第七章 対峙
放課後の中庭は、西日に長く影を伸ばし、ほとんど人影はなかった。
ベンチに腰掛けた加納凪咲が、楽しそうに足を揺らしている。
その隣には、腕を組んだまま、微動だにせず立つ白石つかさの姿があった。
まるで一枚の絵画のように完成された二人の空間に、結城蒼太は意を決して足を踏み入れた。
蒼太が姿を現すと、凪咲は待ってましたとばかりに、ひらひらと手を振った。
「やっほー、蒼太。待ってたよ」
彼は凪咲の軽い挨拶を無視し、二人の前まで歩み寄ると、震える声を抑えつけながら切り出した。
「単刀直入に聞く。加納真理子博士と、お前はどういう関係だ。Nagiが自己消滅した本当の理由も、全部知ってるんだろ」
凪咲は、蒼太の切羽詰まった表情を面白そうに眺め、くすくすと笑う。
「ふーん。で、それを知って、蒼太はどうしたいの?」
その問いは、蒼太の胸に深く突き刺さった。
どうしたい?
ただ、真実を暴きたかった。
自分の論理で、この不可解な女を解体したかった。
だが、その先は?
凪咲の瞳は、蒼太の思考のすべてを見透かしているようだった。
「加納真理子は私の母親」
凪咲の言葉は、夕暮れの静寂にあまりにもあっさりと溶け込んだ。
「なに?」
蒼太の声は掠れていた。
一瞬、彼は頭の中が真っ白い霧で満たされていくのを感じた。
思考が追いつかない。
かろうじて脳内のデータベースから関連情報を引きずり出す。
「ネット人名辞典によると、未婚だったはずだが」
「そうだよ」
凪咲は、こともなげに頷いた。
「私は5年前のあの事件の3か月後に生まれたの」
その瞬間、蒼太の全身に張り詰めていた理性の糸が、甲高い音を立てて断ち切れた。
「ふざけるのもいい加減にしろ!」
怒声が、中庭の沈んだ空気にこだまする。
彼は一歩前に踏み出した。
指先が、怒りで小刻みに震えている。
「今お前が16か17で、5年前に生まれたなんて理屈が通るわけがないだろう。本当のことを話せ」
畳みかける言葉は、凪咲に向けられているようで、その実、このでたらめを信じると思われた自分自身、こうも易々と、こんなギャルからの侮辱を許している自分自身へと向けられているようだった。
だが、凪咲は揺らがない。
その瞳は凪いだ湖面のように静かで、蒼太の激情をただ映し込んでいるだけだった。
その表情には、軽蔑も、嘲笑もない。
「じゃあさ、蒼太」
凪咲が、ゆっくりと口を開く。
「聞くけどさ、そもそも時間の流れって、どこでも同じだと思う?」
「何を……」
蒼太は、反射的に反論の言葉を探した。
喉の奥まで出かかった「当たり前だ」という凡庸な一言を、すんでのところで飲み込む。
違う。
当たり前ではない。
その程度のことは、俺だって知っている。
特殊相対性理論、一般相対性理論。
高速で動く物体や、強い重力の底にある時計は遅れる。
GPS衛星は、そのズレを補正し続けなければ機能しない。
現代人の「常識」だ。
知っている。
もちろん、知っているとも。
だが、その知識は、ディベートで相手を打ち負かすための武器でしかなかった。
時間の歪みという概念を、彼は文字の上でしか旅したことがなかったのだ。
――待て。
蒼太は、そこで引っかかった。
遅れる、のだとしたら、この女は逆だ。
5年で16歳の肉体を持つというなら、彼女の時間は遅れたのではない。
速く進んだことになる。
「……遅れるなら、お前は若くなるはずだ。逆だろう」
「そう、逆」
凪咲は、嬉しそうに指を一本立てた。
「遅くなる場所があるなら、速くなる場所もあるでしょ? GPS衛星の時計って、地上より速く進むんだよね」
知っている。
速度で遅れる分より、重力が弱いぶんで進む分のほうが大きい。
差し引きで、衛星の時計は1日に約38マイクロ秒、地上より先へ進む。
だが。
「それは、1日に38マイクロ秒の話だ。お前の話は、桁が違う」
声が、かすれた。
「5年で16年分だぞ、それを可能にするなら……。いったい、どれだけの環境が必要になるんだ? ありえないだろ!」
「うん、桁が違うね。それは確かに」
凪咲は、当然と言わんばかりに頷いた。
この女の、この態度は一体何なんだ。
一体何を言いたいんだ。
必死になって覚えた「38マイクロ秒」という数値を、いくらこねくり回そうと、この軽薄な訳知り顔に、傷ひとつつけられないように思えた。
言葉を継ごうにも、喉の奥で形をなさず、消えていく。
まるで、思考そのものが重力で引き伸ばされているかのようだった。
それでも、蒼太は震えだしそうな声を必死に押し殺し、最後の砦にすがりついた。
「戸籍は! 戸籍はどうなっているんだ」
その時だった。
それまで、彫像のように沈黙を貫いていた白石つかさが、静かに口を開いた。
「あなたね」
声は、氷のように冷徹だった。
凪咲のそれとは質の違う、純粋な論理だけを宿した響きが、蒼太の耳朶を打つ。
「さっきから、反発するばかりで、何も見ようとしていない。目の前にある観測不能な事象を、自分の物差しで測れないから『ありえない』と切り捨てる。それは科学的な態度じゃない。ただの思考停止よ」
つかさの視線は、蒼太の目を真っ直ぐに射抜いていた。
その瞳には、憐憫の色など微塵もない。
あるのは、不純物を許さない絶対零度の軽蔑だった。
蒼太は、ただ沈黙するしかなかった。
その沈黙を、つかさは正確に読み取った。
彼女は、最後通牒のように、静かに冷たく、しかしはっきりと告げた。
「本当に知りたいのなら、まず、あなたが無知であることを知りなさい」
夕闇が、校舎の輪郭を溶かしていた。
「凪咲の問いは、彼女が5年前に生まれたことの真相とは何の関係もない、ただのジャブに過ぎないのよ。それがわからないの?」
つかさは俯く蒼太を見据えて続ける。
「その程度のことに食いついて、そんなに取り乱して、一体何を知ろうというの?」
「……俺は認めない」
蒼太は、かろうじてそれだけを絞り出した。
声は自分のものではないように、か細く震えている。
「この俺が……こんなオカルトを……認めるわけには、いかない……」
その必死の抵抗を、凪咲は壊れた玩具を見るような目で見つめていたが、突然、何かを思いついたように手をぽんと叩いた。
その乾いた音は、夕闇に支配された中庭には不釣り合いなほど明るかった。
「蒼太! 部活つくろうよ、部活」
「……は?」
蒼太の口から、間抜けな音が漏れた。
凪咲は、彼の混乱など意にも介さず、楽しそうに続ける。
「蒼太が部長なら、先生たちもいい部室、すぐに用意してくれるでしょ? なんたって、この学校で一番の優等生なんだから」
皮肉とも本気ともつかない言葉が、蒼太のプライドを無邪気に撫でる。
だが、今は、もうその刺激に反応する力さえ残っていなかった。
部活? 部長?
あまりに日常的な、あまりに陳腐な単語が、崩壊した彼の世界では意味を結ばない。
凪咲は、蒼太と、隣で静観するつかさを交互に見ながら、指を折って数える。
「蒼太と私とつかさ、三人でさ。うん、ちょうどいい。そうだ、名前は『アセンション研究会』」
アセンション研究会。
その響きは、蒼太が最も軽蔑してきた、安っぽいニューエイジ思想やカルトの匂いを放っていた。
怒る気力さえ湧いてこない。
ただ、目の前の少女の思考の飛躍に、眩暈がした。
「……ふざけているのか」
蒼太がようやく絞り出した声に、それまで沈黙していたつかさが、静かに、しかし決定的な一言を放った。
「合理的ね」
蒼太は、信じられないという顔でつかさを見た。
彼女は凪咲ではなく、蒼太に向かって淡々と説明する。
「まあ、部名はさておき、私たちには、外部の干渉を受けずに集まれる物理的な拠点が必要なの。学校の部活動という体裁は、そのための最適な隠れ蓑になる。あなたの『校内一の優等生』という看板は、その設立を円滑に進めるための有効なカードだわ」
「えー、名前、だめ? いぃじゃーん。さ、どうする、部長?」
凪咲が笑いかける。
その問いは、蒼太にとって究極の選択だった。
このまま全てを「オカルト」と拒絶し、狂気に沈むか。
それとも、己の知性とプライドをズタズタにした少女たちが差し出す、この屈辱的で、しかし抗いがたいほど魅力的な「研究会」という名の舟に乗るか。
夕暮れ最後の光が、完全に消え去ろうとしていた。




