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「朔夜! ……もう、いいから……それ、以上……やめてよ……!」

 蘭の目の前でがくりと片膝をつく朔夜。

 たまらず蘭は叫ぶが、朔夜は押し黙ったまま幾度も刀の柄を握った。もう何度目になるだろうか。

 もうこれ以上流れないと思うほど、涙が溢れてきた。

 柊が気を失って半刻近く。朔夜はひとりで九尾の相手をしている。

 紅い雫がぽたりと地に落ちた。横腹と左肩辺りの衣が赤黒く変色して、左手の先から流れ落ちている。

 九尾は音もなく地に降りたった。

「しぶとい……何故、そこまでこだわる。術士よ、おまえにとっては仇にも等しいだろう。そんな国の娘など、関係あるまい」

「最初は、確かにそうでした。そう思っていた。けれど亡くなった殿も、奥方さまも、蘭も皆、同じ人間。血も涙もなく、灰老を滅ぼしたわけじゃない。たとえ最初から勝算のない戦であっても、中立を貫こうとした両親が仇討ちなんか望むはずないと気づきました。いつだったか、亡き殿が仰っていたことがあります」

 内と外の両立は容易なことではない。時には内側から押され、外に出て行かざるえない時もある。けれどそれは、外にいる者には分からないことだ。あの国は最後まで、内と外を両立しようとした。その行為と意志は、何より称賛されるべきものであって、最後に刃を交えた私たちはそれを忘れてはならない。

「――俺には、その言葉で充分だ。父上が成そうとしたことを、他ならない殿が解ってくださったならそれでいい」

 朔夜は刀を構える。陰陽術をかけてあるので、妖には充分通用するものだ。

 人称が違った。普段の言葉尻も違うそれを、蘭は初めて聞いた。いつも丁寧な口調で、"私"だった。

 こっちが本当の朔夜なんだろうか。これが本当の彼なんだろうか。

「そうか、ならば我も積年の恨みを晴らすまでだ!」

 九尾がふわりと浮き、空中で止まると、九つの尾が朔夜めがけて槍のように降ってきた。

 これが最後。もしかすると、朔夜はあの攻撃に耐えられないかもしれない

「いやぁ……朔夜ぁぁぁぁあああーーーー!」

 轟音と土煙があがる。

 蘭はぎゅっと目を閉じた。目前に広がる光景を見たくない。望まない結果かもしれない。そう思うと、怖くて目を開けられない。

「……私の存在を忘れないでほしいな。朔夜、蘭姫」

「柊殿、いつの間に!」

 その声に蘭も驚き、顔を向ける。

 柊は気を失っていたその場で印を組み、朔夜に向かう尻尾を術で弾いたようだ。

「今さっき」

「貴様ぁ……そのまま倒れていれば、死なずにすんだものを……」

 九尾はぐるぐると唸り、氷刃もかくやの視線を柊に向ける。

 当の柊はそれを気にするでもなく、朔夜のそばまで歩み寄った。

「残念だけど、そろそろ時間切れだ。九尾の狐」

「何を言って……う、身体が動かない!」

 途端に空から薄氷のようなものが、ぱらりと落ちる。それを合図にしたかのように、見えている空全体に割れ目が生じた。

 九尾が張った結界が破れた。それも外から。そのくらいは蘭にも想像がついた。

 けど、一体だれが。

「……柊殿! これはどういう……?」

 朔夜が問うより先に、結界がばらばらと崩れ、本当の空が視界に入る。星が輝いていた。

 すると九尾を拘束している糸がはっきりと目に映った。邸の外に繋がっている。その先に視線をやれば、塀を僅かに超える程度の白い柱から伸びているようだ。その柱が邸を囲むように五箇所にある。

 それぞれを繋げば、見えてくるのは五芒星。

「おのれぇ……おのれぇぇぇぇぇーーーーー!」

 九尾は力任せに拘束を解こうと抵抗するが、緩む様子もない。むしろ足掻くほど締めつけているようだ。じゅぅじゅぅと肉の焼けるような音が響く。

「柊! 朔夜! ごめん、あんまりこの術もたないんだ! 早く!」

「水樹っ! 何で!」

 聞こえるはずのない声に、蘭は仰天して辺りを見回すが姿はない。ここからでは死角になっている部分もある。もしかしたら、その辺りの物陰かもしれない。

 柊と朔夜は顔を見合わせた。

「行くよ、朔夜」

「はい」

 訊きたいことは朔夜だってあるはずだ。だが今は、九尾を倒すことが先決。

 術で飛距離を伸ばす気だろうか。そうすれば、朔夜の刀も届かない距離ではない。

「ナウマクサマンダ、バザラダンセンダマカロシャダ、ソワタヤウン、タラタカンマン 」

 柊が呟く真言が聞こえた。唱え終わると同時に、朔夜は飛んだ。刃先を下にして突きたてるように柄を持つ。

「……――これで、終わりだぁぁーーーー!」

 獣特有の甲高い雄叫びが、蘭の耳に突き刺さった。


 九尾の狐が退治されたことで、九尾に従っていた妖も散っていった。もともと特に強い妖は九尾以外おらず、親玉さえ倒してしまえば、あとは放っておいても害はないだろう。ある種、大将を失えば指揮系統が機能しなくなる一軍と同じだ。

 後日、あの邸を捜索すると、数十人に及ぶ人骨が発見された。神隠しで行方が分からなくなった者たちと見て間違いないだろう。

 雪葉の処遇は、山奥の神社にて生涯軟禁となった。もちろん黒基城からは遠く、霊力も術によって封じられた。夫で城主である術士の男も、家族である以上責任を負いその座を追われることとなる。

 しばらくは城主不在でもどうにかなるだろうが、いつまでも持つものではない。早々に新たな城主が決まることだろう。


 数日後、大きな怪我を負っていない蘭はすぐに回復した。

 朔夜や柊はまだしばらく安静にと医者に言われていたし、怪我人に問い詰めるようなこともしたくない。となれば、まず訊くべきはあのとき聞こえた水樹の声だ。

 水樹の部屋を訪れ、開口一番に問うつもりが想像していたものと違う光景に、蘭は目を丸くした。

「あ、姉上。もう大丈夫なんですか?」

 障子を開けると、本が散乱する中心で小袖に袴姿の水樹が、こちらへ顔を向ける。

 もう何年も見ていなかった姿。病を理由に元服を先伸ばしにしており、そのため政にも直接の関わりはなく、気楽な格好の部類に入るが問題はない。けれど、病弱でいつも床にしている姿しか、ここ何年も見ていなかったのに。

 蘭は障子を開けたまま、その場にぺたりと力なく座り込む。濃色の小袖がしわを刻むが、そんなもの気にしていられない。

「水樹……どういうこと?」

「そっか、姉上にも言ってなかったんだっけ。とにかく座ってください」

 水樹は周辺の書物を適当に積みあげ、人が座れる程度の場所を開ける。座布団を敷いて適度な距離をとり、その向かいに水樹も座った。

 蘭は障子を閉める。幸い、足の踏み場がないというほど散らかってはいない。深く嘆息して、水樹が用意してくれた座布団の上に座った。

「床についていたのは、嘘だったっていうの?」

「ごめんなさい、姉上。本当は病も完治してるんです。病弱な振りしてたほうが、何かと便利なときもあるんです。この前のことは、柊に頼まれていました。かなり苦戦するだろうから、手伝ってほしいって。あの術を使える術士も、なかなかいませんから」

 ということは、柊も知っていたということだ。水樹が病弱な振りをしているだけだと。弟の言葉から察するに、影でこっそり鍛錬していたに違いない。そうでなければ、あんな術が使えるわけもない。そのくらい、たいして陰陽術の知識がなくとも分かる。

「いつから? なんでそんなこと……?」

「半年くらい前かな。父上や華氷おじ上が仰ってたんです」

 あの子は政や戦には向かない。人の心の裏を読むなんて真似は出来ない子だ。もしもこの先、水樹が政を覚えていくときが来るなら、蘭には平凡で幸せな結婚をしてもらいたい。

「僕は寝ているときだったので、多分聞こえていないと思ったんでしょう。床上げしたのは、その直後です。床上げまでの間、考えていました。姉上には幸せになってもらいたい。だから、もう少しだけ床についてたほうが、姉上も周囲も皆も、本音を教えてくれるかなって思って」

「それで、そのまま病弱な振りしてたっていうの?」

 いつの間にそんなことを考えるようになったのか。まだ十歳なのに。

 蘭の問いに水樹はこくりと頷いた。

「はい、黙ってたことは謝ります。でもそのおかげで、知ったこともあります。姉上、本当はお城の生活なんて嫌なのでしょう? 柊との婚姻も気が進まない。どっちかっていうと、朔夜のほうが好きではないのですか?」

「なっ! 何を言い出すのよ! 何でそんな話になるの!」

「姉上をよく見てれば分かります。それにいつだったか、言ったでしょう。姉上にはそんな望まない結婚してほしくありません」

 水樹は少し腰を浮かせ、蘭の手をぎゅっと握った。袖口から見えていた白布もなく、痣は綺麗に消えている。

「蘭姉上、今までたくさん心配かけました。今度は僕がお返しする番です」

「お返しって……何をするつもりよ」

「それは時期が来たら教えます。姉上は何も心配しなくて大丈夫ですから!」


 九尾の狐を退治してから、数週間が経過した。

 季節はもうすっかり夏だ。陽射しもきつく、木々の緑が眩しい。

 柊と朔夜の怪我は、命に別状こそないがしばしの絶対安静と医者に言い渡された。柊にいたっては、肋骨を折ってしまい、完全に回復するにはまだしばらく掛かるだろう。

 几帳を立てて、障子は開けたままにしている。

 柊は几帳と天井の間から見える、澄んだ青い空を眺め、くすりと笑うとぽつりと呟く。

「まさか蘭姫に一緒の部屋へ、押しこめられるなんて思わなかったんだけど」

 起きていられる程度に回復したころ、柊は思い出したことすべて、蘭と朔夜と、華氷、水樹の四人に話した。もっと怪我が治ってからでいいと言われたが、落ち着かない朔夜の気持ちを考えると、話せるときに話してやりたかった。

 そして鈴蘭が刺繍された巾着も見せて。

 内心、柊は落ち着いている。十年、いや、実際は約十ニ年振りになるのか。異母弟と再会を喜んでいないわけでもないし、感慨がないわけでもない。けれど、術士として仕事上の関係と、蘭を通じての関わりがすでに出来ている今、兄弟だからといって何が変わるとも思っていない。今まで通り、彼が困っているなら手を貸す。術士としての仕事があるなら、依頼もする。そこに何の変化もない。

 いや、兄弟だと分かったことで、以前よりもう少しだけ彼の助力になることもできるだろう。昔、抱いた想いは、記憶とともに甦った。だから、あのころ出来なかったことをやりたいとも思うのだ。

 そんな柊をよそに、朔夜は呆れたように嘆息した。

「……あんな話をして、気を遣わないほうがおかしいでしょう。蘭姫も最初は信じていなかったようですが」

「それもそうだよねぇ、私も信じられないし。特に思い出したいって思ってたわけでもないけど、まさか君と異母兄弟とはねぇ」

「そんな他人事のように言うから、信じてもらえないんですよ」

「言ってくれるね、朔夜。そういう君は、私の話を信じてるのかい?」

「……――信じてるんだと思います。当時の兄の顔を覚えていませんが、手の温もりは覚えがあります。それに何を言うでもなく、あなたはいつも私の前に立っている。巾着のことを除いてもそんなあなたが私の兄なら、納得できるような気がするので」

 柊は小袖を羽織って、書き物をする朔夜に顔を向ける。文机に向かう彼の横顔が目に入り、数度瞬きをする。

 朔夜は溜まった書き物仕事を片づけているところだ。本当はもう少し休んでいなければいけないが、これ以上遅れることもできないらしい。半刻だけと蘭に懇願していたのは、つい先ほどのことだ。

 九尾との一戦以来ずっと思っていたが、朔夜にそこまで受け入れられているとは想像すらしていなかった。

「ふふっ、本当君からそんな言葉が聞ける日がくるなんて思わなかったよ」

「笑うところですか。別に嘘もお世辞も言ってません。思ったことを言っただけです」

「ああ、分かってる。……君が妙なところで素直なのもね」

 これにはずっと筆を走らせていた朔夜も、顔をこちらに向けた。

 何か言い返そうとしたが、深く息を吐き再び筆を進める。

「……いいですよ。怪我が治るまでは大目に見ます。元々あなたに口で勝てるなんて思ってませんから、兄上」

 朔夜の様子に柊は喉の奥で笑った。

 彼は必要な嘘もつくし、言いたくないことは誤魔化す。無口というか、感情が表に出にくいほうだとは思う。だが時折驚くほど素直に、思っていることを口にすることがある。それを知ったのは九尾との直接対決からだ。それが兄に対してだからなのか、それとも他の皆に対してもなのかはまだ分からないけど。

 それを思えば、少し変わったのかもしれない。柊と朔夜の関係も。

 こうなった今なら、朔夜から聞けるかもしれない。蘭への気持ちも、けじめを着けられるかもしれない。

 ――けど、その前にもうちょっと回復しなきゃ無理かな。

 柊は再び空を見上げ、来るべき日を脳裏に描いていた。


 十

 柊や朔夜の怪我も治り、完全に復帰したころ。水樹の部屋へ呼ばれていた。

 秋が近く、山の緑も紅く色づき始めている。吹く風も気持ちよく、日向ぼっこにはいい季節だ。

 床上げが城中に知れ渡り、今では本格的に学問を始めた水樹はみるみる吸収していった。年明けには元服も行われる。

 そんな水樹から提案に、朔夜は幾度か瞬きして問い返した。水樹の右側に、朔夜と柊が座っている。正面を空けているのは、後からもうひとり来るからだ。公式の場ではないので、座る位置を気にすることはない。もっとも最後のひとりが状況次第では、水樹に詰め寄りかねないのは想像に難くない。

「……若君、本気で仰っておいでですか?」

「本気だよ。けど僕は、灰老への罪滅ぼしのつもりもないし、朔夜に対して負い目を感じてるわけじゃない。だって僕が知ってるのは、黒基にいる朔夜だもの。戦の勝ち負けは時の運、なんておじ上からの受け売りだけど、少なくとも十年前を引きずってそんなこと言ってるんじゃないよ。僕が生まれたばかりのことだしね」

「ですが……そう簡単なことではないでしょう。皆を納得させるのは至難の技と思いますが」

 さすがの柊も片手を顎にあて、思案しながら眉を寄せる。柊の反応も当然だ。水樹の提案はむしろ、今後苦しい道を辿るかもしれない。

「だから柊にはここに残ってもらって、朔夜に行ってもらうんだよ。柊なら口先で丸めこめる人も多いだろうし、一部の人たちには話ついてるから」

「なるほど……そういうことですか。確かに正室の子という血筋と術士、両方揃ってればこれ以上に強いものはないでしょうしね」

 うむうむと柊は頷いた。

 一部の、というと、灰老城の城主は承諾したということか。朔夜が住んでいた灰老城の現城主には、九尾の一件で城主が不在となった城に赴任してもらうそうだ。

 朔夜はここしばらくの水樹の変わりように感心を通り越し、少し心配と寂しさを覚えていた。多分その心配も寂しさも、兄が弟に対するようなものだと思っている。

"口先で丸めこむ"なんてどこで覚えたのか。天真爛漫、無邪気に笑って、学問好きな水樹をもう見ることはないのかと思うと、少しだけ寂しいのだ。

「さらに蘭姉上が一緒に行けば、国としての面子も関わりも保てるし。一城主の正室なら、この城で国主を継ぐよりまだ自由だし。丸く収まると思うんだけど」

 すらすらと出てくる提案に、朔夜が訊き返そうとしたその時。

 すぱんと障子が開いたかと思うと、そこにいたのは蘭だ。

「水樹! 今のどういうこと!」

「姉上、早かったですね。冬が引き止めてくれてると思ったのに」

「……甘いもので引き止めようったってそうはいかないわよ。だれの入れ知恵かと思ったら、水樹だったのね」

 冬の怪我はやはり痕が残ってしまった。だがどういうやりとりがあったのか、冬と蘭は以前どおりの仲に戻っていたのだ。むしろ仲が深まった感がある。今では水樹のもとを離れ、蘭についているようだった。

 藍色の地に蘭の花が描かれた小袖を着た蘭は、障子を閉めると水樹に詰め寄る。

「で、今のどういうこと?」

「朔夜には故郷で城主についてもらって、その正室として姉上も一緒についていけばいろんなものが丸く収まるから、その相談だったんだけど。三人で話まとめる前に、姉上が来ちゃったからなぁ」

「……黒基は、どうするのよ」

 朔夜の過去は、柊が話した時一緒に聞いている。想像していのか、事実上朔夜が故郷に帰るという部分は聞き返してこなかった。

 蘭は水樹と向かい合う形で腰をおろす。

「心配いりません。言ったじゃないですか、僕がお返しする番だって。一城主の正室なら、国主を継ぐよりは身軽です。それに姉上に望まない結婚はしてほしくないんです。姉上を託せるのは柊か朔夜だって僕、ずっと思ってました。姉上は朔夜のほうがいいのでしょう? だから黒基は僕が守ります。それが僕からのお返しです」

 水樹は真っ直ぐ蘭を見据えた。彼の目に宿る光は蘭とよく似ている。髪も瞳も色が違うし、一見すれば姉弟とは分かりづらいほうだろう。

 けれど目に宿る光は同じ。きらきらと輝いて、真っ直ぐ強い。それでいて、夏の日の木漏れ日のように優しいものだ。

 この状況を邪魔するまいと、朔夜も柊も黙って様子を見ている。

 蘭に視線を移せば、涙で青い瞳が滲んでいるようだ。

「それで……本当に辛くないの? しんどくないの?」

「大丈夫です。これでも以前からこっそり体力つけていたので」

 水樹はにこっと笑う。体力をつけていたということは、同年齢の子と比べると華奢な体格は生来のものだろうか。だがそれが、仮病を使うために有利に働いたのは間違いない。

「身体のこともそりゃ心配だけど、そうじゃなくて、心は辛くないのかって訊いてるのよ」

「心配性だなぁ、姉上は。大丈夫ですよ、僕は姉上が思ってる以上に打たれ強いんですから」

 あははと水樹は笑った。

 九尾の一件が片づいて後、老臣たちとも顔を合わせている。その折、一歩も引く様子なく受け答えをしたのを、朔夜は間近で見ていた。床についていた時は想像もしなかった姿だ。

 ぽつりと雫が落ち、小袖に染みを作った。

 蘭の肩が震える。水樹は蘭と朔夜の顔を幾度か交互に見やり、少し思案すると立ち上がった。姉の頭を数度撫でると、再びこちらを向いて笑みを浮かべる。

「朔夜、あとは頼んだよ。僕、今日は柊の邸に泊まるから。ほら、柊、行くよ」

「えっ……! 若君、何を……!」

「まぁまぁ、ここは言うこと聞いておきなよ」

 これには朔夜も驚愕して立とうとしたが、柊に引き戻される。当の蘭は、涙を溜めた目を丸くしていた。

 水樹と柊は、そのまま部屋を後にする。朔夜の手が空をつかむ。障子が閉まり、足音が遠ざかると静寂が辺りを包んだ。

 一度こちらを向いた蘭だが、気恥ずかしさからか俯いたままだ。水樹の言葉で、涙は止まっている。

 朔夜は蘭のそばへ寄ると、そっと手を伸ばした。いつものように頭を撫で、顎に手をかけ顔をあげさせる。

「痕が残っていますよ」

 そういって裾で蘭の頬を拭う。目が合った。昔と変わらない青い瞳。

「……朔夜は、嫌じゃないの?」

「何がですか?」

「だから……私で嫌じゃないの?」

 今度は朔夜が目を丸くして幾度か瞬きした後、笑みを浮かべる。

 妹だと、小さな妹だと思っていたのに、いつの間にかひとりの女性になっていた。

 ああ、そうだ。だから接し方に迷った。いつまでも昔のままだと、いつか彼女を傷つけてしまうのが分かっていたから。それでも彼女のそばを離れることも出来なくて。

「嫌なら蘭が来る前に断ってますよ。あなたが心配するようなことはありません」

 朔夜はそのまま蘭の背に手を回す。蘭もおそるおそる朔夜の衣をつかむ。

「本当に?」

「本当です。……――あなたが望む限りそばにいると、言ったじゃありませんか。それに俺は、あなたが好きだ。九尾の一件からずっと中途半端なままでしたが、俺が蘭のそばにいたいんです。この気持ちをどう言葉にすればいいか、正直分かりません。けどひとつ確かなのは、どんなに形が変わろうとあなたのそばにいます。それにどうか、忘れないでください。人の上に立つ資質は、目に見える物だけじゃないんです。俺はあなたに救われた、それは紛れもない事実だから」

 身体的なことだけじゃない。救ってくれたのは、この心だ。温かなものを思い出させてくれた。こんな言葉だけで伝えられたかどうか、朔夜には分からない。でもずっと言いたかったのも本当だから。

 蘭は何も言わず、ぎゅっとしがみついてくる。

 鼓動を十ほど数え、蘭の顔を見ればまた涙を目に溜めていた。

「だから、蘭、ずっと俺のそばにいてくれますか?」

 蘭が二、三度深く頷くと、涙がこぼれ落ちた。

「……――はいっ……」

 そして二人の影が重なった。


 同じころ、柊の邸へ向かうため、二人は三の丸へ続く道を歩いている。

 許婚という立場だから、柊には余計に解ってしまった気がしていた。蘭の心に割りこむ隙がなかったのは、元から承知していた。それでもと縁談を受けたのは、万にひとつの可能性を期待したから。

 もっともその可能性すら、今やなくなったのだが。

 風が紅葉を揺らす。空にはいわし雲が広がり、とんぼが二匹連れ立って飛んでいた。

 ふいに前を行く水樹が振り返り、立ち止まった。

「で、柊のほうはいいの?」

「何がですか?」

「仮にも許婚だったのに、何も思わないのかってこと」

「ああ、そういうことですか。大丈夫ですよ。朔夜がここを発つ前に、けじめはつけさせてもらいますから」

 相手が異母弟とはいえ、そのくらいの権利はあるだろう。

 彼女のすぐ隣にいたいと思っていた。日の光のような笑顔が好きだった。

 ――けど蘭姫が選んだのは、私じゃない。なら今後は、一臣下として仕えることだけ。

 絆が切れてしまったわけじゃない。遠くに行ってしまうわけじゃない。同じ城にいないというだけで、会おうと思えば数日で会えるのだ。

 くるりと背を向け、再び水樹は歩き出した。柊もそれに続く。

「そう、じゃあ僕は何も言わない」

「若君こそ、寂しくはありませんか? 姉上をとられたようで」

 少しだけ意地悪だっただろうか。でも訊いてみたいとも柊は思った。いくら学問が出来ても、大人と対等に渡り合ってもまだ十歳だ。父も母も亡くして、そのうえ姉もそばを離れてしまう。この歳で寂しくないはずないだろう。

 柊の言葉に水樹は再度立ち止まる。

「……だれにも言わない?」

「ええ、言いませんよ。幸いこんな天気か、この場にいるのは私たちだけのようですしね」

 さすがにそんなことを言いふらす趣味はないし、黙っていろというなら朔夜や蘭にだって話す気はない。

 その言葉に水樹が振り返った。

「寂しいよ。だって父上がいなくなって、まだ一年も経ってないんだよ。……寂しくないわけ、ないじゃん」

 水樹の瞳から涙がこぼれた。ぎゅっと目を閉じて、込みあげてくるものを堪えようとしているようだ。

 ああ、まだ十歳の子ども。どんなに、どれだけ大人びていようと、やはり年相応の部分はある。

 柊は水樹のそばへ歩み寄ると、視線を合わせるように中腰になり、幾度か頭を撫でたあとぎゅっと抱きしめた。

「泣いたってだれも責めやしませんよ。私以外いませんしね。この天気じゃしばらくだれも来ないでしょう」

 ぽんぽんとあやすように背を叩いてやると、水樹は堰切ったように声をあげた。


 翌日。ふわりと池の水面を風が吹き抜けた。風に乗ってとんぼが空へ飛びたつ。

 恨んでいるわけでも、彼女を取り返したいわけでもない。ただ己の心に決着をつけたいだけだ。

 庭先で池にかかる橋を渡り、人の気配が遠ざかる。この向こうは本丸へ続いているが、ここは滅多に使われない。

 氷真はするりと抜刀した。

「なんの真似ですか? 氷真殿」

「それを聞くのは無粋ってものじゃないかい? 君だって承知していたはずだろう。私は彼女の許婚だ。もっとも、それも過去のものになりつつあるけど」

 さすがに朔夜も目を丸くして、幾度か瞬きをしたあと氷真を見据える。

「……そこまで蘭に執着があったとは、思いませんでしたが」

「心外だな、そんなに私の言葉は軽かったかい? まぁ、今更言っても詮無いことだけど」

 自嘲気味に笑って、氷真は肩を落とす。

 ついで朔夜も抜刀した。

「お相手いたします。――兄上」

 互いに距離をとり構える。

 兄上。

 数ヶ月前、朔夜が初めてそう呼んでくれた。それがとても嬉しかったことは、一生言わない。言いたくない。子どものころの、兄弟としての時間は僅かしかない。記憶が戻ってみれば少しだけ一緒に過ごした時間が、とても大切で不思議なほど輝いていた。でもだからといって、けじめもつけないまま、蘭の許婚を返上する気はない。

 池の魚がぴちゃんとはねる。それを合図に踏み込んだのは氷真だ。

 数合、打ち合いが続く。

 耳障りな金属音が響いた。数呼吸ほどの鍔迫り合いの後、再び距離をとる。

 さすがに朔夜の息はあがっていない。蘭の護衛も兼ねているため守り役といっても、本業は武術。半分、文人のような氷真とは根本的に違う。

「私では不足ですか?」

「そうは思ってないよ。ただ……そうだな。けじめをつけたい。それだけだよ」

 さらに氷真は上段から斬りこむ。朔夜はそれを弾き返した。

 朔夜は本気ではない。それは剣筋からも解る。氷真とて城内でもそうそう負ける腕ではないが、朔夜と本気で刀を交えて勝てるとは氷真も思っていない。

 打ち合いのなか、途切れ途切れに氷真は続けた。

「朔夜がいれば、蘭姫に心配はない。最初から、彼女の隣にいたのは君だ。それが、羨ましかった」

 彼女も覚えていない、いや、知らないであろう出会いは本丸の廊下。中庭を挟んで反対側の廊下にいたのは、羽令と蘭、朔夜の三人。

 あのときの笑顔がとても輝いていて、とても鮮明に残った。

 それからだ、彼女の姿を探すようになったのは。そうこうしている間に、養子の話がきて、蘭との縁談の話が持ちあがった。純粋に嬉しかった。本当は天真爛漫で優しい少女なのに、一国の姫君であろうと耐える姿にはどれほど心配したことか。

 それに蘭に対して、言ったことに嘘はない。さまざまな美辞麗句を使ったが、すべて心の底から思い感じたことだ。もっとも、信じてもらえたかどうかは怪しいものだけど。

 今度は朔夜が氷真の刀を弾き返した。

 さすがに息があがったのか、朔夜も呼吸が荒い。

「兄上の心まで、無駄にはしません。それもすべて、背負っていきます」

「君の言葉で言ってごらん」

「……――俺は兄上の心を無駄にしたくない、若君の信頼も裏切りたくない。蘭を悲しませるような真似は、二度としたくない」

 再度、打ち合い。けれど、それも三合ほどで終わった。

 氷真の刀が円を描きながら宙を舞う。

 すれ違いざまに、朔夜の耳元でつぶやく。

「ああ、それでいいよ。ようやくすっきりできそうだ……頼んだよ。朔夜」

「っっ! 兄上、兄上!」

 朔夜が呼ぶ声が次第に遠くなり、視界が暗転した。


 決めたとなれば、出立まで慌しいものだった。旅の準備から始まって、周辺の整理、老臣たちの説得。城内は大騒ぎとなり、あれよあれよという間に、出立の日となる。

 確か柊は倒れたと聞いていた。だから見送りにも来ないだろうと、蘭は聞いていた。やたら深刻な顔をして朔夜が言うから、てっきり九尾の一件での傷がまだ治っていなかったのかと思っていた。

 なのに。

「で、何であんたがここにいるのよ!」

 蘭の目の前にいる柊は、けろっとした顔で現れたのだ。

 朔夜にいたっては目を見開いたまま、口をぱくぱくさせている。

「心配してくれたのかい? 蘭姫。大したことないよ。というか、この大騒ぎのなか、寝てろってほうが無理だと思うけどね」

 三の丸の薬医門前にて、水樹と華氷の見送りを受けていたところに柊が門のうえから姿を見せた。大事にはしたくないと、他の家臣たちの見送りは断ったのだ。柊はすたっと着地して、いつもの笑みを浮かべる。

 華氷や柊はいつもの素襖だが、朔夜と蘭は袴に小袖姿だ。十数日のこととはいえ、素襖では動きにくい。蘭についてはいつもの小袖でいいと言われたが、動きやすいほうを選び今は少年のような格好をしている。

 笠と蘭には木製の杖、簡単な食料と路銀。途中で替える馬や路銀の手配は済んでいる。

「……兄上、なんのつもりですか?」

「やだなぁ、朔夜。そんな怖い顔しないでよ、私から蘭姫を横取りしようっていうんだから、このくらい意趣返しにもならないだろう。別にずっと根に持つつもりはないけど、ささやかな仕返しくらい、大目に見てもらいたいね」

 詰め寄る朔夜に、柊は笑みを崩さなかった。

 その様子に朔夜は肺が空になるような息を吐くと、複雑な表情で柊を見据える。

「心配、したんですよ、俺は」

「――悪かったよ。少し意地悪したかっただけだ。信じてるよ、君の言葉」

 にこりと笑って、柊は朔夜の頭を撫でる。

 二人の様子を横で見ていた蘭は、確かに二人の変化を感じていた。朔夜は人称が時々違う。多分、"俺"と言った時が本当の彼なのだと思う。突き刺さっていた棘のようなものが抜けたのか、以前より雰囲気が柔らかくなったと冬や華氷は言っていた。

 対して柊は変わらないように見えて、こうして二人並ぶと兄らしく見えるのだから不思議だ。十年以上、二人の間に空白があったというのに。

「さあ、二人とも姫さまがお待ちだ」

 二人の肩に手を置いて、華氷は促す。

「はい、父上。……蘭姫、私が君に対して言ったことはすべて嘘じゃないよ。たとえ関係は違っても、この心は変わらない。朔夜に飽きたら、いつでも戻っておいで」

「なっ! ……あんたは最後の最後まで……っっ! でも――ありがとう。朔夜のこと、解ってくれて」

 てっきり拳が飛んでくるかと身構えた柊だが、予想した衝撃は来なかった。

 代わりに笑みを浮かべて、片手を差し出している。柊は幾度か瞬きをして、くすりと笑うとその手をとった。

「まさか姫に弟のことで、お礼言われるとはね。兄弟だから、当然だよ」

「蘭……あなたという人は」

「何年二人のそばにいたと思ってるのよ。私が知らない間に、なんだか前より仲良くなってるんだもん。そのくらい察しつくわよ」

 蘭は柊の手を放すと、ぷいっと顔を背ける。

 二人の間に自分が知らないうちに、何かあったのだと見ていれば分かる。そしてきっと、朔夜のことを柊が理解してくれたように、その逆もあるのだろうと思う。

 ふいに袖を引かれて、蘭は視線を落とすと水樹と目が合った。

「姉上、姉上」

「なあに? 水樹」

「黒基のことは、任せてください。華氷おじ上も柊も、冬もいる。だから心配しないでください。でも、でも……」

 俯く水樹に蘭は中腰になって、顔を同じ位置にまで持っていく。水樹の両手を取り、ぎゅっと握った。

「いいから、いつもみたいに言って。何?」

「……――寂しく、なったら、手紙、書いても……いいですか? それに……たまには、遊びに、行って……っっ」

 水樹の頬から雫が流れ、肩が上下している。

「もちろん! 私も、手紙、書くから。無理、しちゃだめよ」

 たまらず蘭は水樹を抱きしめた。涙で視界が滲む。

 この小さな弟に国ひとつ押しつけようとしている。そんな負い目がないわけじゃない。でもそんなものすら、吹っ飛ばすように笑って弟は言うのだ。

『僕がやりたいからやるんです。それが姉上に幸せになってもらう手段と一致した。それだけです』

 気丈に振舞っても、大人びて見せてもやはり蘭には弟なのだ。まだ十歳の弟。

 蘭は水樹を抱きしめたまま言う。

「華氷おじ上、柊。水樹を、お願いします」

「ああ、もちろん。国主としても、大切な甥っ子としても」

「言われるまでもない。だから、蘭姫は心配することないよ」

 華氷に続いて、柊も応えた。

 それを聞いて、蘭は再び水樹をぎゅっと抱きしめた。

「蘭、そろそろ時間です。町外れで待ってくれている護衛が痺れを切らしてますよ」

「そうね。もう行かなきゃ」

 朔夜が蘭の肩に手を置いた。

 蘭は水樹の頭を数度撫でると立ち上がる。

「じゃあね。いつでも手紙ちょうだい」

 蘭は手を振って、足を進める。

 大丈夫、心配はない。だって、皆いるもの。

 次第に三人の姿が小さくなっていく。時折、手を振り返した。

「……朔夜ぁぁーー! 姉上を、頼んだよぉーー!」

 水樹の声に驚いて後方を見やると、水樹が大きく手を振っている。

 その言葉に朔夜は、深く会釈した。


 本当に始まる。これから違う生活が。あの窮屈な世界とは別の暮らしが。

 ――あんまり変わらないような気もするけど。

 物理的なことはたいして変わらない気がする。多分、向こうに行っても、城を抜け出す度に侍女たちに怒られるに違いない。

 けど今度は。

「行きましょう、蘭。少し急がなければ」

 さすがにもう三人の姿は見えない。家臣たちの邸が並ぶこの辺りで、人目も蘭たちに気づく者はいない。

「ねえ、朔夜。もう一度、聞かせて」

「何をですか?」

「私は、朔夜のそばにいてもいいの? どこにも行かないわよね?」

「どこにも行きません。あなたが望む限り、そばにいます。私が――俺がそうしたいんです。ずっと好きでした。今もこの心は変わらない。この世界のだれよりも、蘭が好きです」

 朔夜は片手を差し出した。

「私も、朔夜が好き。この世界の、だれよりも」

 けど今度は、朔夜が一緒だから。この人の隣に、いられるから。

 蘭は朔夜の手をとり、満面の笑みを浮かべた。


 秋の足音が聞こえる季節。

 戦国時代と呼ばれたころから十一年を経て、灰老の若君と黒基の姫は結ばれた。

 新たな旅立ちと確かな絆を手に入れて。

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