第1話 手袋の降る天井
目を覚ます。
空から、手袋が降っている。
片方だけの手袋だ。子ども用の赤いミトン、革の手袋、毛糸のもの、軍手。どれも左右の片方しかなくて、もう片方をどこかに置き忘れてきた顔をして、雪みたいに、ゆっくりと落ちてくる。
私は冷たい床に寝そべったまま、しばらくそれを眺めている。床は石でできていて、頬にひんやりと吸いつく。埃と、古い紙と、誰かの家の押し入れみたいな匂いがする。
天井は、ない。
正確に言うと、見上げても天井がどこにあるのか分からない。灰色がかった霧が高いところで渦を巻いていて、その霧の奥から、手袋やら何やらが、ふわり、ふわりと降ってくる。手袋のあいだを、バスの整理券が一枚、くるくる回りながら落ちてくる。続いて、髪留め。ボタン。乳歯。それから、音符が一つ。
音符は、本当に音符の形をしている。八分音符が、つやつやした黒い体を揺らしながら、私の鼻先をかすめて、床の上でちりんと小さな音を立てて、消える。
——ここはどこだろう。
そう思ってから、私はもっと大きなことに気がつく。
私は、自分が誰なのか分からない。
名前。年齢。どこから来たのか。なぜここで寝ているのか。何ひとつ思い出せない。記憶を探ろうとすると、引き出しを開けたのに中が空っぽだったときの、あの妙にひんやりした感触だけが返ってくる。
不思議なことに、怖くはない。むしろ、ずっと重い荷物を背負っていた人がそれをそっと下ろしたときみたいに、肩のあたりがやけに軽い。何も持っていないということは、たぶん、何も失わずに済むということでもある。
私は起き上がって、まわりを見る。
巨大な空間だ。
棚。とにかく、棚。木とガラスでできた背の高い棚が、見渡すかぎり、まっすぐに、あるいは緩やかに曲がりながら、霧の中へ伸びている。古い百貨店と、巨大な図書館と、役所の書庫を全部いっしょくたにして、そこに夢の論理を少しだけ混ぜたような場所だ。棚の上には、瓶や、箱や、封筒や、よく分からない形の包みが、几帳面に並んでいる。
それぞれに、白い荷札がついている。
いちばん近い棚の瓶に手を伸ばすと、中で小さな何かが、とくん、とくん、と脈打っている。荷札には、こう書いてある。
「勇気 / 持ち主不明」
その隣の棚には、折りたたまれた紙きれが何枚も入った箱があって、荷札には**「約束」**とだけある。紙はどれも、ほんの少し湿っている。泣いたあとの目もとみたいに。
私は瓶を棚に戻して、ひとつ、深く息を吸う。空気の中に、さっき降ってきた音符のかけらが、まだかすかに鳴っている気がする。
そのとき、頭上のどこからか、柔らかい鐘の音が響く。
ぽーん。
少しだけ間があって、女の人とも男の人ともつかない、眠たげで丁寧な声が、霧の上から降ってくる。
「——おはようございます。本日も、忘れものセンターをご利用いただき、ありがとうございます」
館内放送だ、と思う。なぜそう思ったのかは分からない。けれど、それは確かに館内放送の声で、デパートの閉店間際みたいに、どこかさみしくて、どこか親切だ。
「ただいま、新しいお客さまが一名、到着されました。係の者がまいりますので、その場で、もうしばらくお待ちください。……それでは、本日も、よい一日を」
ぽーん、ともう一度鐘が鳴って、声は霧の中へ溶けていく。
新しいお客さま、というのは、たぶん私のことだ。
私は手袋の降る通路の真ん中に突っ立って、係の者とやらを待つ。赤いミトンが一つ、ちょうど私の頭に落ちてきて、髪の上にちょこんと乗る。取って手のひらに包むと、ほんのり温かい。誰かの小さな手の温もりが、まだ残っているみたいに。
遠くから、しゃん、しゃん、と、台車のきしむ音が近づいてくる。




