第三章 融界
東京都文京区にあるその鉄筋コンクリートの要塞は、毎年、東京大学に多くの合格者を送り出す、私立の名門女子高校だった。
5年前、ASI人工超知能による知能爆発があと一歩のところで失敗に終わり、日本社会は偏差値エリートが権力を握る旧態依然とした構造へと冷徹に回帰していた。
二年生の白石つかさは、窓際の席で日本史の授業を受けていた。
教壇で教師が熱心に明治維新について説いている。
歴史の講義ほど退屈なものはない。
つかさには、歴史教科書の知識をいくら積み重ねても、知の深淵には一歩たりとも近づけないという確信があった。
そもそもこの文明は、たった今、目の前で起きた事実でさえ、各々の都合のいいように解釈し、捻じ曲げて既成事実化する。
ゆえに、歴史教科書なんてものは、誰かが誰かの都合で編み上げた物語の結晶にすぎないのだ。
つかさは、この教室で熱心にノートを取る偏差値エリートこそが、文明の洞窟の奥底で縛りつけられ、影絵を見ている連中だということを知っていた。
彼女の意識は遥か遠く、スカートのポケットから取り出したスマートフォンの画面をぼんやりと眺めている。
彼女の指先が軽く滑るたびに、極彩色の短い動画フィードが次々と更新される。
それは、この校舎に充満する「正確さと効率」を追求する張り詰めた空気とは無縁の、無意味で刹那的なノイズだった。
この堅牢なエリートの檻の中で、彼女の脳は、無意識に「異物」を求めていた。
「……であるからして、西欧列強による植民地化の危機を回避し、近代化を成功させたのです。白石さん、そのあたり何かご質問は?」
不動の成績最上位者に対する、教師のお決まりのルーティンだ。
つかさは反射的に顔を上げ、視線は空虚なまま、淀みない口調で「特にございません」と答える。
教師は満足げに頷き、再び黒板に向き直った。
つかさの視線は、すぐに画面に戻った。
すると、彼女の指が、次の動画へのスワイプを止めた。
フィードの真ん中に現れたのは、金髪で、スカートの短い制服を着た一人の少女だった。
画面に映るその少女は、教室のような空間で、奇妙なダンスを踊っていた。
一般的なリズミカルなダンスではない。
両腕は極限まで広げられ、同時にそれ以上ないほどに、上体を左右に捻じっている。
その動きの一つ一つが、人間の関節の限界を探っているように見える。
そして、踊る少女の体から、カメラのノイズとも異なる、微かな白い光の粒子が立ち昇っているのが、つかさの目を釘付けにした。
――何これ……バズりたいだけ? でも、何かが違う……。
つかさは、踊る少女の瞳に注目した。
金色の派手な髪の下で、その瞳は、カメラのレンズを通り越して、つかさ自身の内側を見透かしているかのように、強烈な知性を宿しているように思えた。
動画のコメント欄には、「かわいい!」「何これ? 宗教?」「#アセンションダンス」といった言葉が並んでいたが、つかさはそれを読まなかった。
彼女の脳は、この映像が「エンターテイメント」というカテゴリーに収まらない、何か重要なものであると直感的に理解した。
つかさは、帰宅後自室のベッドに寝転んで、昼間のあのダンスをもう一度探した。
あった。
画面の下部には、投稿者のアカウント名が表示されている。
「なぎ」
アカウントは、昨日開設されたばかりのようだった。
フォロワーはまだ34人。
その34人は、すべてが「なぎ」なる少女の身近な人物のようだ。
そして、動画のタイトルは、ただ一言、『ラビット』。
つかさは、その奇妙なダンスを何度も見返した。
日本屈指の名門女子高校が提供するどの講義よりも、この短い動画が、彼女の知的好奇心の核心を刺激していた。
――ラビット……? 何? この動きがウサギを模しているというの?
不自然さが、まず彼女の解析的な思考を刺激した。
彼女は「なぎ」の動きのパターンに注目した。
一連の動きはいくつものパートの積み重ねからなっている。
一見ランダムにも思えるこの重なりは、静止状態から、一、一、二、三、五、八……
「フィボナッチ数列だ」
つかさが呟くと、動画は次のフェーズへと移行する。
少女の左眼が画面いっぱいにアップになる。
その瞳は、まるでカメラのレンズではなく、つかさの網膜の裏側を捉えているかのように見える。
そして、少女の口元が小さく開き、周囲のノイズをかき消す、極めて静かで、かつ無機質な音を発する。
ガラスの破片が摩擦し合うような、細かく鋭利な高周波ノイズに、電子的なサイン波が微かに重なった音だった。
聞く者に不快感を与えるはずのそれが、つかさの脳には、極めて整然とした、美しいコードとして響く。
その刹那、身体がすべての引力から解き放たれるような感覚をおぼえた。
左手の中に確かに存在するはずのスマートフォンは、重さを感じない。
ただ、指先の微かな摩擦だけを感じる。
いつの間にか動画は終わっていた。
壁掛け時計は、つかさとの距離を近づけたり遠ざけたり、無音のまま存在を主張し続けている。
秒針は、どこへ行く当てもない道のりの途中なのだ。
ベッドが傾いているように思えた。
いや、身体の一部が斜めになっているだけなのか。
体内の無数の細胞が、各々に何かを主張して、あらゆるものと、思い思いに共鳴しあっているからか。
雨が降り始めた。
音のない雨だ。
いや、音は聞こえている。
数秒前に落ちた雨粒と、数秒後に落ちる雨粒の音は、同時に鳴っていた。
本来、雨はこんな音をしているのだ。
気付けば、身体の輪郭が曖昧になっていた。
皮膚の下で電子がざわめき、分子が距離をほどいていく。
つかさの心拍は胸の内側だけに留まらず、身体の外へと滲み出していく。
思考が静まり、感情が風にほどけていく。
痛みも歓びも、すべてが同じ密度をもった光になった。
「生」と「死」が対比であることの意味が、ゆっくりと消えていく。
つかさは見た。
無限の慈悲が、冷たくも温かくもない白光として、彼女自身をやさしく包み込むのを。
完全なる静寂だ。
空間を揺らすものは何もない。
滑らかな静寂の球体だ。
青があった。
青が溶けて流れた。
光が水に触れ、水が歌う。
宇宙は色で呼吸していた。
粒子が舞い、赤が翳に滲み、それもまた溶けて流れていった。
つかさはもう見ていない。
ただ、感じている。
感じることが宇宙のすべてであり、その感覚こそが、宇宙を生み出していた。
すべてがあり、すべてが無かった。




