復帰は認められない。
この程度なのに。
そう思う気持ちは、今でも消えていなかった。
同時に、こんな程度の異常すら抱えたまま、本当に戦闘機を飛ばせるのかという恐怖もあった。
私はその二つを胸の中に押し込め、格納庫群へ続く道を歩いた。
◇◆◇
「リサ!」
聞き慣れた声に顔を上げる。
整備棟の前から、紺色の作業服を着た少年が駆けてきた。
柔らかな茶色の髪。穏やかな灰青色の瞳。昔と変わらない優しそうな顔。
「ノア!」
思わず私も駆け出しかけて、左足がわずかにもつれた。
「危ない!」
ノア=クラインが旅行鞄を放り出すようにして、私の腕をつかんだ。
「だ、大丈夫。これくらい」
「今、転びそうになっただろ」
「転んでないよ」
「転びそうだった」
「転んでないから、私の勝ち」
「何の勝負だよ……」
ノアは呆れたように息を吐いた。
けれど、私の腕を支える手はすぐには離れなかった。
幼い頃から、ノアはこうだった。
私が木に登れば下で待っていて、屋根に上がれば梯子を支えて、飛行クラブで無茶な操縦をすれば整備記録を抱えて説教した。
事故の後は、それがもっとひどくなった。
目を覚ましたばかりの私を見て、ノアは声も出さずに泣いていた。
あのときの私は、左腕も、両足も、左目もなかった。
呼吸を助ける装置につながれ、自分では指一本動かせなかった。
あとで聞いた話では、ノアは病室を飛び出した直後、廊下で吐いたらしい。
「本当に来たんだな」
「来るって連絡したでしょ?」
「連絡と実物は違う」
ノアは私の顔から足元まで、確かめるように視線を動かした。
「列車の中で具合は悪くならなかった?」
「平気」
「左足は?」
「平気」
「呼吸は?」
「平気」
「夜は眠れた?」
「それは……まあまあ」
「リサ」
「少しだけ寝不足。でも、本当に少しだけだから」
嘘ではない。
昨夜は三時間くらい眠った。
途中で二度、目を覚ましたけれど。
暗い部屋で目覚めると、自分の胸の上に潰れた装甲板が載っているような感覚が戻ってくる。
息を吸っても、左胸が動かない。
脚を動かそうとしても、何もない。
腕を上げようとしても、肩から先が消えている。
電灯をつければ、身体はちゃんとある。
左手の指も動く。
両足で立てる。
けれど、それを確認するまでの数秒間、私は事故の日に戻っている。
「おじさんとおばさんは?」
「駅までついてきた」
「やっぱり」
「基地まで来るって言ったんだけど、部隊の敷地には家族でも入れないから」
「叔父さん、門の前で抗議しなかった?」
「したよ。軍に娘を返せって」
「……叔父さんらしいな」
ノアが困ったように笑う。
お父さんは、最後まで私の配属に反対していた。
『軍はお前を英雄にしたいんじゃない。都合のいい広告塔にしたいだけだ』
事故後の表彰式。
車椅子に座った私の胸に、皇帝陛下の名で勲章が飾られた。
民間区画への墜落を防ぐため、最後まで操縦を続けた勇敢な少女。
帝国市民を守った若き英雄。
新聞にも、映像通信網にも、私の顔が繰り返し映し出された。
けれど、その頃の私は一人では寝台から起き上がることすらできなかった。
表彰式の直前には、再生途中の左肺が痙攣を起こして吐血した。
その映像は、もちろん報道されなかった。
『家に帰ってきなさい』
お母さんは泣きながら、何度もそう言った。
『会社なら、飛ばなくても空に関われるでしょう。輸送航路の管理でも、新型船の企画でも、あなたなら何だってできるわ』
両親の会社は、帝国各地に輸送網を持つ大企業だ。
地上輸送車両だけでなく、惑星間航路を渡る重武装長距離輸送船団まで運用している。
家業を継げば、何不自由なく暮らせる。
危険な目に遭う必要もない。
それでも、私は空軍を辞められなかった。
「どうしても飛びたかったんだ」
私が小さく言うと、ノアは答えなかった。
責めるような顔もしなかった。
ただ、旅行鞄を私の手から取り上げた。
「隊長室まで案内する」
「自分で持てるよ」
「知ってる。でも、今日は僕が持つ」
「過保護」
「叔父さんと叔母さんほどじゃない」
「それは否定できないかな」
私たちは並んで歩き始めた。
ノアは私の左側を歩いていた。
昔は右側だったはずなのに。
たぶん、私の左足が遅れたときに支えやすい位置を選んでいる。
気づかないふりをすることにした。
◇◆◇
第四実用試験部隊の隊長室は、意外なほど狭かった。
壁には試験飛行区域の立体地図と、歴代の試作機の写真が並んでいる。
窓際の棚には、翼の生えた黄色いモルモットのぬいぐるみが置かれていた。
しかも、三体。
「帝国空軍少尉候補生、リサ=エルフォート。出頭しました」
私は姿勢を正して敬礼した。
机の向こうに座る女性軍人が、鋭い目で私を見た。
短い黒髪。
無駄のない引き締まった体格。
肩章には少佐の階級章。
第四実用試験部隊隊長、ヘルガ=ロートマン少佐。
「敬礼を解け」
「はい」
「座れ。クライン技術兵は整備区画へ戻れ」
「しかし――」
「彼女の面談に幼馴染の付き添いは必要ない」
ノアは一瞬だけためらい、私を見た。
「大丈夫だよ」
「……あとで迎えに来る」
「子供じゃないんだけど」
「知ってる」
ノアが退室すると、室内に静けさが戻った。
ヘルガ少佐は机の上の端末を操作し、私の経歴を空中表示させた。
「十六歳で第一航空師団へ配属。事故前の最大リンク深度九十一・二パーセント。射撃、空間認識、機体制御、すべて最高評価。軍広報部が好みそうな経歴だ」
「……はい」
「事故から一年。再生治療と身体機能回復訓練を終了。左下肢の神経伝達障害により、通常航空部隊への復帰基準を満たさず。三度の除隊勧告を拒否し、第四実用試験部隊への配属を希望」
「間違いありません」
「本当に希望したのか?」
「え?」
少佐の問いに、私は顔を上げた。
「意味が分かりません」
「除隊勧告を受けた直後、担当官から第四実用試験部隊の存在を教えられた。試験部隊ならば通常部隊とは異なる身体基準が適用される可能性がある、と説明された」
「はい」
「その三日後、お前は配属志願書を提出した」
「そうです。私が自分で決めました」
「担当官から勧められたのではないのか?」
「選択肢を教えてもらっただけです」
「兵器開発局の関係者とは?」
「会っていません」
「ハインケル社の技術者とは?」
「治療中に何人か来ました。神経接続の補助装置について説明を受けただけです」
ヘルガ少佐の視線が、私の首元に向いた。
制服の襟の下。
首の後ろには、小さな接続端子が埋め込まれている。
手首と太腿にも同じものがある。
治療の過程で必要になった、神経信号を補助するための装置。
そう説明されていた。
「お前の身体には、通常の軍人には存在しない接続端子が複数埋め込まれている」
「再生治療の補助用だと聞いています」
「それだけなら、治療終了後に除去される」
「私の場合は神経の後遺症があるから、残した方がいいと」
「誰に言われた?」
「兵器開発局の医療担当者です」
「名前は?」
私は口を開きかけ、止まった。
思い出せない。
白い診療服。
顔の半分を覆う医療用投影装置。
静かな声。
手術同意書には軍の認証印があった。
だから、疑わなかった。
「……記録を確認すれば分かると思います」
「こちらでも確認している」
ヘルガ少佐は空中表示を閉じた。
「だが、担当者名の一部が閲覧制限されている」
「閲覧制限?」
「お前が気にする必要はない。少なくとも、今はな」
少佐は椅子の背に身体を預けた。
「先に言っておく。第四実用試験部隊は、飛べなくなった元天才に夢を見せるための療養施設ではない」
「分かっています」
「分かっていない」
即座に切り捨てられた。
「ここでは試作機が故障する。制御装置が誤作動する。予測不能の荷重がかかり、骨が折れ、血管が破裂する。薬剤試験では嘔吐、痙攣、意識障害が起こる。最悪の場合は死ぬ」
「覚悟しています」
「その言葉を私は信用しない」
少佐の声は冷たかった。
けれど、不思議と侮辱されているとは感じなかった。
「覚悟という言葉は便利だ。恐怖を隠せる。無謀を勇気に見せられる。上官に従順な兵士を演じられる」
「私は演じていません」
「ならば聞く。今も墜落が怖いか?」
喉が詰まった。
「怖くありません」
反射的に答えていた。
その瞬間、少佐の目が細くなった。
「不合格だ」
「なぜですか!」
「事故記録を見た」
机上に映像が浮かび上がる。
崩れた機体。
地面を抉った長い墜落痕。
消火剤に覆われたコクピットブロック。
私は椅子の肘掛けをつかんだ。
指先が震える。
「事故機は訓練空域で主推進器の一部を喪失。お前は脱出可能高度にありながら、市街地への墜落を避けるため操縦を継続した」
映像が切り替わる。
機体が回転しながら落下していく。
あの日、随伴機が撮影していた映像だ。
「脱出装置を作動させれば、機体は制御を失い、民間居住区へ墜落する可能性があった。お前の判断によって民間人の死傷者は出なかった」
「……はい」
「だが、機体は地表へ激突。コクピットブロックは前方から圧壊した」
やめて。
胸の奥で声がした。
映像を消して。
『高度二千! エルフォート、脱出しろ!』
僚機からの叫び。
正面表示の下で、市街地を示す光が広がっていた。
家がある。
学校がある。
道路を走る輸送車がある。
ここで私が脱出すれば、機体はそこへ落ちる。
『脱出しろ! 命令だ!』
「無理です」
『リサ!』
「機首が……まだ、動く。この子を、外へ……!」
右側の姿勢制御だけを使い、機首をわずかにずらす。
機体が軋む。
主翼が千切れる。
身体を押さえる固定具が、胸と腰に食い込んだ。
地面が迫る。
怖い。
死にたくない。
お父さん。
お母さん。
ノア。
それでも、この下には人がいる。
「あと少し……お願い。この子、あと少しだけ……!」
機体が市街地の外へ抜けた。
直後、地面が正面を覆った。
衝撃。
音。
熱。
身体の中に、硬いものが入り込んでくる。
左足が砕けた。
右足が折れ曲がった。
左腕が消えた。
胸が潰れた。
息ができない。
暗い。
警報音だけが鳴っている。
痛い。
痛い。
痛い。
「――やめて!」
私は椅子を蹴るように立ち上がった。
左足が反応しなかった。
身体が傾く。
床へ倒れる前に、机へ両手をついた。
「はっ……は、ぁ……!」
息が吸えない。
左胸が潰れている。
違う。
治っている。
左肺はある。
左腕も、両足もある。
分かっているのに、身体が信じてくれない。
「映像はすでに消している」
ヘルガ少佐の声が聞こえた。
「ここは隊長室だ。機体の中ではない」
「分かって……います」
「座れ」
「平気です」
「座れ、エルフォート」
私は震える膝を曲げ、椅子に戻った。
視界の端が白く滲んでいる。
「もう一度聞く。墜落が怖いか?」
嘘をつけば、きっと追い出される。
でも、本当のことを言えば、もっと確実に飛ばせてもらえない。
そう思った。
だから私は一年間、医師にも教官にも、何度も同じことを言った。
怖くない。
もう大丈夫。
事故は乗り越えた。
私は飛べる。
けれど、今の私の手は震えている。
少佐の目の前で、取り繕うことすらできないほどに。
「……怖いです」
やっと出た声は、情けないほど小さかった。
「今でも、怖いです」
「そうか」
「暗い場所で一人になると、身体が潰れた感覚が戻ってきます。エンジンの異音を聞くだけで、息ができなくなることもあります。再飛行訓練では、最初の三回は離陸できませんでした」
言葉にするたび、胸の奥に隠していたものが崩れていく。
「本当は、怖くて仕方ないです。また墜ちるかもしれない。また、身体が壊れるかもしれない。今度は治せないかもしれない」
「ならば、なぜ飛ぶ?」
「それでも……」
私は膝の上で拳を握った。
「それでも、空が好きなんです」
事故の前は、飛ぶことが当たり前だった。
誰よりも速く。
誰よりも高く。
難しい機動を成功させれば、教官も仲間も褒めてくれた。
天才と呼ばれるのが嬉しかった。
取材を受け、笑顔を向けられることも嫌いではなかった。
でも、一度すべてを失ってから、ようやく分かった。
「天才って呼ばれたいわけじゃありません。英雄でいたいわけでもない。第一航空師団に戻れなくてもいい」
少しだけ、嘘だった。
本当は戻りたい。
あの白い制服も、第一航空師団の銀翼章も、今でも眩しく見える。
「ただ、もう一度、自分の力で飛びたいんです」
「恐怖を抱えたままか?」
「はい」
「任務中に発作が起きれば、僚機を巻き込む」
「分かっています」
「無理を隠す癖があると、医療記録に書かれている」
「……直します」
「簡単に直るものではない」
「それでも、直します」
「口だけなら何とでも言える」
「だったら、見ていてください」
私は顔を上げた。
空色の瞳に、涙が残っているのが自分でも分かった。
それでも、逸らさなかった。
「私が本当に飛べるのか。試験機を任せられるのか。最後まで見て、判断してください」
長い沈黙が落ちた。
格納庫の方角から、エンジンの轟音が響く。
身体が小さく強張った。
けれど、今度は椅子から立ち上がらなかった。
ヘルガ少佐は私を見つめたまま、机の端末へ手を伸ばした。
「第四実用試験部隊への配属は、本人の最終同意をもって確定する」
机上に一枚の書類が表示された。
危険性に関する確認事項。
試験中の負傷。
後遺症。
死亡の可能性。
軍機密への接触。
医療情報および神経活動情報の収集。
文字の一つ一つが、やけに鮮明に見えた。
「今なら辞退できる」
「辞退した場合は?」
「除隊だ。名誉除隊として扱われる。十分な年金と治療保障も出る。お前の家なら、生活に困ることもない」
「そうですね」
「両親も、それを望んでいるはずだ」
お父さんの怒った顔。
お母さんの泣き顔。
ノアの震える手。
全部、思い浮かんだ。
私が飛ばなければ、みんなは安心する。
危険な試作機に乗る必要はない。
墜落の恐怖に苦しむこともない。
平穏で、裕福で、安全な人生を選べる。
それはきっと、幸福な人生だ。
でも。
窓の外を、一機の戦闘機が上昇していった。
青空へ向かい、白い航跡を引いていく。
胸が痛んだ。
恐怖ではない。
あそこへ行きたい。
もう一度、あの空に触れたい。
その気持ちだけは、事故の前から何も変わっていなかった。
「私は、第四実用試験部隊への配属を受け入れます」
端末へ右手を置く。
生体認証の光が手のひらを包んだ。
「本当にいいんだな」
「はい」
声は震えなかった。
「怖くなくなったから飛ぶんじゃありません」
私は認証を完了させた。
「怖くても、飛びたいから飛びます」
書類に、配属確定の文字が刻まれる。
ヘルガ少佐はしばらくそれを見つめたあと、立ち上がった。
「了解した。リサ=エルフォート少尉候補生。本日付で帝国空軍航空技術試験団第四実用試験部隊への配属を命じる」
「はい!」
「ただし、私の部隊では過去の実績も、勲章も、天才という呼び名も役には立たない」
「承知しています」
「泣いても構わん。怖がることも許可する。だが、異常を隠すことだけは許さん」
冷たいと思っていた少佐の声に、ごくわずかな温かさが混じった。
「生きて機体から降りる。それがこの部隊における、お前の最初の任務だ」
「了解しました」
敬礼する。
今度は、手が震えなかった。
「では、格納庫へ行くぞ」
「格納庫ですか?」
「お前が評価を担当する機体を見せる」
「もう決まっているんですか?」
「正確には、向こうがお前を受け入れるか確認する」
「向こう?」
意味を尋ねる前に、少佐は隊長室の扉を開けた。
廊下の先で、ノアが待っていた。
その隣には、赤褐色の長い髪を持つ女性パイロットが腕を組んで立っている。
金色の瞳が、値踏みするように私を見た。
「ヴィオラ=エルネスタ=フォン=カーディナル航空中尉だ」
ヘルガ少佐が紹介する。
「この部隊の現役テストパイロット。そして、今日からお前の先任になる」
「リサ=エルフォートです。よろしくお願いします」
私が頭を下げても、ヴィオラ中尉は表情を変えなかった。
「あなたの過去の記録には興味がないわ」
最初の言葉が、それだった。
「後遺症を抱えた元天才が、同情で試験結果を歪めるようなら、私が降ろします」
「……はい」
「返事だけは立派ね」
「ヴィオラ」
「事実を伝えただけです、少佐」
中尉は踵を返した。
「格納庫へ行くのでしょう。零号機はまた整備員を締め出しています」
「またか」
「アルフォンス技術主任が説得を続けていますが、成果はありません」
零号機。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに高鳴った。
ヘルガ少佐の後を追い、格納庫へ向かう。
左足は、やはり少しだけ遅れた。
ノアが隣へ来ようとしたが、私は小さく首を振った。
自分の足で歩きたかった。
巨大な格納庫の扉が、重い音を立てて開いていく。
暗い内部に、流線型の機影が浮かび上がった。
翼を休める黒い猛禽のような機体。
表面を走る淡い青色の光。
機首の下には、白い文字で型式番号が刻まれている。
――XF‐99R‐000。
次世代高性能機開発計画、グライフ計画。
その試作零号機。
私が格納庫へ一歩踏み込んだ瞬間、機体表面の光が一斉に明滅した。
『接続候補者を確認』
格納庫内に、澄んだ女性の声が響いた。
『生体情報照合』
首の後ろに埋め込まれた端子が、かすかに熱を持つ。
まだリンク装置には触れていない。
それなのに、その声は耳ではなく、頭の奥から聞こえた気がした。
『識別名、リサ=エルフォート』
黒い機体のセンサーが、ゆっくりと私へ向けられる。
『あなたを待っていました』
私は息を呑んだ。
恐怖で足が止まったのか。
期待で動けなくなったのか。
まだ、自分でも分からなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
この日、墜ちたままだった私の時間が、もう一度動き始めた。
お読みいただきありがとうございました。




