第二話
缶を受け取った白羽の指先が、千鶴の手に触れた。その一瞬、千鶴の肩がかすかに揺れる。
その癖も、白羽は知っていた。
「ねえ、千鶴」
「はい」
「もし私が逃げたいって言ったら、どうする?」
今度こそ、千鶴は黙った。山の向こうから吹いてきた風が、社の鈴をかすかに鳴らす。
遠くで、村内放送の試験音が鳴った。六時を知らせるはずの音。止まった時計に合わせるように、毎日、同じ時間に。
千鶴は紙袋を足元に置いた。
「……連れていきます」
「即答なんだ」
「ずっと前から、そのつもりでした」
白羽は目をみはった。冗談半分で口にしたつもりだったのに、千鶴の声はあまりにも静かで、あまりにも本気だった。
「私、巫女だよ。この村のために生きろって、言われてきた。ここを出たら、たぶん全部なくなる」
「なくなりません」
「名前も、役目も、居場所も?」
「それは村が勝手に決めたものです」
千鶴はようやく白羽を見た。
真っ直ぐで、逃げ道のない眼差しだった。
「白羽さまが白羽さまであることに、社も村も関係ない」
胸の奥に、何か熱いものが落ちた。缶コーヒーよりも熱くて、怖いくらい優しい言葉だった。
白羽は視線をそらし、唇を噛んだ。「……そんなこと言ったら、私、ほんとに行きたくなる」
「行ってください」
「千鶴も?」
「はい」
「どうして」
千鶴は少し困ったように笑った。
それは珍しい表情だった。普段の彼女は、刃物みたいに無駄がないのに。
「理由まで言わせるんですか」
「聞きたい」
「あなたがいない場所に、いたくないからです」
風が止んだ。
たったそれだけの言葉なのに、社も村も、長年積み上げられてきた掟も、全部が急に薄っぺらく思えた。
白羽は俯いたまま、小さく笑ってしまった。「それ、従者の台詞じゃない」
「知っています」
「もっとこう、建前とか」
「苦手です」
「知ってる」
二人で、声を殺して笑った。見つかったら叱責では済まないような笑いだった。けれど、そうしている間だけは、村の視線も掟も届かない気がした。




