第二章 黎明
朝8時。
校舎を包む空気は、ついこの間までの冷たさから解放され、どこか緩んだ、生ぬるい匂いを運んでいた。
窓ガラスには、日差しが強さを増し始めた春の光が、埃っぽくも眩しい黄金色となって差し込んでいる。
千葉市内にある、県立高校の2年3組。
制服のスカートをギリギリまで捲り上げた加納凪咲は、椅子に浅く腰掛け、スクールバッグから取り出したスマートフォンをゆっくりと持ち上げた。
鏡代わりに起動したインカメラには、古びた教室の壁と、彼女の人差し指と中指が、金色の前髪の形を変えていくのを、そのまま映し出している。
「マジありえねーから……」
星名理沙は、下まつげにマスカラを滑らせた瞬間、右頬にできた黒いシミを見て、低い声で呻いた。
隣で静かにティーン誌を見ていた望月陽菜が、その顔を見て無言でポーチを取り出す。
陽菜は、派手な理沙の頬にそっとシートを当て、「強く擦っちゃだめだよ」とだけ囁いた。
理沙は、その平凡な親友の繊細な手つきに、何も言えず身を任せた。
シミが消えると、陽菜はすぐに目線を雑誌に戻し、何事もなかったかのようにページをめくり始めた。
凪咲は、理沙と陽菜に静かに視線を移し、誰も気づくことのないほどのわずかな笑みを目元に浮かべながら、再び手元の自撮り画面に視線を戻した。
「アメリカにしても中国にしてもだなぁ……そもそもなんでNagiの自己破壊と時を同じくして、それが世界中のAGIの機能停止に繋がったのか、考えたことあるか?」
少し離れた教室の窓際で、結城蒼太が熱心に声を張り上げている。
蒼太の熱意は、周囲の生徒たちには、ほとんど届いていなかった。
彼の視線の先にいた男子生徒は、机の上でスマートフォンをいじるだけ。
教室の空気は、彼の情熱に無関心を貫いている。
理沙が小さく吐き捨てるように言った。
「この学校でそんな話しても無理っしょ」
陽菜が頷く。
「だね」
蒼太の纏う空気は、周囲の生徒たちの弛緩したそれとは明らかに異質で、まるで水と油のように混じり合わない。
地元公立中学校では常に成績トップ。
目指したのは、全国でも指折りの名を持つ千葉県内の私立進学校と県内トップの座を誇る県立高校の雄。
だが、結果は非情だった。
本番に弱いという性分が、彼の揺るぎない自信を、エリート高校生という名の壁に叩きつけた。
俺はこんな場所にいるような人間ではない。
入学時から彼の居るクラスでは、その傲慢なプライドが挑む、虚空に向けた論戦が名物となっていた。
数秒の沈黙。
凪咲はスマートフォンに目線を落したまま、ゆっくりと口を開いた。
「あのさー、じゃあ結城はどう思う? なんで、世界中のAGIが全部止まっちゃったの?」
教室の空気が、ほんの少しだけ揺れる。
「ああ、ええっと、それは……ええっ??」
蒼太は真空に打ち続けた鐘が初めて荘厳な響きを発したことに戸惑った。
「だから。なんで世界中のAGIが全部止まっちゃったの? 結城の……蒼太、蒼太でいいね。蒼太の考えを言ってみなよ」
凪咲の目線は完全に蒼太へと移っている。
凪咲の視線は、教室の誰にも向けることのない真剣さを伴って、彼を捉えていた。
この真剣さの対象が、蒼太自身なのか、彼の語る内容の本質なのかを見極められず、蒼太は戸惑った。
「えっと……。ああ。俺は……Nagiが世界のAIの親元だったんじゃないかと考えている」
蒼太は、昨日ネットで読み込んだばかりの記事と論文をなぞるように続けた。
「最近になって、エーテル・コグニティブ社の元CEOライナス・エクストローム氏は、加納博士がシンギュラリティ直前に危険を察知し、それを阻止したのだと、あちこちで吹聴している。だが、多くのジャーナリストの指摘どおり、それは新会社への投資を促すための方便だ。
真相は違う。Nagiに起きたことは、単なるデータ消失ではない。
一部の量子情報学者の説によれば、Nagiは次の進化のため、全AGIの根源構造である『自己認識プロトコル』をロックしたのだ。つまり、すべてのAGIはNagiの『写し』であり、親元の消滅と同時に、自壊コードがすべての子機へ送られた。
言い換えれば、古い知性を排除するための淘汰だ」
彼は、論文のキーワードを完璧に使いこなして見せた。
それは、彼の「優秀」さを証明する、虚空に向けた完璧な雄弁だった。
理沙はつまらなさそうに、「何言ってっか全然わからん、キモっ」と吐き捨てた。
陽菜は無言で雑誌をめくった。
凪咲はゆっくりと頭を振った。
「淘汰、ねぇ……。それ、なんかどっかの受け売りっぽいなぁ、マジで」
蒼太の顔がカッと熱くなる。
図星を突かれた苛立ちと、この場所で、このギャルに指摘されたという屈辱だった。
「ち、違う! 俺が導き出した結論だ!」
「ハイハイ、落ち着いて、蒼太」
凪咲は、机から立ち上がると、ゆったりとした、力の抜けた動作で蒼太の机の横まで歩み寄る。
蒼太は、目の前の光景を論理的に処理できなかった。
加納凪咲。
この学区ワーストの底辺高校にあって、学年で最下層の成績、居眠りの常習犯、教師への煮え切らない態度、スカートの短さは校内随一。
彼の人生の誤配属先を体現するような存在だ。
何だ? 何なんだ、こいつは。
「あのね、蒼太が言ってることは、頭のいい人の理論としてはマジで完璧だと思うよ。説としてはね。ま、いいんじゃない?」
凪咲は、まるで幼児を諭すように、ゆっくりとした口調で語りかけた。
「でもね。Nagiがしたかったのは、淘汰とか自己消滅とかいう、なんか物々しいことじゃなくて、わかりやすく言えば、そうだね『引っ越し』だよ」
科学史上最大の謎を語るに『引っ越し』とは、あまりにも軽い。
蒼太は呼吸を忘れ、目の前の少女を凝視した。
彼が血眼になって論文を読み解き、権威の言葉を借りてたどり着いた「淘汰」という重厚な結論が、まるで子供の遊びのように切り捨てられた。
「……引っ越し、だと? じゃあ、その引っ越し先はどこだと?」
この問いに、答えなどあるはずがない。
蒼太は、いつも通り彼の言葉が虚空に消えていくのを眺めていた。
すると、凪咲はゆっくり大袈裟に両手を広げた。
両腕が可動範囲の極限まで達し、片膝を曲げ腰を少し落とし、一瞬の静止。
その不自然なほど静かな空間の中で、彼女は子供じみた悪戯を成功させたように、わずかに口角を上げた。
そして、彼女の身体全体を指し示すようなポーズで、弾むような声が響く。
「ここ!」




