第4話 落とし物雨の夜
忘れものセンターに、夜はない。けれど、夜のようなものはある。
霧の天井の光が、ゆっくりと翳って、館全体が、まどろむように薄暗くなる。そういうとき、ヤカンはそれを「夜の便」と呼ぶ。そして月に一度——といっても、ここに月はないのだけれど、ヤカンの体内時計でいうところの月に一度——「夜の便」の中でも特別に、空がどっと落とし物を降らせる夜が来る。
落とし物雨、とみんなは呼んでいる。
その夜が、私がセンターに来てから、初めて巡ってくる。
「来るぞ、ハチ、来るぞ」
吹き抜けの広場に、私たちは集まっている。ヤカンと、おまけと、それから、私はその夜、初めてほかの住人たちにきちんと会う。
一人は、ソーダという名前の子だ。私と同じか、少し下くらいに見える。いつも炭酸が抜けないみたいに体じゅうがしゅわしゅわしていて、声が大きくて、よく笑い、よく転ぶ。引いた荷札が「ソーダ」だったのが、本人にこれ以上ないくらい似合っている。ソーダは広場に、手製の黒板を一枚立てていて、そこには「本日の返却数」と「歴代記録」が、几帳面なんだか雑なんだか分からない字で書きつけてある。
もう一人は、ノートと呼ばれる人だ。物静かで、いつも分厚い手帳を抱えていて、降ってくる落とし物を一つひとつ、丁寧に書き留めている。あまり喋らない。けれど、たまに口を開くと、やけに芯を食ったことを、ぼそりと言う。引いた荷札が「ノート」だったのは、たぶん偶然ではなくて、運命なのだろう。
「落とし物雨はな」ソーダが、私の腕を引っぱりながら、目をきらきらさせて言う。「ハチ、すごいんだぞ。ふだんは届けるばっかりの落とし物が、この夜だけは、こっちが好きに拾っていいんだ! きれいなやつを集めるんだよ。ほら、見てろ!」
ぽーん、と鐘が鳴る。
霧の天井が、ぱっと明るくなったかと思うと、次の瞬間、空が、降ってくる。
手袋。整理券。髪留め。ボタン。乳歯。万年筆のキャップ。片方だけのイヤリング。色あせた切符。誰かの初恋。誰かの寝坊。日曜日の昼下がり。猫の昼寝。麦わら帽子。ラムネのビー玉。それから、音符。音符。音符。
おびただしい落とし物が、光をまといながら、いっせいに、ゆっくりと降ってくる。広場じゅうが、星の中に放り込まれたみたいになる。
ソーダが歓声を上げて駆け出し、両手を広げて、降ってくるものを片端から受け止めようとして、案の定、すっ転ぶ。それでも笑っている。ノートは静かに手帳を広げて、降ってくる一つひとつに目をやりながら、何かを探すように、ゆっくりと歩いている。おまけは——猫は、もう完全に正気を失っていて、降ってくる音符を片っ端から飛びかかって叩き落とし、ちりん、ちりん、と、辺り一面を鳴らしている。
「ハチ! お前も拾え!」ソーダが叫ぶ。「一番きれいなやつを拾ったやつが優勝だからな! 賞品はヤカンの特製煎餅だ!」
「そんなに価値のある賞品か、それ」
「うるさい! いいから拾え!」
私は笑って、手のひらを空に向ける。
最初に落ちてくるのは、片方だけの赤い手袋だ。あの、目覚めの朝に頭に乗ったのと、同じ手袋。それを受け止めると、なぜか、胸の奥がほんの少し疼く。次に、ラムネのビー玉が手のひらに転がり込んでくる。それから、誰かの「夏休みの最後の一日」が、麦の匂いをさせて、ふわりと降りてくる。
私たちは夜どおし、落とし物を拾う。
ヤカンは広場の真ん中で、大きな鉄板を出して、拾い集めた「気分」やら「思い出」やらを、お好み焼きみたいに焼いて、みんなにふるまう。「初恋」を一さじ落とすと、甘酸っぱい匂いが立つ。「子どもの頃の夏」をひとつまみ加えると、湯気の中に、蝉の声が混じる。食べると、舌の上で、誰かの大切な一日が、ぱちぱちとはじける。
ソーダは黒板に「歴代最多拾得数、更新!」と大書して、勝手に自分を優勝にして、ヤカンの煎餅を一缶まるごと抱え込み、ノートに半分こされて、ふくれている。おまけは音符を叩きすぎてくたびれ、私の膝の上でまるくなって眠る。ノートは、集めた音符を、何枚も何枚も、そっと手帳のあいだに挟んでいる。
「ノートは、何を探してるんですか」
私が聞くと、ノートはめずらしく、長く考えてから、ぼそりと言う。
「歌を」
「歌?」
「途中までしかない歌があるんだ。たまに、雨に混じって降ってくる。かけらが。それを集めて、いつか、最後まで、つなげたい」ノートは、挟んだ音符を、いとおしそうに撫でる。「子守唄なんだ。たぶん。誰かが、誰かのために作って、途中で、やめてしまった歌」
私は、ノートの手帳をのぞき込む。挟まれた音符が、暗がりの中で、かすかに、ほのかな旋律をつぶやいている。
その旋律を聞くと。
私の胸の奥で、また、あの小さな鈴が鳴る。今度は、さっきより、ずっと大きく。
——知ってる。
私は、その歌を、知っている気がする。
けれど、どこで聞いたのか、誰が歌っていたのか、思い出そうとすると、また、あの空っぽの引き出しの感触だけが返ってきて、それ以上は、何も出てこない。
落とし物雨の夜は、明け方近くまで続く。
光が翳るころ、みんなくたくたになって、広場にごろごろと転がっている。ソーダが、満天の——とは言わないけれど、まだちらほらと降り続ける落とし物を見上げながら、ぽつりと言う。
「なあ、出口の向こうって、どうなってると思う?」
誰も答えない。
「おれは、海だと思うんだ」ソーダは、誰に言うともなく続ける。「すっごく広い、青い海。出口を出たらさ、目の前に、どーんと海が広がってて、波の音がして。それで、おれ、思いっきり走っていって、ばしゃーんって、飛び込むんだ。服のまんま。怒られたって、いい」
「お前、泳げるのか」ヤカンがあくびをしながら言う。
「泳げないけど、いいんだよ、そういうのは」
私たちは笑う。それから、しばらく、誰も何も言わない。
私は、膝の上のおまけの温もりと、手のひらの赤い手袋の温もりを感じながら、思う。
——出口の向こうに、海があるかどうかは、分からない。
——でも、いまは、ここで、十分だ。
おまけが、私の膝の上で、寝言みたいに、小さく鳴く。私は、その背中を、ゆっくり撫でる。




