第7話 鏡
最初に気がつくのは、『約束』を失くした、一人のおばあさんのときだ。
おばあさんは、棚の前のベンチに、ちんまりと座っている。膝の上で、しわだらけの手を、何度も握ったり開いたりしている。何を失くしたのか聞くと、ずっと昔、誰かと交わした約束を、果たせないまま、失くしてしまったのだ、と言う。
「ある人に、言ったんですよ」おばあさんは、遠くを見て言う。「怖くなったら、呼びなさい。すぐに行くから、って。でも、その人が、本当に、いちばん、わたしを呼んでいたとき。わたしは……行かなかった。忙しかったから。怖かったから。明日でいいと思ったから。そうしているうちに——」
おばあさんは、それ以上、言わない。ただ、握りしめた手の上に、ぽつりと、何かが落ちる。
私は、棚から持ってきた、折りたたまれた紙きれを、おばあさんに差し出す。『約束』だ。少し湿った、けれど、決して破れない紙。
それを、おばあさんの手のひらに乗せた瞬間。
私の指先に、ある感触が、走る。
——怖くなったら、呼んで。すぐ行くから。
その言葉を。
私は、知っている。
私が、誰かに、言った言葉だ。
頭が、くらりとする。私は、棚に手をついて、体を支える。おばあさんは、私を見て、何かを察したように、ふっと、やさしく笑う。
「あなたも、あるんですね」
「……え?」
「果たせなかった約束が」
おばあさんの体が、ゆっくりと、光に溶けていく。最後に、おばあさんは、私に、そっと言う。
「だいじょうぶ。約束はね、果たせなくても、消えるわけじゃないの。ちゃんと、ここにある。あなたが、忘れないかぎりは」
おばあさんは、消える。
私は、ベンチに、座り込む。
それからの依頼は、まるで、私自身の、過去を一枚ずつめくっているようだ。
『勇気』を失くした、若い人。それは、何かになりたかったのに、なれなかった人だ。その人を見ていて、私は思い出す。——私にも、なりたかったものが、ある。音楽を、やりたかった。歌を、作りたかった。けれど、どこかで、怖くなって、諦めてしまった。「自分なんかには無理だ」と決めて、楽器に、ふたをした。
『家族との思い出』を失くした人。それは、家族と、疎遠になってしまった人だ。届けた箱を開けると、中から、夏の夕方の匂いが、ふわりと立つ。縁側の、蚊取り線香の煙。台所の、味噌汁の匂い。そして——小さな、誰かの、笑い声。
その笑い声を聞いた瞬間。
私は、はっきりと、思い出す。
妹だ。
私には、妹がいた。
ずっと年の離れた、小さな妹。私が補助輪を外してやった。私が、自転車を、後ろから支えてやった。私の作る、下手くそな歌を、世界でいちばんの歌だと言って、いつもせがんだ。「ねえ、もう一回うたって」と、目をきらきらさせて。
その子の名前は——。
思い出そうとした、その瞬間。また、引き出しが、空っぽになる。妹の顔も、声も、すうっと、霧の中に引いていく。
私は、棚にすがって、息をつく。
「ヤカン」私は、休憩のとき、声を絞り出す。「お客さんが、みんな、おれに似てる気がするんです。みんな、おれが失くしたものと、同じものを、失くしてる」
ヤカンは、いつもみたいに、すぐには答えない。ただ、お茶をいれて、私に渡して、それから、静かに言う。
「ハチ。たぶん、お前は、もうすぐ、いちばん大事なことを、思い出す」ヤカンの声は、やさしい。「逃げるなよ。怖くても。お前は、ハチだ。来ないものを、待ち続けられる、健気なやつだ。だが、本当はな、ハチ。お前が、ずっと、誰かを——」
そのとき、ぽーん、と、鐘が鳴る。
館内放送の声が、霧の上から、降ってくる。
けれど、その声は、いつもと、少しだけ、違う。どこか、ふるえていて、どこか、泣いているような、声だ。
「——本日の、返却依頼です」
「……繰り返します。本日の、最後の、返却依頼です」
「お届け先は——ハチ、さま」
私は、顔を上げる。
「返却品は——」
放送は、ほんの少し、間を置く。
「——『あなた自身』」




