第三話
やがて千鶴が声を潜める。
「今夜、午前三時。裏山の古道、まだ生きています。先週見てきました。使えます」
白羽は顔を上げる。「見てきたの?」
「逃げるなら、あそこしかないと思って」
「……ずっと前から準備してたんだ」
「ええ」
「私が逃げたいって言わなくても?」
「いつか言うと思っていました」
その確信に、白羽は少し腹が立って、でも泣きたくなった。
「勝手」
「申し訳ありません」
「ほんとに」
そう言ってから、白羽は缶をぎゅっと握りしめた。
社の拝殿から、夜の祈祷の支度を呼ぶ鐘が鳴る。行かなければならない。白い布をまとい、清らかな顔で頭を垂れ、この村の安寧を祈るふりをしなければならない。
でも、もう知ってしまった。
自分が祈りたいのは、村の閉ざされた明日ではなく、千鶴と歩く何気ない日常なのだと。
「午前三時ね」
「はい」
「来なかったら?」
千鶴は一歩だけ近づいた。
誰かに見られたら、それだけで噂になる距離だった。
「迎えに行きます」
「……従者って、そこまでするんだ」
「あなたの従者なので」
紗良白羽は笑った。今度は、ちゃんと。
それから、誰にも見られないように袖の中で手を伸ばし、千鶴の小指に自分の小指を絡めた。子どもじみた約束だった。でも、神前の誓いなんかより、ずっと確かに思えた。
千鶴の目がわずかに見開かれ、次の瞬間には柔らかく細められる。
「白羽さま」
「今は白羽でいい」
「……白羽」
名前を呼ばれただけで、胸が震えた。
夜はきっと長い。怖いことも、きっとたくさんある。それでも、止まったままの時計の中で朽ちるよりはいい。
石段の下では、見張りの男たちがまだこちらを窺っている。村は何も変わらない顔で、二人を閉じ込めようとしている。
けれどもう、白羽にはわかった。
逃げるのではない。奪い返すのだ。自分の足で歩く明日を。
「じゃあ、あとで」
「はい。夜明けの前に」
二人は手を離し、それぞれ別の方向へ歩き出す。
誰にも悟られないように。けれど、同じ夜明けを目指して。




