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 気になることはある。朔夜の様子も、九尾の狐も、今もまだ帰っていない雪葉のことも。この状況でも何かできないかと考えるが、自分にできることは正直数少ない。

 朔夜の様子がおかしいのは、結界を張ってからのことだ。いや、その前も少し距離をとるようなところがあった。だがそれとは違い、明らかに顔色もよくない。まず間違いなく手首の痣のことを含めた、九尾の狐に関することだろう。それにどうしてか、彼がいなくなってしまうような気がした。別に関係などあるはずないし、彼がここを出て行くような理由を少なくとも蘭は知らない。なのに、いつになく彼の姿が遠く感じられた。だからあんなことを言ってしまった。

 時刻は昼過ぎ、まだ日も高く、障子を開ければ風が吹き抜ける。とはいったものの、蘭にも横になっているところを面前にさらす気はない。障子は開けているものの、几帳を立て周囲から見えないようにしている。

「病は気からとも申します。気休めにしかならないかもしれませんが、お気になさらないほうがよいと思います」

 冬はそばで衣を畳みながら、蘭へと視線を向けた。

 今は水樹に命じられ、彼女は蘭の看病のためずっと付きっきりだ。礼儀作法は当然ながら、侍女として必要な知識教養があり、とてもしっかりしている。少し何かしようとすると冬に止められている。蘭と同い年だが、冬が年上のようなやりとりを数日続いていた。

「でも、気になるじゃん……それにこんな時になんにもできないなんて、国主の娘失格だよ」

「なりません! 姫さま。若さまのみならず、朔夜殿や柊殿からも頼まれているのです。ここで私が折れてしまっては、お三方に合わす顔がございません!」

 冬は衣を畳んでいた手を休め、人差し指をびしっと立てきっぱりと言い放った。

 彼女の言い分に渋々頷くと蘭は寝返りを打ち、冬に背を向ける形になる。つきりと痛みが走り、眉をひそめるが声はあげなかった。

 せめて自分に少しでも霊力が、見鬼があったら。自分の身を守るくらいはできたら。生まれて初めてそう強く思う。この城下町の外へ出たことのない蘭には、命を狙われるなんて状況が九尾の一件以外にはない。戦国時代が終わりを告げた灰老との戦が十一年前。蘭が六歳の時だ。当時はたいして理解できるはずもなく、今となっては覚えていることも少ない。町も戦火に巻き込まれたことはなく、血の匂いが充満する戦場を蘭は知らないのだ。

 朔夜と柊は、妖や賊退治をしているだろうから、戦国と呼ばれた時代を知らずとも戦場の緊張感を知っているだろう

 そんな二人の隣には立てなくても、せめて心配かけないように、いざという時自分で身を守れるように。

 ぐるぐると考えている蘭の様子を、冬はどう解釈したか呆れたように息をつき続けた。

「今はご養生なさいませ。そのような顔をなさっていては、柊殿に嫌われてしまいますよ」

「なっ! だ、だれがあんなやつ……っつ……!」

 猛抗議をしようと、ばさりと勢いよく起き上がりかけたが、体がついてこなかった。頭の奥に突き刺すような痛みが走り、盛大な疲労感に襲われる。

 頭を抱えたような状態でそのまま横になると、冬が夜着を掛けなおしてくれた。

「ほら、その調子では何をするにも差し障りがございましょう。少しお休みください」

「だめよ、人が来ることになってるの。私からお願いしたんだから、断れないわ」

「まぁ、いつの間に……! どなたがお越しになるのでしょうか?」

 冬が片手を口元にあて尋ねた。それに答える前に足音が聞こえる。

 それに気づいて、蘭が上体を起こそうとするのを冬は手伝う。そっと小袖を蘭の肩にかけた。

 ここまでくれば相手がだれであれ、冬も追い返すことはできないだろう。

 足音の主は障子が閉められた蘭の部屋の前で止まり、片膝をついて声をかけてきた。

「姫さま、失礼いたします」

「華氷おじ上、お入りください。……冬、あとで呼ぶから下がってて」

 この一言に冬は障子を開ける華氷と蘭を交互に見やる。やがて仕方ないとばかりに嘆息した。

「承知しました。あまり長話はなさいませんように」

 それに蘭が頷いたのを見ると、冬は座布団を華氷に用意すると一礼して立ち上がり退室した。

 障子の向こうで、気配が遠のき足音も聞こえなくなる。

「私をお呼びと伺いましたが、どうなさいましたか?」

「訊きたいことがあります」

 適当な距離をとり、華氷は腰をおろす。

 淡色の素襖で髷を結ってある華氷は、羽令と歳が近い。父の側近だったため、蘭が生まれる前のことも時折話してくれる。小さなころには遊んでくれたり、贈り物をくれたりとよく気にかけてくれた。非公式の場ではおじ上、と呼んでいるのもそんな関係からだ。

 だからなのか、蘭は華氷に少しだけ父の面影を見ていた。華氷も蘭にたいして隔意があったこともなく、蘭の出生が疑われた時期もその態度に変化がなかった数少ない人物だ。

 いつだったか羽令が亡くなってから、隠居したがっていると柊がぼやいていたと朔夜から聞いた。てっきり意気消沈しているかと思っていたが、さほど気落ちしているようにも見えない。思っていたより心配なさそうだ。

 蘭は深く息を吸い、心を落ち着けると気になっているひとつを告げる。

「朔夜と柊はどうしていますか?」

「どう……とは?」

「最近顔色も悪いし、ちゃんと休んでいるのかと……。多分私が聞いても、大丈夫と返してくるだけでしょうから」

 蘭の問いに華氷は顎に片手を当て、幾度か髭を撫でるような仕草をした。

「私も姫さまと同じく、陰陽術のことは分かりませんが……」

「私はあの二人のように霊力があるわけでも、妖が見えるわけでもない。武術もたいして腕があるわけでもない。一国の姫たりえないことは充分分かっています。でも、ちゃんと同じものを見て、考えるくらいはしたいと思うんです」

 こみあげるものを抑えきれず、蘭の瞳が滲み、嗚咽をこらえようとぎゅっと両手を握りこんだ。ふいに背筋に突き刺さるような痛みが走り、倦怠感に襲われる。声こそあげなかったが、眉を寄せ体が前のめりになった。

 こんなことを言おうとは思っていなかった。もう少し冷静に話をしようと思っていたのに。父の、羽令の面影にまだこんなに心が揺れることに改めて気づかされた。

 華氷は蘭が羽織っている小袖をそばに置いて、両肩に手を添え横になるよう勧める。

「ご無理なさいますな。さ、横におなりください」

 横になると蘭は、乱れた呼吸を立て直そうと数度深呼吸をした。

「ごめんなさい、こんな風に話すつもりは……」

「いいえ、私で少しでも姫さまの御心が楽になるならいくらでも。ただ……そうですな」

 小袖を手早く畳み終えると、華氷は明後日のほうを見やる。ついで髭をニ、三度撫で、再び蘭へ視線を戻した。

「姫であろうとなかろうと、わが息子と朔夜殿にとって蘭姫さまの代わりになる者などいないと思いますぞ。それに長姫たる資質は、目に見えるものばかりがすべてではない。もう少し二人を頼ってみてはいかがですかな?」

 優しい声音だった。真綿に包まれるような、温かなものが心に響いた。

 華氷の言い分をちゃんと理解できたかというと、蘭には正直よく解らない。かといって反発する気も起きず、自然と入ってきたように思えた。多分、きっと他のだれに同じことを言われても、蘭は受け入れなかっただろう。華氷だから言えたし、蘭も聞き入れることができた。

 もっとちゃんと考えてみよう。

 そう結論を出し、蘭は頷いた。


 朔夜は廊下で顔を合わせた柊を呼びとめ、これまでの報告をしていた。

 近くのだれも使っていない部屋へ入り、同様に柊もこれまでの経緯を朔夜に話していた。話も長くなっていたので、腰をおろしている。もともと柊のほうが、僅かに背が高いため、座ってもその差は変わらない

 特に使われていないためか、掛け軸などもなく殺風景だ。いつ使われてもいいようにと、掃除は行き届いているようで、埃っぽくはない。

 相変わらずここの結界に、手を出してくる妖がいるものの、九尾に動きはない。いくつか新たな神隠しの報告もあり、現場へ向かったが当然痕跡は残っていなかった。

「いまだに手がかりなし、か。雪葉姫の線もあるだろうけど、あの方は陰陽術心得てるからねぇ。まさかって思いたいところなんだけどなぁ」

 人差し指で頬をかき、手がかりなしといったところで、たいして緊張感をもった口調でもない。柊の様子に普段と変わったところは見られなかった。

 朔夜とて今はどうあれ、雪葉姫だとは思いたくない。陰陽術を心得た、国主一族の姫君が妖の甘言に惑わされたなどあっていいはずがない。

 雪葉がまだこの城で過ごしていたころ。朔夜が覚えている彼女は、責任感があり、いつも国と家と民を案じていた。そのはずなのに、いつの間にそこまで変わってしまったのか分からない。

 ――それとももう少し、俺が話を聞いて、ちゃんと注意していたらこんな風にはならなかったのか。

 過ぎたことを悔やんでも仕方ない。今は他にすべきことがある。

 巾着のことは、いつ訊こうか。機会をつかめないままだが、尋ねたところでどうなるのかと思う自分がいる。

 柊は戦国が終わった十一年前の記憶がないと言っていた。朔夜自身も血縁者は全員殺されたと思っている。事実、その現場の一部始終を見ていた。それに真実を確かめる術はない。きっと余計に混乱するだけだ。

「雪葉姫の周辺を調べに人をやってるけど、残念ながら私の配下に陰陽術を使える者はいないし。他の術士は術士で、別の案件抱えてるみたいだし」

 術士の存在は一般に知られていないため、当然術士自体の数も少ない。人数が不足するほど妖関連の事案が起きているわけではないが、余裕があるわけでもない。となれば応援を頼むという選択は必然的に最終手段となる。

 彼の言い分を黙って聞いていると、ふいに柊が目を合わせてきた。右側から顔を覗かれるような体勢だ。

「何か別のこと考えてない?」

「……いいえ、そんなことは」

「ないっていうには、無理があるよね」

 柊は姿勢を戻し、ふぅっと息をつく。

 どうしてこうもこの人は、いつも数歩前にいるんだろう。顔や態度に出したつもりはないのに。

「いいよ。無理に訊こうなんて思ってないから。そんな趣味はないよ」

 蘭に対しては強引な部分が多いが、それ以外は要領よくこなす。以前柊本人も言っていたが、確かに何かにつけ、上手くこなす。特に朔夜の苦手な人間関係については正反対である。唯一、蘭との関係のみ、うまくいかないように見えるところを損と捉えるかは人によるのだろう。

 一番近くで見ている朔夜は、彼ならもう少し蘭とも上手くやれるだろう。いつかみたいにわざと、彼女の平手打ちに当たらなくても済むように。だから損な人だと思うのだ。

 朔夜は思考を切り替えようと、片手を顎に当てた。

 心にかかる場所があった。十年は使われていないはずの場所。だからだろうか、今まで思いもしなかった。

「……雪葉姫のもとのお邸はお調べになったんですか?」

「そうか、すっかり失念していたよ。あとで伝えておこう」

 朔夜の言葉にさすがの柊もこめかみを押さえた。

 彼女が嫁ぐ前に住んでいた場所だ。彼女の母親、幾人かの家人に雪葉のみで住んでいた。母親は雪葉の婚姻前に亡くなり、家人たちも彼女が嫁ぐと暇をもらい、今ではそれぞれの家や職についていると聞く。

 雪葉が嫁いでから、だれかが住んでいるという話はない。

 住んでいたのは十ニ歳までだ。一度目の婚姻は戦の混乱から夫が自害したという。朔夜が黒基へ来る前のことになるので、それ以上は聞いたことがない。二度目は今の夫、もう四年になるか。間でニ、三年、黒基で過ごした期間があるが城で生活していた。もとの邸には帰っていたとは記憶していない。

 思い過ごしならいいのだが。

「朔夜、ここにおったんか! めっちゃ探したやんけ。今、夜間の見回り当番のことで揉めとってなぁ」

 すぱんと障子が開き、日焼けした浅黒い肌の青年は独特の口調で、疲れたように嘆息した。

 西国独特の訛りだ。もともとは西国に住んでいたが、一家の都合で引っ越してきたんだとか。朔夜と同様、二の丸内の詰め所が主な職場で、柊と同じ二十五歳。朔夜とは正反対のような性格だが、職務上は朔夜のほうが上司にあたる。

「あなたのほうが仲裁役は上手いでしょう」

「そんなん言わんと、話聞いたってや」

「行っておいで。私たちの話は終わった」

 柊のひとことに朔夜がちらりと青年に視線をやると、しゃがんで両手を合わせ、こちらを見ている

 その様子に仕方ないとばかりに、朔夜は立ちあがった。

「では、柊殿。また何かあればご連絡いたします」

「すんません、柊さん。朔夜、ちょお借りていきますー」

「ああ、大騒ぎにならないといいね」

 障子のそばで会釈をして、その場を後にする二人に柊は片手を振って見送った。


 翌日、三人のもとに冬が大怪我をしたという知らせが飛びこんできた。


 彼女が出かけたのは、水樹が欲しがっていた書物を買うためだ。もともとは蘭が水樹への贈るつもりで注文したものだが、城へ届けられるのは明日以降となる予定だった。城へ届けられたのでは、水樹にばれてしまうかもしれない。水樹を驚かそうとしてのことなのだから、ばれてしまっては意味がない。

 かといって、具合のよくない主を出歩かせるなど、侍女としては論外であり到底容認できるものではない。

 結果、冬がその書物を書物問屋まで取りに行くことになったのだ。時間も午の刻は過ぎていたが、逢魔時にはまだ早かった。だから大丈夫だと思ったのに。

 事故ではない。妖に襲われたのだ。冬の話によれば、おそらく妖が作った結界、異空間とも呼べるそこへ気づかないうちに引きずりこまれたのだろう。露店の主人に呼ばれ勧められた品をどうにか断り、帰ろうとした時だったそうだ。人がいたはずの通りにだれもいなくなっていた。

 妖の姿は見えなかったという。黒い影のような、霧のようなそれが襲ってきた。書物に傷があってはいけないと、庇おうとして背を向け、右肩から腰の少し上あたりまで刀傷のように斬られていた。もちろん、それだけではなく細かな切り傷が無数についていたのを蘭も見ている。

 幸い命に別状はなく話もできる状態ではあるが、背に負った傷が深く、痕が残るかもしれないと医者に言われた。

 朔夜や柊も傷を診たが、呪詛の類はかかっていないと告げた。

「私が無理……言ったから?」

 上体を起こし、自身の右側にいる朔夜と柊に見あげる形で問いかけた。

 燭台の炎が揺れるに合わせて、三人の影も揺れる。

「そんな風に考えるものじゃないよ。悪い方向に考えると、余計な妖まで寄せつけてしまうからね」

「その状況でまさか襲われるなどとだれも予想できないでしょう。それに狙われているのは蘭姫であって、冬ではない。彼女は蘭姫同様、見鬼も霊力も持っていませんから」

「……でも、でもさ、私……冬にどう償えば……」

 今まで妖に関わってこなかった蘭でさえ分かる。この一件はあきらかに蘭を動揺させるためのものだ。

 彼女を巻きこんでしまった。妖とは縁のない彼女を。そして一生残るかもしれない傷をつけてしまった。冬と蘭は同い年、十七年しか生きていないのに、あと数十年消えない傷と生きていかなければならない。自分が冬の立場なら、辛くないはずがない。

 蘭は二人に視線を向けるが、涙で視界が滲み二人がぼんやりとしか映らない。膝を三角に折り、両腕を組んでそこに顔を埋めた。

「蘭姫、今あなたがすべきことは無理無茶無謀をしないことです。私たちが不甲斐ないばかりに招いた事態ですが、蘭姫が気を強く持っていなければ、事態の収束が遅れることさえ考えられます」

「朔夜の言うとおりだよ。彼女に詫びなければならないのは、私たちだ。だから変に背負い込むのはやめなさい」

 温かな手が頭に触れた。多分柊だ。彼が座っている場所が朔夜より近い。

 しばし重い空気が流れた。その間、ずっと温かな手は、頭を撫でてくれた。

 どうすればいいのか、どうすれば二人の足を引っ張らないで済むのか。二人の隣に立って同じものを見て、考えられるようになるのか。

 欲張りなのかと時々思う。でも辛いのだ。何もできない自分が。ただ見ているだけしか、できない自分が。そんな風に考えたこと、一度だってなかったのに。それだけ、今までいろんな人に守られてきたということだろうか。

 二人が忙しくしてるのが、私のせいだって思うとたまらない。まして怪我をするかもしれない、死んじゃうかもしれない仕事。だから余計に、見ているだけが辛い。

 それを口にすれば、きっと今までのように「大丈夫ですよ、そう簡単に死んだりしません」と言うのだ。いつだったかつい心配で、大丈夫かと尋ねた時のように。

 そして、「蘭が怪我を負うほうが心配です」と笑い返してくる。そうすると、もう何も言えなくなってしまう。優しい笑顔が温かくて、澄んだ声が名を呼んでくれる。それだけで他は何もいらないと思ってしまう。

 けど、だけどそれなら。

 頭を撫でる手が離れると、数呼吸置いて蘭はすっと顔をあげる。

「最近、いつもどっちか城内にいるよね。二人で調べに行ったら、少しは早くなるでしょ?」

 泣いている場合じゃない。気を強く持って、と言われたばかりだ。

 これには朔夜も柊も顔を見合わせた。

 柊は一本とられたとばかりに、口をへの字に曲げる。

「ばれてたのか。うーん、分からないようにしたつもりだったんだけどねぇ」

「ですが蘭姫、それでは万一の時に」

「大丈夫よ、結界もあるし勾玉の首飾りもちゃんと持ってる。その首飾りにも異常はないわ。別に毎日毎日二人で行けなんて言わないし。それはそれで、朔夜が苦労しそうだから」

 朔夜を遮り、蘭ははっきりと言いきった。

 ちらりと柊を見やると、片手で頭を掻いている。

「そんなに職務怠慢してる覚えはないけどなぁ」

「あんたになくても、私にはそう見えるのよ。とにかく、せめて冬が襲われたっていう現場だけでも確認してきてほしいの。朔夜を信じてないわけじゃないけど、二人ならまた別の何かに気づくかもしれないでしょ」

 もし何か手がかりが残っているなら、二人だって消されてしまう前に見ておきたいはずだ。

 それに二人でやれば、労力は半分で済む。

「私に何かあったとしても、朔夜と柊なら分かるのよね? なら異議は却下」

 二人が問いに頷いたのを見て、蘭はきっぱりはっきり返す。そしてこれ以上は聞かない、受けつけないとばかりに顔を背けた。

 これを見た二人は一様に嘆息したのが分かった。

「……分かりました。言ったところで聞かないでしょうから、さっさと行って帰ってくるほうが賢明でしょうね」

「仕方ないか。いいかい、蘭姫。結界は階が境だよ。絶対、返事をしてはいけないよ。何を見ても、何をされても、首飾りをぎゅっと握って部屋から出ないこと」

「ええ、分かったわ。いってらっしゃい」

 朔夜と柊は席を立つと、蘭に手を振りその場を後にした。


 二人は墨染めの素襖に着替えると暗視の術をかけ、城を出て冬が襲われたという場所へ向かっていた。城のそばには数人の家臣の邸があり、土塀に囲まれた邸の周囲から民家が広がっている。この辺りも昼間なら人の声や足音、生活音が聞こえるが今は静かなものだ。人気がないため時折吹く風の音と、土を踏む自身の足音が耳に入る。朝や夜は過ごしやすいが、やはり風は生温く湿気を帯びていた。

 夜出歩く時はできるだけ目立たない色の衣を選ぶ。妖と対峙するのだから、見鬼を持たない人間と鉢合わせると朔夜や柊は変な人としか映らないからだ。見知らぬ赤の他人といえばそうだが、そこから変な噂が立ったのでは術士の仕事に支障をきたす。

 冬が襲われた場所は、城への帰り道である大通り。ここからそう遠くない場所だ。

 柊の一、二歩後ろを歩いていた朔夜だが、ちらりと柊の顔が見えた。

「何がそんなに面白いのですか?」

「そんな風に見えるかい? そんなつもりはないんだけど」

 勘違いかもしれないが笑っているような、面白がっている風に見えた。

「面白いとは思ってないけど、君には勝てないなって思っただけだよ」

「どういう意味ですか?」

「蘭姫、気づかなかったよね。まぁ、位置は私のほうが近かったからそこから想像したんだろうけど」

「あれはあなたがやれと言ったんでしょう」

 蘭は膝に顔を埋めていたから知らないだろうが、横で柊が朔夜を小突いていた。それに押されてというわけでもないが、苦でもなかったので、朔夜は彼女のそばまで行き自然と頭を撫でていた。

 淡々とした朔夜の口調に、柊はあからさまに肩を落として嘆息する。

「本当に自覚があるんだかないんだか……肝心なのは、蘭姫が私だと勘違いしたからどう行動したか、だよ」

 よく分からない。どういうことだろうか。

 朔夜は僅かに首をかしげる。それを見た柊がさらに続けた。

「蘭姫は私だと思ったから、顔をあげなかった。……似た者同士というが蘭姫と君は、自分の感情を自覚しながらもいつもあと一歩が抜けてるよねぇ」

「そういう、ものですか?」

「そういうものだよ。朔夜だと思っていたら、彼女は顔をあげて君の顔を見ただろう。その行動の差が意味するものはあきらかだ。もっとも蘭姫もそのへん無意識のようだけど」

「……ならどうして柊殿から縁談を断らないのですか?」

 口をついて出てきた問いに、言ったそばから朔夜はしまったと思った。

 訊いていいことではない気がした。

「それを訊くかい。そのくらいは秘密にさせてもらうよ。許婚の特権でね」

 やはり柊は自嘲的な笑みを浮かべ、こちらへ向くと人差し指をたて口元へあてた。

 ふいに首筋に冷たいものを感じる。辺りを見回せば、冬が襲われたという現場に近い。神隠しが広がるなか、夜出かける者はいない。戸口はしっかり閉じられ、茶店などの暖簾や旗もすべて家のなかへ片づけられている。

 いる。確かに感じる。九尾の気配ではない。だが、確かにこちらを見ている。

 朔夜と同様、柊も感じたのか立ち止まり、周囲を探っているようだ。

 ふわりと風が吹き、衣の裾と髪がなびく。

「――柊殿」

 何か、いる。

 そう言おうとした時だ。不自然に風が止んだと思うと、空気が一変した。ただでさえ鬱陶しい風が、重くまとわりつくような空気に変わった。

「これはやつらの結界のなか……かな? といっても、本拠地じゃあないだろうけど。朔夜、あんまり無理しちゃいけないよ」

 柊はぽつりと呟いた。

 もとの町の様子に似せてはいるが、本質的に違う。風も、空気も、町の匂いも。

 二人は本能としか言えない場所で、警鐘がなり反射的にその場を飛びのく。ほぼ同時に黒い影が、槍のようになって地面へ突き刺さった。

 この影を、いや、黒い霧を倒せばこの結果は崩れるはずだ。正確には黒い霧のなかにいる何か。

 同様に柊もそう思ったらしく、白い光で五芒星を空に描く。霊力で描いた五つの角をもつ星。

「縛っ!」

 柊の声とともに、五芒星は妖に巻きついた。

 じわりと隙間から霧が逃げていく。

 だがその前に。

「ナウマクサンマンダバサラダンカン」

 朔夜は抜刀し、人差し指と中指をたて真言を唱えながら刀身をなぞる。

 ついで駆けだし、黒い霧を両断した。同時に爆風が起き、二人はさらに後方へと飛ばされた。

 結界が薄氷を割るようにばらばらと崩れる。

 両腕で顔をかばい受身をとった二人は、十数呼吸置いて起きあがった。

「いたたっ……ちょっと失敗したかな」

 完全な受身をとりきれなかったのか、柊は伸びをしてどこも痛めていないか確かめていた。身は軽いしそう簡単に負ける腕でもないが、彼は頭を使うほうが多い。僅かなところに差異が出るのは仕方ない。

 たいして朔夜は特に息があがったようでもなく、納刀すると衣についた土を払い落とした。そして己の掌をじっと見つめた。

 結界は崩れた。確かに霧のなかにいたそれを倒した。その手応えも感じたのに。

 なのにまだ、心の奥の警鐘が鳴りやまない。

 朔夜はふいに周囲をニ、三度見回した。

「朔夜?」

「あっけないと思いませんか? 私たちを相手にしようとするには、あまりにもあっけない」

 朔夜の様子を訝りながら、柊は歩み寄る。彼の問いに答えはしたものの目も合わせず、朔夜はこの不安の原因を突きとめようと目を閉じた。

 それを察したか、柊も言い返しては来ない。

 雑念を削ぎ落とし、心のなかで真言を唱える。周囲の風の音さえ、耳に入らなくなり不穏な気を探す感覚だけが研ぎ澄まされた。

 聞こえる、小さな者たちの声が。人の安らかな寝息と、温かな団欒。時折、神隠しを恐がる子どもの声が。

 その隙間にほんの一瞬だけ見えた。

 どくん、と鼓動が跳ねる。

「……――蘭っ! 行くなっっ!」

 だれかに手をひかれ、部屋を出ようとしているが、蘭は首を横にふっていた。

 言い終えるよりも早く、朔夜は駆けだしていた。


 時刻は朔夜と柊が出かけて四半刻ほど経ったころまで遡る。

 蘭は先ほどまで、おとなしく横になっていた。今は唐紅の小袖を羽織り、上体を起こしている。

 来客の予定もないし、首飾りをそばに置いて帰ってくるまで寝ていればいい。そう思っていたが、思わぬ訪問者にどうしたものかと脳裏で考えていた。

「調子はどうかしら? 蘭」

「……小康状態ってところです、姉上」

 花色の小袖を着た雪葉だ。何をどうしたのか、別人かと疑うほど優しい。かといって、あきらかに様子がおかしいという風にも見られない。朔夜や柊がいれば気づくことがあるかもしれないが外出中。それも蘭が頼んで行ってもらったのだ。こればかりはどうしようもない。

 まだ雪葉も嫁ぐ前。邸こそ別だったが時折、顔を合わせていたころ。あのときはもう少し違った関係だったと思うのに、覚えているほうが少なく、今ではそんな時期があったかどうかも朧だ。

 羽令の葬儀も済んで、残っているのは雪葉だけだとは聞いていた。何をしているのかとは思っていたが、余計な関わりを持って揉めるのもどうかと思い、蘭も特に気にしてこなかった。

「そう、よかった。私が来たことで無理させてなければいいのだけど」

「いいえ、お見舞いありがとうございます」

 大丈夫、怖がることなんてない。

 たとえ仲が悪くとも、姉には変わりない。不用意に断れば妙な噂がたつこともある。この国に仕える者、皆が忠義ある臣とは限らないということだ。

 一番は適当なところで、相応の理由をつけて雪葉に帰ってもらうこと。それに尽きるが、蘭はその機会をつかみ損ねていた。言い返そうとすれば、雪葉は遮るように次の話をしてくるのだ。こういう時には、たいてい朔夜や柊、時には冬が止めてくれるのだが生憎三人ともいない。

「そうだわ、少し庭へでましょう。部屋の中にばかりいても、気が滅入ってしまいますから」

「で、ですが……姉上。朔夜や柊からも帰るまで部屋を出るなと言われておりますし……」

 この提案にはさすがに蘭もぎょっとした。

「大丈夫ですわ、庭も結界の範囲内ですから」

 いつになく微笑みを浮かべて、雪葉は蘭の手をひいた。

 あの二人はそんな風には言っていなかったと思うのに。確か、階が境だと言われた。

「え、でも二人はそんな風には――」

「あら、私の言うことが信じられなくて? 多分、あなたが無茶をしないようにと狭く言ったのでしょう。池までは行けないけど、建物伝いに散歩するくらいは大丈夫ですわ」

 これにはぐうの音も出なかった。蘭にはどちらが真実か判別する術はない。見鬼も霊力もないのだから、分かるはずもない。雪葉の想像もあながち外れていないような気がする。おそらく柊が言いだして、朔夜を押しきった。そこまで想像できてしまうから、なおさら言い返すことができなかった。

「じっとしていては、気が塞がってしまいますもの。たまには外の空気も吸わないと」

 蘭はなかば引っ張られるようにして夜着から出る。雪葉がそばに置いてあった小袖を蘭の肩にかけた。

 いいのかな。でも、結界のなかなら大丈夫……よね。

 雪葉のことも根は嫌いじゃない。最近は話題に出てこないが、水樹によくしてくれた。琴が上手く、彼女の目につかない少し離れたところで聴いたこともある。だから本当は優しい人だと思う。

 それを知っているから、何度か歩み寄ろうとしたこともあるが、いつもうまくいかなかった。

 何か誤解があると思っている。それがなんなのか、今も分からないけど。

 結局、雪葉に手を引かれるまま、階を下りいつも用意してあるニ、三用意してある草履を履いた。

「ほら、こっち」

「いたっ、姉上。あまり引っ張らないでください」

 雪葉の手をひく力が一段と強くなった。ふいにぞくりと冷たいものが背筋を走る。

 行っちゃいけない、これ以上離れちゃいけない。

「姉上、やはり戻っ……っっ!」

 戻ったほうがいい、そう言おうとしたがさらに雪葉の力が強くなる。

 あまりの強さに眉をよせ、手を引き寄せようとしたが逆に引っ張られる。

「こっちよ、こっち」

「姉上、待っ――……」

「……蘭! 出るなっっ!」

 朔夜の叫び声が聞こえるより早く、雪葉が蘭の背を押した。

 蘭には薄氷を割るような音が聞こえた気がした。


「もう、帰ってきましたのね」

 全速力で走りぬけた朔夜と柊はさすがに息があがっていた。

 ずっと姿を隠していた、九尾の尾が蘭を縛り空中で横になるような体勢で蘭は二人を見る。頬を流れた雫がぽたりと九尾の体に落ちた。

「ご、ごめんな、さい……二人、とも」

 それに一度視線を向け頷くと、九尾のそばにいる雪葉へと顔を向けた。

「雪葉さま……あなたともあろう方が、何故……?」

「それはあなたが一番お分かりでしょう? 今になって何を言うのですか。朔夜、あなたこそ何故こんな子をかばうのです? どうしてそうもあなたは……」

 私の心を解ってくださらないのですか。

 朔夜の問いにそう言いかけて、雪葉は口を噤んだ。そんな言葉、今ごろなんになる。見鬼があって、陰陽術が使えて、妖の危険を知りながら懇願したのは他ならぬ自分だ。

 朔夜は雪葉を真っ直ぐ見据えた。

「他人には意味も価値もないことかもしれない。だれかにそれを理解してもらおうとは思いません。ただ私にとっては、価値のある場所なのです。それだっ……かっ、けほっ……!」

「朔夜! ああ……だから、無理しちゃいけないと言ったのに」

 吐血した。がくりと膝をつき、片手で口を覆うが間に合わず地面に紅い点がいくつも残る。

 朔夜は肩で息をし、顔を見ると蒼白で決して調子がいいわけじゃない。

 柊が駆け寄り彼の背をさすった。

「あら……どおりでおかしいと思ったのですわ。何故、この子が起きていられるのかと思っておりましたけど」

「っっ! 朔夜! 朔夜!」

「ええい、うるさい。少し黙ってなさい」

 朔夜の様子に驚愕した蘭が幾度も名を呼ぶ。それを耳障りとばかりにぴしゃりと撥ねつけ、雪葉が片手をあげた。蘭を捕まえている九尾の尾がきつく締めつける。

「……っっ!」

「呪詛を肩代わりしてますのね。直接九尾と対面したことで、苦しみも増したでしょう。ふふっ……そういう顔も私、好きですわ」

「さすがにそれはちょっと悪趣味じゃないかな、雪葉姫」

 蘭の様子を目で確かめながら、柊は剣呑さを帯びた声音で返した。

 柊の言葉を消し去るように、雪葉は声を荒げ凍土のように冷たい視線を投げてくる。

「あなたには関係のないことですわ!」

 今まで黙って見ていた九尾が雪葉へ顔を向けた。

「――女、今は娘を連れて退く」

「何を言うのですか!」

「おまえが望む男が苦痛に歪むさまを見せてやろう。そのために、今は退け」

 さすがに雪葉も驚いたらしく、目を見張った。

 だが九尾の言葉に雪葉は何度か、朔夜と蘭を交互に見やり頷く。

「仕方ありませんわ。ではあなたたち、私の邸までおいでなさいな。それまであの子は、傷つけずにいてあげますわ。私も見てみたいですから」

 九尾が黒い霧を吐きだす。すると霧は九尾と雪葉を包むように取り囲む。

「……まっ……!」

 雪葉を止めようとしたが、朔夜は言い終えることなく膝をついたまま前のめりに倒れた。それでも追いかけようとする朔夜を、柊が引き止める。

「朔夜! 今は無理だ。態勢を立て直してからでないと」

 黒い球体となった霧は、蘭、九尾、雪葉の姿を完全に隠し、浮かび上がると東の方角へと消えていく。

 雪葉の笑い声だが、あたりに響いていた。

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