七
灰老は小国だったが、織物が有名で他国とも取引していた。藍染めが主体で染絣、織絣の両方あり、庶民には少々高い。もっぱら城主、国主や権力者への献上品であったり、裕福な大棚同士の贈り物などに使われていた。
城も全部で三つしかなく、大国となった黒基では二十を超える。それでもこれまでどの国にも属さず、屈せずいたのは、ひたすらに中立を貫いていたからだ。
「もう私では敵わないな、朔夜」
「父上、ありがとうございます」
朔夜の頭を大きな手が数度撫でる。それに笑みを浮かべ手が離れると一礼し、縁側へと駆け寄る。
父は実際の戦には不向きな人だった。内政こそその手腕は見事で、戦国時代にあって小国だがその名は周辺国に知られている。
「朔夜、よく頑張りましたね。お茶をいれましたよ。あなたもこちらへ」
そばで稽古を見ていたのは母だ。
目立つ人ではないが、穏やかで優しい人だった。
「そうだ、父上。今度、みんなと川へ釣りへ行きたいのですが」
「まぁ! 気をつけるのですよ。川は滑りやすいですから」
「行ってくるといい、日暮れまでには戻るようにな」
朔夜は小さくても温かく優しいこの国が好きだった。
周囲を大国に囲まれ、それでも民を戦火に巻き込まず、中立を貫く父やそれに賛同する家臣が強く大きく見えたものだ。
もちろん、決して一枚岩だったとは言わない。小さな国とはいえ、侍女、武将、兵も職人も自衛できるだけの数を抱えていた。人の数だけ考え方もそれぞれだったはずだ。
その後、灰老が黒基の開戦から敗れるまで、一年とかからなかった。
温かな夢だ。まだ戦国時代と言われた、あのころの夢。
開戦のきっかけは確か黒基との縁談だ。
――俺と黒基の姫君の。
縁談を受け入れれば、それは黒基と姻戚関係になること。中立を貫いてきた国にとって、あってはならないことだ。当事者間はどうあれ、他国は必ず疑うだろう。
灰老が黒基と手を組んだ。勘ぐる者は灰老が黒基に降ったとさえ。
そんな疑惑を抱かせれば、いらない火種を起こすこととなる。事態が起こってからでは遅い。無関係な民を巻き込みたくはないと、父は言っていた。その言葉をなんの曇りもなく、言ってのける父が朔夜は大好きだった。
縁談の相手は蘭だ。正室の姫君であればこそ断りづらく、また朔夜も兄がいたため灰老の国主を継ぐ立場にはなかった。
蘭本人は知らない。当然だろう。当時、四、五歳だったはずだ。おまけに本当にまとまる前に破談になったのだから、本人が知らなくとも無理はない。
「まったく君は……あまり人を心配させるものではないよ。ただでさえ、蘭姫の呪詛を肩代わりしているんだから、原因と鉢合えばこうなるのは分かってただろうに」
その声に顔を向ければ、柊が呆れたように嘆息した。
彼の言い分に、倒れる直前を思い出し勢いよく起きあがろうとするが、激痛が走り身体を丸める。
嫌な汗が流れる。血の気が引いて、体中が冷たい。呼吸するたびに喉を通る空気がひゅぅと冷たい音をたてる。雪葉は"私の邸"といった。最初からあの邸だったのだ。今はだれも住んでいないはずの邸。
雪葉と九尾、両方と対峙して初めて分かったことがある。彼女は九尾に憑かれているのでも、呪詛をかけられているのでもない。雪葉の気配にも様子にも、九尾の影がないはずだ。だから結界を通れた。拒まれなかったのだ。九尾と雪葉の関係を、あえて言葉にするなら協力だろうか。
いや、そんな生やさしいものではない。おそらく九尾から代償を求められているはずだ。それでも関係が成立するのは、雪葉が術士だからだ。それも半端な実力ではないはず。正確に把握はできていないが、九尾のような妖とそんな関係を保つのは簡単ではない。
朔夜が雪葉の実力を知らないのも無理はない。彼女が本当に術士として、朔夜や柊のように現場に立つことはまずないからだ。ありえるなら、それは国が傾くような大事の時だろう。国主一族はいざという時の要。そのはずだが最近、他国では一介の術士のほうが国主や地方城主より実力があることも珍しくない。
慣例として続いた習慣も、時の流れとともに変わろうとしている。
「ああ、ほら、まだ横になってなきゃ、朔夜。行き先は分かってるんだから、焦ることはないよ」
「……それでも、急がないと……」
「その調子で行って、殺られて戻ってくる気かい? 止めたって聞きやしないのは分かってるから、せめて態勢整えてから行こう」
「来て、くださるんですか……?」
朔夜の問いに目を丸くして、何度か瞬きをすると柊は自嘲気味に笑った。
「そんなに薄情に見えるかな? 私は。確かに面倒や無粋なことは嫌いだけどね。薄情ではないつもりだよ。実際、君ひとりで九尾と雪葉姫両方の相手は辛いだろう。何を抱えてるか知らないけど、たまには頼ってみるのも悪くないんじゃないかな?」
「……分かりました。お願いします」
「なら少し休んでなよ。邪気祓いとそれを封じ込める法具さえ揃えば、しばらくは楽になる」
柊の手が朔夜の頭上に伸びる。
こんな風に自分が甘える立場になるのは、いつぶりだろうか。蘭の守り役を務めるようになってからずっとなかった。
「今は簡単なまじないだけだけど、眠るには充分だろう。起きたころには準備を終えておくさ」
瞼が重くなる。身体中を巡る邪気が静かになり、痛みがすっと引いていく。
とろとろと微睡に揺られ、朔夜は思う。
ずっと昔、この人と同じ手を知っているような気がする。羽令でも、華氷でもなく、小さなあの子の手でもない。
――どうして俺は忘れていたんだろうか。
気を失っていた蘭が、次に目覚めた時。蘭には見覚えのない邸の階、そのそばにある木に縄で縛りつけられていた。両手首を前で縛られたうえで、更に胴体を縛りつけてある。どれだけ時間が経ったのかは分からないが、今は夜だろうか。暗い闇が広がっている。仄白い炎が松明もなく、等間隔にいくつか空中で燃えていた。
唐紅の小袖はところどころ破れ、土で汚れている。瞳が涙で滲み、姉の顔がぼやけて見えた。
ここは雪葉が昔住んでいた邸。十年前になり、蘭も数えるほどしか訪れていない。厩や蔵もあり、柊の邸より格段に広い。時の流れとともに庭は荒れ、草木が自然のままに伸びている。蘭が縛りつけられた木も、葉が垂れ下がり蘭の視界でゆらゆらと揺れていた。障子は破られ、屋根や壁は穴が開いている。蜘蛛の巣が張って、時の移り変わりを感じさせる。
でもこの重い雰囲気は、まとわりつくような空気はなんだ。
「姉上……どうして、こんなこと……?」
「どうして? 本当、何も知らないのも罪ですわ。あなたがそうだから、あなたのような子がいるから……あの人は……っ!」
階に腰かけている雪葉が拳で、ばんっと床板をたたく。
「守られてばかりで、いつだってそれにすら気づかない。一族の証すら持たないあなたが、ただ正室の娘だからと、それだけで守られて。あの人の……朔夜の心すら、その手にあるのに」
はっきりと突きつけられたそれに、ちくりと心が痛んだ。
守られてばかりいた。それはこの一件で感じた。それがこんなにも苦しいことだとは、初めて知ったけど。
もうひとつ、雪葉の口から出た名前に蘭は驚く。
「え……朔夜、の……? どう、いう……?」
「わたくしは、朔夜を愛しています! あなたなどより、ずっとずっと!……あの人の言葉があったから、今の結婚だって……!」
涙を浮かべて叫ぶ姉の姿に、蘭は頭のなかが真っ白になった。
そんなこと知らない。だって、朔夜はひと言も言わなかった。ただ、引き抜きを断っただけだと。そこにそんな感情があるとは、ひと言だって言わなかった。
唐突に木の後ろから人の気配がする。それは感じたが、振り向くこともできなかった。今は目前にある事実が、ただ信じられなかった。
「知らないことは罪。そうだよなぁ、己の姉に対する仕打ちも、守り役の男に対する仕打ちも。知らなかったでは済まない。なぁ、まだ知らないことがある。そうだろう? まだ知らなきゃならないことがある。おまえが知らないことを教えてやろうか?」
耳元で囁く声に、蘭はゆっくりと顔をあげた。青い瞳から落ちる涙が衣に染みを作る。
木に寄りかかるようにこちらを見下ろす糸目の男。
知らないことがある。知らないままで済まないことがある。だって、あんなに守られてばかりで、せめて邪魔にならないようにって。心配かけないようにって。そう決めたのに、こんなことになった。だからせめて、知らなかったとは後になって言いたくない。
「教えてやろうか? おまえの知らない――守り役の男の過去を」
甘く響いた男が告げたそれに、蘭は目を見開く。
朔夜の、過去。彼と出会ってから、一度も訊いたことはない。虚ろな目をして、衣も破れ汚れ、衰弱した状態で見つけたのだ。訊きにくいし、羽令にも無理に訊くなと当時厳命された。羽令がそう言った意味が、今なら変わる。だれにだって言いたくない、知られたくない過去はある。
でも、彼のことをもっと知りたいと思う心もあるから。
蘭が返事する前に、雪葉がすくっと立ちあがった。
「あら……もう来ましたのね」
雪葉は邸の正門のほうを見やる。
数呼吸もしないうちに、よく知った顔が歩いてきた。
蘭のそばにいた男がすっと姿を消したかと思うと、白銀の大きな狐が目の前に現れる。
「……朔夜っ……柊っ!」
その姿に安堵した蘭は、盛大に息をついた。
「来たか……今は亡き国の血を継ぐ者。我を封じた術士の末裔よ」
「……亡き、国……?」
柊は九尾が言った言葉を繰り返した。
蘭にも意味が分からない。雪葉を見やるが、彼女も知らないようで一様に九尾を見あげた。
ひとり、朔夜だけは視線をそむけ、苦虫を噛みつぶしたような顔をする。
「だれにも言っていないか、術士よ。言えぬだろう、祖国を滅ぼした敵国の中心では」
「……朔夜、ねえ、どういうこと? 黒基が滅ぼした国って……」
蘭が知っているのは一国だけだ。十七年生きてきて、黒基が滅亡させたと知っているのはひとつだけ。
でも、それじゃあ、彼は――。
蘭の疑問を察したかのように、朔夜はこちらへ向かってはっきりと告げる。
「……――私は、灰老の国主一族でした」
篭城戦となってふた月。城を囲まれ、糧道を絶たれ、正門が落とされた。次第に追いこまれ、もはや後がないと城内のだれもが悟っている。
本丸に火の手があがった。あっという間に天井や柱が崩れ落ち、焦げた匂いと悲鳴。怒号が飛び交い、あまりの熱さに眩暈がしそうだった。
正門が落とされたならば、裏門が落ちるのも時間の問題だ。その前にせめて、ひとりだけでも。
そう告げた両親は、天守に残った。
皆、戦場に出ている。当年、十一歳、末子である朔夜を除いて。
灰老でもごく一部の者しか知らないこの地下道は、近くの森へと繋がっている。そこへ出られれば、包囲も抜けているはずだ。
「若君! 早くこちらへ!」
朔夜は幾人かの供に追いたてられるように、足を進める。
大人が通るには少し屈まなければならないが、十一歳の朔夜には問題ない高さだ。地下道の湿気を含んで重くなった衣が、汗と一緒になって肌に張りつくようで気持ち悪い。ごく稀に上から落ちてくる水滴が頬に当たる。夏とはいえ、地下の水は冷たく気持ちいい。
危うく滑りそうになるのをどうにか堪え、地下道を抜けて森へ出た瞬間。
一緒に逃げていた足軽兵の二人が、放たれた矢に倒れた。
守り役の五十路も近い男が、朔夜の手をひく。
「時期にここも追いつかれます! 今は逃げ延びることだけをお考えください!」
「でもっ……皆が、母上が……っっ!」
声が聞こえる。黒基の兵の、探せ、という怒号と鉄のぶつかる耳障りな音。家や城の木材が焦げる匂いが漂い、木々の間から漏れる陽射しが眩しい。
どくどくと早くなる鼓動に、焼け落ちる城の光景が頭から離れない。甲冑に身を包み、指揮をとる父の姿。その父のそばに寄り添い、最後の時まで共にあろうとする母の姿。そばを離れようとしない家臣たちの姿。
引き返そうとする朔夜を男は必死で押し留め、先を行こうと手首をつかむ。
「どうか、母君のお言葉をお忘れくださいますな! それを実行できるのは、若君のみ。ご両親を思い、我ら家臣の死を悼むならば、これをどうかお忘れなきように」
さすがに朔夜もぴくりと反応し、唇を噛む。そのまま引っ張られるように、住み慣れた城が落ちる光景を時折振り返りながら走った。
とにかく走った。城から少しでも遠くへ、聞こえる怒号から少しでも離れて。
母の言葉が脳裏に甦る。
『灰老の血を絶やさないで、そして叶うなら灰老を再興するのです。肝要なのはその名と血を絶やさぬこと。いつの日か、灰老という国が今もまだここにあるのだと、世に知らしめることです。あなたなら黒基に顔を知られていません。かの国からの使者とも会っていない。うまくすれば、逃げおおせることも可能なはず。よいですか、朔夜。この国がどのように変わろうと、灰老の名と受け継ぐ血に誇りを持って生きなさい』
そう言って、簪と小さな巾着を渡されたのだ。簪は母のお気に入りだったもの。鈴蘭を模した飾りがいくつもついたものだ。巾着にも同じ花が刺繍されている。鈴蘭は母が好きだった花だ。だから、この巾着も母が縫ったものだとすぐに分かる。
同時にそれを、この日のために用意していたのだと朔夜は悟った。
母の言うとおり、黒基の使者との面会に同席したことはない。あと半年ほどではあるが元服前でもあったし、もとより両親は黒基との縁談に反対していため、会わせようともしなかった。詳しい人相まで黒基には伝わっていなかっただろう。
とにかく、声が聞こえなくなるまで。矢が届かなくなるまで。追っ手が、来なくなるまで。
流れ矢にあたり、ひとりまたひとりと、地下道を抜けた森から同行してくれた兵も倒れた。
やがてどれだけ走ったのか、どこへ向かって走っているのか。それすら分からなくなったころ。
「――残った最後のひとりも、倒れました」
それからはもう覚えてもいない。どこをどう走ったのか、どこへ向かったのか。
風の噂で、国主一族は皆、自害したか斬首されたと後になって聞いた。その事実が信じられなくて、こっそり両親が葬られた墓へ行ったこともある。道行に場所を尋ね、遠目に見ただけだったが。
ここは雪葉が昔住んでいた邸。正確には邸がある場所に結界を張り、九尾が空間を曲げて作った異界だ。元の邸と似せているため、庭も建物も同じ。だが、漂う空気がまったく異質だ。重くまとわりつき、勘の鋭い者なら気分が悪く立ってさえいられないだろう。
ただその代わり、関係のない者は入ってこれないし音も外に漏れる心配もない。となれば、関係のない人間を巻きこむ心配はなく、騒音で近所迷惑にならないのは救いだ。おそらくここが結界のなかであると蘭は分からないだろう。
雪葉が顎に手をあて、思案するように視線を泳がせたが、すぐに昨夜を見据える。
「ですが、父上は灰老の血筋は途絶えたと……?」
「殿が私を灰老の者と知っていたか、今となっては分かりません。どのような御心で私をそばに置いてくださったのか、見当もつきません」
「でも、それが本当なら、どうして今まで一緒にいてくれたの?」
目に涙を溜めたまま、蘭は問いかけた。
彼女の問いはもっともだ。いつか、訊かれると思っていた。なんて答えようかと考えてはいたが、適当な言葉が見つからずにいた。
今はひと言しかない。これ以外思いつかない。
「あなたが好きだから。それでは答えになりませんか?」
「……そんな言葉聞きたくありませんわ!」
返事をしようと口を開きかけた蘭を遮り、眦をつりあげた雪葉だった。
「朔夜の出自など、今さら関係ありませんもの! わたくしは……!」
「雪葉さま、私はあなたの御心に応えることはできない。それは以前より申しあげていました。この感情を理解してもらおうなどとは思いません。ですが、嫁ぎ先での生活が辛いなら、何故仰ってくださらなかったのですか? 殿も蘭姫も、若君も、皆案じておりました」
「そんなもの、欲しくありません! 同情など、欲しくはない。どうして、わたくしではないのですか! 庶子の生まれだから長姉であれと、一国の姫であれと言った。皆、そんな目を向けた。でも、わたくしはこの国が好きだから……だから、この婚姻も、責任も負った。せめてひとつ欲しいと思ったものすら、手に入れようとしてはいけませんか!」
声を荒げた雪葉の頬から、涙がいくつも雫となった。肩が震え、拳からは血が地面へ落ちる。爪が掌に食いこんでいるのだろう。
「……もういいですわ。手に入らないのなら、いっそ壊してしまえばいい。だれのものにもならないように……っっ!」
「――聞いたぞ、その言葉。ならば積年の恨み、ここで晴らしてくれようぞ」
それまで黙って聞いていた九尾が不敵に笑った。赤い瞳が輝き、ゆらりと立ちあがと音もなく飛んだ。ついで、朔夜めがけて急降下する。
どうして気づけなかったのか。今思えば、いつも彼女の瞳は必死だった。なのにいつも、突っぱねてしまった。どうしてこんなに構うのかと。彼女が発した言葉ひとつ、戯れだと切り捨てた。
俺にはその心に応えることができないから。けどもう少し、ちゃんと話を聞いていれば違ったのかもしれない。
そう思うと、どうしても動けなかった。
避けようとしない朔夜に驚いた蘭は青ざめ、ぎゅっと目を閉じる。
「っ! ……朔夜っ! 避けて!」
「禁っ!」
その声は先ほどまで成り行きを見守っていた柊だ。蘭はそっと目を開ける。ほぼ同時に九尾が飛ばされ、邸の土塀に体当りしている様が視界に飛びこんできた。年月によって風化した塀は、数尺あまりが粉々に崩れ、かろうじて原型を保った箇所も大きくひび割れているようだ。
朔夜を背にかばうような形で、柊は九尾を見据えている。
「……柊、殿……っ!」
「……よかった……朔夜……」
蘭は心の底から安堵した。どのような形であれ、彼が無事であることが。
ぽつりと呟いたのがが聞こえたか、朔夜はこちらへ笑みを向け頷くと、柊へと視線を戻した。
「彼女の心に応えることもここで死ぬことも、君にとってはできない相談だろう? それに過去を振り返ったって仕方ない。それこそ、雪葉さまの言った同情だ。後悔があるなら、今は雪葉さまの心に巣くった狐を退治すべきじゃないかな」
振り返ることなく柊は言いきった。
その言葉にはっとした朔夜は、僅かに下を向いて深呼吸する。再び顔をあげた朔夜の瞳に、先ほどまでの動揺は消えていた。
ぽんっと柊の肩に手を置く。
「ええ、どうかしていました。柊殿の言うとおりですね。あなたはいつも私の前にいて、迷っていると行く先を示してくれる。……本当に、不思議な人だ」
「そんな風に言ってもらえるほど、できた人間じゃないけどね。ともあれ、分かってくれたなら雪葉さまのお相手、頼むよ」
「っ!……ですが、それでは……っ!」
柊の隣へ移動しようとして、朔夜は驚愕する。
蘭は初めて聞いた。朔夜が柊をそんな風に思っていたとは、思いもしなかった。けど少しだけどこかほっとしたのも本当だ。昔からあまりだれかを頼ることもなく、彼の身の上話なども聞いたことがない。自分では力になれることも少なく、役不足なのは分かっている。だからせめて他にだれかいないかと心配になったものだ。その相手が柊になろうとは、想像もしなかったけど。
「いくら私でも、と思うかい? なら少しでも早く説得でもなんでもして、蘭姫を解放してくれると助かるよ」
「……――承知しました」
柊の言葉に幾度か、雪葉と九尾を交互に見やり迷っていたようだが、すぐに雪葉と対峙した。
雪葉は曲がりなりにも陰陽術の心得がある。九尾を倒すのに、陰陽術で邪魔をされるのを避けたいんだろうと蘭は想像した。
九尾が赤い目を細め、柊を見やり唸る。
「貴様ひとりで相手ができると思うのか?……いや、それよりおまえは何故関係のない顔をしている? 知らぬふりもそう長くは続くまい」
「さて、なんのことかな?」
柊はいつもと変わらない調子で答えた。だが蘭には九尾の言い方が気になった。まだ何かあるのだろうか。――私の知らないことが。
朔夜も柊へ視線をやり瞠目するが、すぐに心当たりがあるのか、顔を背けて複雑な表情をする。
九尾は二人の様子に得心がいったのか、喉の奥で笑った。
「そうか……まぁいい。貴様にその記憶があろうがなかろうが、我にはどうでもいいことだ」
九尾が言い終わると同時に、風が吹いた。重くまとわりつく、異質な風。これが九尾の妖気だと蘭も悟った。
九つある尻尾のひとつが、片腕で顔を庇っている柊めがけ、矢のように飛んでくる。それを紙一重で後方へ飛び退きながら、何か呟いているようだ。
それが終わったかと思うと、ついで重い空気を押し広げるように澄んだ風が、柊を中心に広がる。
蘭には空気の変化しか分からないが、戦いが始まっている、それだけははっきりと分かった。
九尾のあの言い方、柊も灰老の出だということになる。それも朔夜と関係があると言外に含んでいるようで。
ならどうして、朔夜も柊もそばにいてくれたのか。十年も黒基にいたのか。灰老との戦が終わったのは、蘭が六歳のころ。さして覚えていることも少なく、灰老という国があったという実感も薄い。
それでも考えてしまう。二人にとっては仇のはずだ。そんな国の都にいて、辛くなかったのかと。朔夜はああ言ってくれたけれど。
数歩しか離れていない雪葉へ顔を向けると、朔夜と対峙している。凛と立つ彼女の姿は、覚えている姉の姿と変わらない。なのに今、近くにいるはずなのにこんな遠く感じる。
「柊殿が言ったとおり、わたくしを説得でもするおつもりですか? 朔夜」
「説得したら、お話を聞いてくださいますか?」
「今さら何の話があるというのです。あなたも、わたくしも。引き返す気など毛頭ありませんわ」
雪葉は帯に差していた懐剣を抜き構えたかと思うと、すぐさま踏みこんだ。
武術が本分の朔夜に、純粋な力勝負で雪葉が敵うはずがない。それを解らない姉ではない。なら、何か罠があると思って間違いない。
朔夜は雪葉の手首をつかみ、後ろへ回すように捻るとからりと懐剣を落とした。
「もうお止めください、雪葉さま。あなたに怪我をさせては、悲しむ方も多い」
「同情など、聞きたくないと言ったでしょう! あなたを殺して、わたくしも後を追います! あの子の手の届かないところへ!」
見えない刃が朔夜を襲ったかと思うと、墨染めの素襖に数十の筋を刻む。完全に破れはしなかったものの、細かな切り傷のように端々が破れた。朔夜自身も少し飛ばされ、僅かによろける。雪葉が再び懐剣を拾った。突きを繰り出すが、態勢を立て直した朔夜は、数歩後方に飛んだ。二の腕あたりの衣も破れて、少し肌が見えていた。
朔夜の顔をよく見れば、頬も切れて血が滲んでいるようだ。
耐えていたものが、再び込みあげる。
――二人を信じていないわけじゃない。でも、辛い。大好きな人たちが目の前で、苦しんでいる姿を見るなんて。
「姉上……っ! 止めてください。お願いです……! こんなこと……こんなこと……っっ!」
どうしてこうも、無力なのかと蘭の脳裏によぎる。
せめて彼の隣に立ちたい。同じものを見て、同じことを考えられるようになりたい。けど自分には、見鬼がない。霊力を持っていない。それがこんなに悲しくて、辛くて、苦しい。
蘭の言葉は火に油を注いだかのように、雪葉の癇に障ったらしくいっそう声音が鋭くなった。
「あなたに……あなたに、わたくしを止める権利などありませんわ!」
「ひっ……あ……っ!」
雪葉が言い終わると同時に突風が吹いた。かと思うと、喉の奥が凍りついたかのように動かなくなる。
声が、出ない。
そう自覚した瞬間、蘭の頬に一筋血が滲む。
「蘭っ! 雪葉さま、蘭姫に何をなさったのですか!」
「少し話せないようにしただけですわ。息はできますもの。あなたのそんな顔、初めて見ました。ふふっ……そうだ。いいこと思いつきましたわ」
雪葉は、蒼白で何かに追われるように焦った朔夜の表情見て、笑みを浮かべ愉悦する。蘭へ歩み寄ろうと雪葉を遮ろうと、朔夜が割ってはいった。がくりと両膝をつく。
「……蘭を、傷つけないでください。私は――俺はどうなってもいい。けれど、蘭だけは」
やめて。言ったじゃない、ずっとそばにいるって。だから、そんなこと言わないで。
言いたいのに、叫びたいのに声が出ない。
冷たい汗がこめかみから落ちる。指先から血の気が引いて、全身の体温が下がっているのか寒い。
彼の言葉が脳内で再生される。
『あなたが好きだから。それでは答えになりませんか?』
黒基は灰老を滅ぼした。当時六歳だった蘭が、理由もなにも知るわけがない。分かるわけもない。でも敵国に仕えることの辛さを、僅かでも想像できないわけじゃない。
朔夜は優しかった。温かかった。初めて会った頃は今よりもっと喋らなかった時期もあったけど。
それらがすべて嘘だとは思いたくない。――思わない。
雪葉は歯噛みし、朔夜を睨み返す。
「あの子には敬称をつけないのですね、朔夜。いいですわ、その言葉どおりにして差しあげます」
下を向いたまま、朔夜は返事をしない。
雪葉の懐剣がぴたりと彼の首筋に当てられる。
だめ、やめて。だれか、助けて。
ふいに柊のほうを見る。術の応酬の最中、柊が着ている墨染めの素襖も端々が破れかけていた。
一瞬目があって、笑った。
「禁縛っ!」
「我を相手に余所見する暇があるか! 小僧!」
雪葉がからんと懐剣を落とした。その隙に朔夜は、彼女の鳩尾を狙い拳を叩きこむ。気を失った雪葉は、前のめりに倒れ朔夜が支えた。
同時に柊は九尾の前足で大きく飛ばされた。蘭が縛られている木は別の、松の木にぶつかりずるずると崩れる。
雪葉を蘭のそば近くで寝かせながら、朔夜は早口にまじないをかけているようだった。もちろんそれが何のまじないか、蘭には見当もつかない。
一瞬、蘭を縛っている縄を解くか迷ったようでこちらを見たが、蘭は首を横に振る。
私は大丈夫。大丈夫だから、柊を。
その様子に朔夜は頷いて、柊へ駆け寄ろうとするが、九尾に行く手を阻まれる。
「柊殿っ!」
「――行かせぬ、相手してもらうぞ。かの術士の末裔よ」