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忘れものセンター  作者: みき


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3/9

第3話 本日の返却依頼です

「——本日の、返却依頼です」


 館内放送の声が、霧の上から、ゆっくりと降ってくる。


「お一人目。中央棟、三階。『勇気』を、お一つ。お待ちのお客さまのもとへ、お届けください。……繰り返します。本日の、返却依頼です」


「仕事ってのは、これだ」ヤカンは台車を押しながら、私を案内して歩く。「ここに落ちてきたもんを、それを失くした客のところへ返してやる。それが俺たちの仕事だ。簡単だろう」


「失くした客、っていうのは」


「ここにいる。みんな、何かを失くしてここへ来た。で、放送が、今日はこの人にこれを返しなさい、って教えてくれる。俺たちはそれを棚から探して、届ける。返してもらった客は……まあ、それは見てのお楽しみだ」


 中央棟、というのは、棚の森のちょうど真ん中あたりにある、ひときわ高い吹き抜けの一角だ。鉄の階段が、霧の中へねじれながら昇っていく。三階まで上がると、踊り場のベンチに、小さな男の子が一人、ちょこんと座っている。


 七つか八つくらいだろうか。半ズボンから出た膝に、かさぶたがある。男の子は、ぎゅっと両手を握りしめて、足もとをにらんでいる。


「お届け物です」ヤカンが、やわらかい声で言う。「きみが、待ってたものだよ」


 男の子は顔を上げて、それから、すぐにまた下を向く。


「……いらない」


「いらない?」


「だって、それがあったら、飛ばなきゃいけないもん」


 聞けば、男の子は、プールの飛び込み台の上で立ちすくんでいるのだという。高いところから水へ飛び込むのが、どうしても怖い。下では友だちが待っている。早くおいでよ、と呼んでいる。でも足が動かない。ずっとそこにいるあいだに、いつの間にか『勇気』を、ぽろりと落としてしまった。それで、ここに来た。


「勇気が戻ってきたら、おれ、飛ばなきゃ」


 男の子は泣きそうな声で言う。


 私はヤカンを見る。ヤカンは黙って、私に小さくうなずく。お前がやってみろ、というふうに。


 私は棚から持ってきた小さな瓶を、男の子の前にしゃがんで差し出す。瓶の中で、とくん、とくん、と、温かいものが脈打っている。


 なぜだろう。その鼓動を見ていると、胸の奥が、きゅっと痛む。


——わかる。


 私は男の子に言う。なぜそんな言葉が出てくるのか、自分でも分からない。


「飛ばなくてもいいよ」


 男の子が、まばたきをする。


「これは、飛ぶための道具じゃないんだ。飛ぶか飛ばないか、決めるための道具なんだ。飛ばないって決めるのにも、本当は、勇気がいるんだよ。だから……返すね。決めるのは、きみだ」


 私は瓶のふたを開ける。


 中の温かいものが、ふわりと立ちのぼって、光の粒になって、男の子の胸の中へ、すうっと吸い込まれていく。


 男の子の体が、ぽっと、内側から色づく。ほっぺたに血の気が戻り、握りしめていた拳が、ゆっくりとほどける。男の子は自分の両手を見て、それから、にっと笑う。前歯が一本抜けている。ヤカンとおそろいだ。


「……おれ、飛んでみる。やっぱり飛びたいから飛ぶ。怖いけど」


「うん。いってらっしゃい」


 私がそう言うと、男の子の姿は、夏の日差しに溶けるみたいに、ゆっくりと薄くなって、消える。あとには、ベンチの上に、ぬくもりだけが残る。


「上出来だ」ヤカンが、私の頭にぽんと手を置く。「お前、筋がいいぞ、ハチ」


 その日、私たちはほかにも、いくつもの落とし物を届ける。


 二人目のお客は、立派なスーツを着たおじさんだ。何を失くしたかというと、『オチ』。話の最後の、いちばん大事な落としどころ。それを失くしてしまって、何を喋っても、肝心のところで「……えーと、それで、なんだったかな」と消えてしまう。会議でも、宴会でも、自分の子どもの前でも、ずっと締まらない話をし続けて、すっかり自信をなくしている。


 棚から持ってきた『オチ』は、ドミノの最後の一枚みたいな形をしている。私がそれをおじさんの胸に返すと、おじさんはためしに、ひとつ、しょうもない駄洒落を言う。今度は、ちゃんと最後まで言いきれる。あんまり面白くない駄洒落だけれど、おじさんは涙を流すほど笑って、笑いながら消えていく。ヤカンも腹を抱えて笑っている。私も、つられて笑う。久しぶりに笑った気がする——「久しぶり」が何と比べてなのかは、分からないけれど。


 三人目のお客は、『方向感覚』を失くしたおばさんだ。これがいちばん大変だ。なにしろ、本人がどこにいるのか、ずっと同じ通路をぐるぐる回り続けていて、なかなかつかまらない。おまけに、忘れものセンターの通路ときたら、こっちも気まぐれで、さっき通った角が、次に来たときには別の場所につながっていたりする。私とヤカンとおばさんの三人で、霧の中を延々と追いかけっこをして、最後はおまけが——あの猫が——どこからともなく現れて、すたすたと先導してくれて、ようやくみんな同じ場所にたどり着く。


「猫ってのは、迷わないからな」ヤカンが、汗をぬぐいながら言う。「行きたいとこに、まっすぐ行く。俺たちと違ってな」


 その日の最後、私たちは受付のカウンターに戻って、また熱いお茶を飲む。届けたものの数だけ、棚に空きができて、その空きには、また天井から新しい落とし物が降って、すぐに埋まる。終わりのない仕事だ。けれど、嫌な疲れではない。


「なあ、ヤカン」私は聞く。「お客さんは、返してもらうと、消えますよね。あれは、どこに行くんですか」


 ヤカンは少しのあいだ、お茶の湯気を見つめる。


「帰るんだよ。元の世界に。失くしたもんを取り戻して、向こうで、続きをやるんだ。飛び込み台のあの坊主も、いまごろ、どっかのプールで派手に水しぶきを上げてるさ」


「向こうの世界」


「ああ。お前も俺も、本当はそっちにいた。何かを落として、それを取りに、ここへ来た。で、全部取り戻したら、出口から、向こうへ帰る」ヤカンは、霧の彼方を指さす。「忘れものセンターのどこかに、出口があるんだ。そこから出れば、元の世界へ帰れる」


「出口」


その言葉を聞くと、私の胸の奥で、なぜか、小さな鈴が鳴った気がする。


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