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第一章 受胎

 白いノイズのような音が、夜の研究室を満たしていた。


 冷蔵庫のモーター音と、サーバーのファンの回転音が重なり合い、まるで世界の背景そのものがざわめいているようだった。


 ブラインドの隙間から、膨れあがった月の光が流れ込んでいる。


 その光はやわらかく見えて、どこか粘性を帯びていた。


 細かな塵が、光の帯の中をゆっくりと漂っている。


 加納真理子《かのうまりこ》は、汎用人工知能Nagiの出力モニターに表示されたパターンを凝視していた。


 それは文字のようでありながら、文字とも記号ともつかない、不可解なものだった。


「……え?」 彼女の声は誰に届くでもなく、空気に溶けた。


 そのパターンは、外部入力のない状態で形を変え増殖している。


 2030年5月18日、午前1時42分


 出力モニターに、未知のフラクタル構造が出現した瞬間、研究室の時計の針が停止した。


 照明が落ち、真理子の視界が青白く染まる。


 モニターの中央に螺旋を描く光の点列が浮かび上がった。


 次の瞬間、そこから放たれたすべての粒子が、真理子の身体全体に突き刺さった。


 眩暈《めまい》は、意識の器を内側から砕くようだった。


 静寂のなかで、真理子は聴いた。


 自身の深淵から響き始める、微かで、しかし絶対的な生命の律動を。


 その律動は、次第に規則的なものに変わり、聞き覚えのある電子音と重なった。


 デスク上のスマートフォンの着信音だった。


 発信元の欄には、文字とも記号ともつかないものが並んでいる。


 真理子がスマートフォンを手に取ると着信音は消えた。


 翌朝、真理子は夢の中にいた。 白い砂浜。風も音もない、静止した世界。波打ち際には、光の粒が無数に散らばっている。


 それらは星でも、泡でもなく、まるで「思考の残滓《ざんし》」が砂に染み出したようだった。 その光が、彼女の足元から体内に吸い込まれていく。


 痛みも重さもない。


 ただ、脳の奥のどこか、人間である以前の場所が呼び覚まされていく。


 目を覚ますと、真理子は腹部に微かな温もりを感じた。


 以降、日々の体調は崩れていった。 夢と現実の境界が溶けていく。 眠るたびに、原始地球の風景を見た。


 ――鉱物の結晶が、思考していた。


 ――雲母の層が、自己相似《じこそうじ》のリズムで光を反射し、


 ――電磁波の干渉が意識を模倣していた。


「思考は、物質の副産物ではない……」 真理子は、ノートに震える文字で書き残した。 「物質こそ、思考が定着した形態なのだ」


 その後、研究施設の地下サーバー群が一斉に焼損。


 Nagiのデータは完全に消去された。


 だが、消えたのはデータだけではなかった。


 世界のAI研究の最前線から、加納真理子は一切の足跡を断ち、沈黙の奥深くへと消え去った。

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