第2話 ハチと呼ばれて
通路の奥の霧を割って、一人の男の人が現れる。ずいぶん年季の入った台車を押している。丸っこい体つきだ。
歳のころはよく分からない。五十にも見えるし、もっと上にも見える。ぼさぼさの白髪まじりの頭に、色あせた作業着、その上から、なぜか湯気の立つやかんを片手にぶら下げている。台車の上には、湯のみと、急須と、煎餅の缶が、几帳面に積んである。
「おう、新入りか」
男の人はやかんを持ち上げて、にっと笑う。前歯が一本欠けていて、それがやけに人なつっこく見える。
「ようこそ、忘れものセンターへ。まあ、座れ。お茶でも飲め」
「あの、ここは——」
「説明はあとだ。冷えただろう、この床は。新入りはみんな、最初にこの冷たい床で目を覚ますんだ。気の利かん設計だよなあ」
男の人は台車の脇から折りたたみの椅子を二つ取り出して、慣れた手つきで広げる。私はなぜか逆らえずに腰を下ろし、差し出された熱い湯のみを両手で受け取る。中身はお茶のようで、けれど舌の上で、どこか懐かしい味がする。縁側とか、雨の日とか、そういう味だ。
「うまいだろう。落とし物のお茶っ葉でいれてるんだ。誰かが置き忘れた『午後の休憩』ってやつでな」
「落とし物の……午後の休憩?」
「そう。ここには、いろんなもんが落ちてくる。物だけじゃない。気分とか、習慣とか、思い出とか。みんな、生きてるうちに、どっかに落としてきたもんだ」男の人は自分の湯のみにもお茶を注ぐ。「俺はヤカンって呼ばれてる」
「ヤカン」
「名前だよ。ここじゃ、みんな本当の名前を落としてきちまってるからな。だから着いたとき、そこの箱から一枚引くんだ」
ヤカンは顎で、通路の先を指す。霧の手前に、小さな受付のカウンターがあって、その上に、大きな木の鉢が置いてある。中には、白い荷札が山ほど詰まっている。さっき棚で見たのと同じ、名前の荷札だ。
「持ち主が取りに来なかった名前の余りでな。それを一枚引いて、しばらくのあいだ、自分の名前にする。本当の名前を思い出すまでのな」ヤカンはお茶をすする。「俺が引いたのは『ヤカン』だった。最初は文句も言ったが、まあ、慣れる。やかんってのは、湯を沸かしてやるのが仕事だ。悪くない名前だろう」
私は立ち上がって、カウンターの鉢に近づく。
無数の荷札が、かすかに揺れている。風はないのに、めいめい、誰かに名前を呼ばれたがっているみたいに、ひそひそと震えている。耳をすますと、本当に、小さな声で自分の名前をつぶやいているのが聞こえる。「みお」「たくみ」「すずらん」「フェルナンド」……
私は手を入れて、いちばん指先に触れたものを引く。
荷札を裏返す。少しかすれた墨で、こう書いてある。
「ハチ」
「ハチか」
後ろからヤカンが覗き込んで、急に大きな声で笑い出す。
「いいねえ。ハチ公だ。ご主人さまをずうっと駅で待ってたっていう、あの忠犬だよ。来ない相手をいつまでも待ってる、健気なやつ」
「……あんまり、いい名前じゃない気がしてきました」
「いやいや、立派なもんだ。『待つ』ってのはな、ここじゃ大事な才能なんだ」ヤカンは私の肩をぽんと叩く。「よし、ハチ。今日からお前はハチだ。仕事を教えてやる」
そのとき、足もとを、するりと何かが通り抜ける。
猫だ。
灰色と茶色と白の、つぎはぎみたいな毛並みの猫が、私の足のあいだを八の字に歩いて、それからカウンターの上にひらりと飛び乗り、名前の荷札の鉢の横にちょこんと座る。荷札と同じように、首にひもで札を下げている。覗くと、**「おまけ」**と書いてある。
「そいつはおまけだ」ヤカンが言う。「いつだったか、誰も取りに来なかった猫が一匹だけ余っててな。引き取り手がないから、おまけでセンターに置いてる。だから、おまけ」
おまけは、私を金色の目でじっと見て、それから、降ってきた音符を一つ、前足でぱしっと叩き落とす。音符はちりんと鳴って消え、おまけは満足げに尻尾を振る。
「こいつ、落ちてくるもんを叩くのが趣味でな。音の出るやつが特に好きなんだ」
私はおまけの頭をそっと撫でる。温かい。赤いミトンと同じくらい、確かに温かい。
——ここは変な場所だ。
でも、と私はお茶を飲みながら思う。
——そんなに、悪い場所でもないのかもしれない。
「さあて」ヤカンがやかんを掲げる。「もうすぐ、本日の依頼が来る頃合いだ。ハチ、お前の初仕事だ」
ぽーん、と、頭上で鐘が鳴る。




