第8話 約束
私は、館長室へ、呼ばれる。
館長は、机の向こうに座って、私を待っている。机の上には、一つの、古い箱が置かれている。ほかの落とし物の箱と、変わらない、なんの変哲もない木の箱だ。けれど、私は、その箱を見た瞬間に、分かる。
——これは、私のだ。
「座りなさい、ハチ」館長が言う。「いや。もう、その名前で呼ぶのは、最後にしましょう」
私は、椅子に座る。手が、震えている。
「あなたは、もう、ほとんど、思い出している」館長は、静かに言う。「お客さまたちは、あなたに似ていたのではありません。お客さまたちは、あなたでした。あなたが、生きるなかで、少しずつ、落としてきたもの。失くしてきた勇気、果たせなかった約束、諦めた夢、遠ざけた家族。その一つひとつが、姿を変えて、あなたの前に、現れていたのです」
「鏡だったんですね」私は言う。「ヤカンが、言ってました。他人の失くしたものは、鏡だって」
「ええ。そして、あなたは、その鏡を、一つずつ、磨いてきた。他人の——いいえ、自分の——失くしたものを、一つずつ、取り戻してきた。だからもう、最後の一つを、お返しできるのです」
館長は、机の上の箱を、私のほうへ、そっと押す。
「開けてごらんなさい」
私は、箱に手をかける。ふたを、開ける。
中から、夏の夕方の風が、吹く。
縁側がある。蚊取り線香が、白い煙を、まっすぐに上げている。台所の灯りがついていて、誰かが、味噌汁を作っている。庭の隅で、誰かが、小さな自転車に乗ろうとして、ぐらぐらしている。
私が、その自転車を、後ろから、支えている。
「だいじょうぶ、転ばないよ。お兄ちゃんが、後ろ、持ってるから」
そう言う、若い私の声。
風景が、変わる。
夜の、台所の灯り。私は、机に向かって、五線紙に、音符を書いている。下手くそな、子守唄。小さな妹が、ぱじゃまのまま、私の膝に、よじのぼってくる。
「ねえ、まだ? まだできない? はやくうたって」
「もうちょっとだよ。いい歌にしたいから、もうちょっと」
「ぜったいだよ。できたら、ぜったい、うたってね。やくそく」
「うん。約束する」
そして、その子は、私の手を、小さな指で、ぎゅっと握る。
「こわくなったら、よんでね、ナオなお」
——ナオなお。
その瞬間。
私の中に、すべてが、なだれ込んでくる。
私の名前は、ナオ。
妹は、私のことを、「ナオなお」と呼ぶ。うまく言えない口で、私の名前を、二つ重ねて、いつも、そう呼ぶ。
すず。妹の名前は、すずだ。鈴みたいに、よく笑う子。笑うと、本当に、りん、と音がしそうな子。
私は、すずに、子守唄を作ると約束する。でも、作りかけのまま、途中で、やめてしまう。私は、大人になるにつれて、忙しくなって、怖くなって、自分の歌なんて、と、楽器に、ふたをする。夢を、諦める。家を、出る。すずと、だんだん、会わなくなる。電話も、「また今度」と、後回しにする。
そして。
すずが、病気になる。
いちばん、すずが、心細いとき。いちばん、すずが、私を、呼んでいるとき。
「ナオなお。こわいよ。きて」
私は。
私は、行かない。
仕事が、立て込んでいるから。明日でいいと、思うから。そんなに、悪いはずがないと、思い込もうとするから。怖いから。すずの、痩せていく姿を、見るのが。
私は、約束を、果たさない。
「こわくなったら、呼んで。すぐ行くから」
あんなに、固く、約束したのに。
すずが、本当に、私を呼んだとき、私は、行かない。
そして、私が、ようやく、駆けつけたときには、もう——。
私は、館長室の床に、崩れ落ちる。
声を、上げて、泣く。こんなふうに泣くのは、初めてだ。——いや、違う。私は、本当は、ずっと、こんなふうに泣きたかった。けれど、できなかった。あの日から、私は、自分を、許せない。自分が、誰なのかを、思い出したくない。「ナオ」という名前を、聞きたくない。だから、私は、自分の名前を、自分で、落とす。落として、忘れて、この、忘れものセンターへ、来た。
「あなたは」館長は、しずかに、言う。「自分自身を、失くしたのです。妹さんを、見送ったあと、あなたは、あなた自身を、抱えていられなくなった。だから、あなたは、ここへ来た。そして、ほかの誰かの失くしものを、返しながら、少しずつ、自分を、取り戻してきた」
私は、泣きながら、聞く。
「……すずは。すずは、おれを、恨んでますか。来なかったおれを。約束を、破ったおれを」
館長は、答えない。
代わりに、館長室の扉が、しずかに、開く。
そして、廊下の暗がりから、しゃん、しゃん、と、聞き慣れた音がして、ヤカンが、台車を押して、入ってくる。台車の上には、やかんと、湯のみと、それから、ノートの、あの分厚い手帳が、乗っている。
ヤカンの後ろに、ノートが、立っている。
「ハチ」ノートが、ぼそりと、言う。「——いや。ナオ。歌が、できた」
ノートは、手帳を開く。
「ずっと、雨の中から、拾い集めてた、あの、途中までの子守唄。あれの、最後のかけらが、さっき、降ってきたんだ。これで、全部、そろった」
ノートは、挟んでいた音符を、一枚ずつ、机の上に、並べる。
ばらばらだった音符が、つながって、一つの、旋律になる。
それは。
私が、すずのために、作りかけて、途中でやめた、あの、子守唄だ。
途中までしか、なかったはずの歌。
その、続きが——最後の小節が、そこに、ある。
「これ……おれが、作った歌です」私は、震える指で、音符に触れる。「でも、最後のとこは、おれ、作ってない。途中で、やめたから。なのに、なんで」
ノートは、しばらく、黙っている。それから、めずらしく、長いことかけて、こう言う。
「最後のかけらだけ、ほかのと、筆跡が、違ったんだ」
「……え?」
「子どもの、字だった」
私は、その、最後の小節を、見る。
ほかの音符は、私の、きっちりした字で書いてある。けれど、最後の数小節だけ、たどたどしい、小さな子どもの手で、書き足してある。下手くそで、けれど、いっしょうけんめいな、字で。
その、最後の小節の、いちばん下に、小さく、こう、書いてある。
「ナオなおが、つくってくれなかったから、わたしが、つづきをつくったよ。
だいじょうぶ。
ちゃんと、できたよ」




