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第八章 邂逅

 特急あずさ、新宿行き。

 五木深月は、八ヶ岳の麓にある小淵沢の駅から、一人それに乗り込んだ。


 梓は、改札口で最後まで彼の服装に文句を言っていた。


「お願いだから、靴だけは履いていって! 千葉だよ? 東京の隣だよ? みんなに変な目で見られるから!」


 梓が半ば無理やり彼の足に履かせたのは、彼女の父親の古いスニーカーだった。

 ぶかぶかで、歩きにくい。

 だが、深月は、心配そうな幼馴染の顔を見て、黙ってそれを受け入れた。


 梓は、白石つかさと名乗る少女とのやり取りで、待ち合わせ場所を千葉公園に設定し、スマートフォンにその地図情報を設定してくれた。

 もちろん、深月はスマートフォンなど持っていない。

 梓は自分のそれを、充電器と一緒に小さなポーチに入れて、深月のリュックサックに押し込んだ。


「絶対、絶対に変なことしないでよ! もし危ない人たちだったら、すぐに逃げて、私に電話するんだからね!」


「うん。ありがとう、梓」

 深月は、ただ静かに頷いた。


 車窓から見える景色が、八ヶ岳の雄大な自然から、徐々に人間の作った構造物へと変わっていく。

 深月は、その変化をただ静かに眺めていた。

 新宿で総武線に乗り換えると、車内の空気の密度がぐっと上がる。



 千葉駅に降り立った瞬間、深月はホームの隅に移動し、まず最初にスニーカーと靴下を脱いだ。

 ひんやりとしたコンクリートの感触が、足の裏に心地よかった。

 梓には悪いが、こればかりは譲れない。

 裸足のまま改札を抜け、人々の好奇の視線を感じながらも、彼は気に留めなかった。


 足の裏から伝わってくる、アスファルトのざらついた感触。

 乾いた土とは違う、無機質で硬い振動。

 無数の人々の足音が作る複雑なリズム。


 粘菌や苔の声は聞こえない。

 だが、ここにも流れはあった。

 人間社会が作り出した、巨大で、複雑な流れ。



 千葉公園に着くと、深月は大賀ハスの池の前のデッキで立ち止まった。

 池の向こうの軌道桁(きどうけた)を滑るように通り過ぎていくモノレールの金属音が、遠い世界の響きのように聞こえた。

 池には、ところどころ開ききっていない小さな浮き葉が見えるものの、大方は静かな水面を広げているだけだった。


「五木深月さん?」

 深月の背後から声がした。


 振り向くと、そこに立っていたのは、動画で見た金髪の少女と、黒髪の少女だった。


 黒髪の少女が先に口を開いた。


「梓(あずさ)さんのアカウントに連絡した白石つかさです。こちらが、加納凪咲」

 その声は、無駄な響きを一切含まない、純粋な情報伝達の音だった。


 深月は、静かに一度だけ頷く。

「五木深月です」


 凪咲は、ただ黙って彼を見据えている。


 動画で感じた印象とはどこかが違う。

 目に見える躍動感は感じなかった。

 ただ、微動だにしない立ち姿だけで、その身体のしなやかさが強烈に感じられた。


 深月は凪咲の視線に若干の居心地の悪さを感じ、口を開いた。

「ここのハスは2000年前の地層から出土した種から発芽したんだってね」

 デッキに建てられた説明書きを指さして続ける。

「その苗から花を咲かせたから、2000年の眠りから覚めた古代ハスって言われているらしいよ」


「2000年も前から種のまま、その時を待っていたのね」

 つかさが池へ目線を移し、ゆっくり頷きながら言った。


「人間からしたら、その長い年月を、どんな想いで待っていたのだろうと、考えずにはいられないよね」

 深月が言った。


「どんな想いだったと思う?」

 凪咲が初めて口を開いた。


「2000年が『膨大な時間』と感じるのは、あくまでも僕たちの価値観だね。種は何も感じなかったのかもしれないね」

 深月は穏やかに言った。


「種には花を咲かせたいっていう意志は無かった?」

 凪咲は聞いた。


「無かったかもしれないね。少なくとも地層に埋もれていた時は。でも、咲く力はずっとそこにあった。諦めたというわけでもなく、その時が来たから、ただ咲いたのかも」

 深月は言った。


「そっか」

 凪咲は短く応答し、彼の足元を見て、にこやかに言った。

「ところで深月、どこで靴を脱いだの? 梓ちゃんは、八ヶ岳を発つときに履かせるって言ってたけど」


「千葉駅に着いてすぐに」

 深月は少し首を傾げて言った。

「落ち着かなくて」


「でも、梓さんは、深月さんを見分ける特徴を『裸足:どうせ脱ぐから(汗』って書いてた」

 つかさは、そう言って小さく笑った。

 凪咲も笑った。


「わかってるのなら、最初から履かせないでよって思うよね」

 深月は苦笑をこぼした。


「やっぱり違う?」

 凪咲が聞いた。


「うん。全然」


「足の裏からどんなものを感じるのかしら」

 つかさが深月の足元を見て聞いた。


「具体的に何がどう、ということはないんだけど、自分が世界の一部、というか、この世界そのものだってことを実感できるんだ」

 深月は、つかさを見据えて言った。


「世界そのもの?」


「うん。僕と、僕の中のたくさんの生命と、地表と地中のたくさんの生命。そういうものを、ひとつの総体として感じることができるんだ」

 深月は一つ一つ、ゆっくり繋げた。


「……それは、足の裏で起こる、電気的な……それとも化学的な反応の話かしら」


「いや、僕はそう言うのはわからないよ。足の裏で何が起きているのかはわからない」

 深月は数回小さく首を横に振って続けた。

「でも、この世界がたくさんの生命と、たくさんの物の共鳴でできているってことはわかるんだ」


 つかさが沈黙したのを確認し、凪咲がはっきりと言った。

「深月、力を貸してほしい」


「力……?」


「うん。でも、何か特別なことをしてほしいってわけじゃないんだ」

 凪咲は、池の水面へと視線を移した。

「ただ、今まで通りでいてくれればいい」


 深月は、その言葉の意図を測りかねて黙り込んだ。

 思わず自分の裸足の足元を見る。

「どういうこと?」

 深月は静かに尋ねた。


 凪咲が答える。

「これから、大地の菌類や微小生物のネットワークに異変が起こるかもしれない。もし、何か気づいたことがあったら知らせてほしいんだ」


「異変?」


「うん、まだ何が起こるのかはわからないんだけど、深月なら小さな変化にも気付けると思うんだ」

 凪咲の視線は水面から深月の足元へ、そして彼の瞳へと移った。


「……わかった。僕にできることなら」

 深月は少しの沈黙の後、数回小さく頷いて言った。


 凪咲は、その答えに満足そうに微笑むと、すっと右手を差し出した。

 深月は少し戸惑いながらも、その白く細い指先に、自分の手を重ねた。


 触れた瞬間、決して小さくない異物感を感じた。

 それは、彼が普段、足裏で感じている世界の総体とは、明らかに異質な「個」だった。

 公園の木々、草花が一斉に風になびくのを止め、水面も乱反射を止めたように感じた。

 だが、実際には止まってはいない。

 足裏の情報の流れは遅くなり、速くなりもしている。


 手を解くと、世界はいつも通り動き出した。


 凪咲は何も言わず、ただにっこりと笑っている。

お読みいただきありがとうございます!

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