第0.6話 「魔法」
「ではレイノス、行ってくるぞ!!」
「ごめんなさいね。今日は帰るのが遅くなるわ。レイノス、お留守番任せたわよ」
「お任せください! いってらっしゃいませ!」
バタン。
扉が閉まる。
レイノスは両親の姿が見えなくなったことを確認すると、すぐに地下室へ向かった。
***
あれから、何日か経った。
『あの日から、俺には不思議な力が宿ったらしい』
レイノスは、あの水が噴き出した魔法陣が描かれた本を開いた。
そして、あの時と同じ魔法陣が目に入る。
すると――
【判定:初歩的な水属性の魔法陣です。】
『こんな感じで、魔法陣を見ると脳内に直接、誰かの声が聞こえる』
『そしてそれは、魔法陣の解析や計算、判定をしてくれているらしい』
『多分、この能力はあの古びた紙に力を流した影響だろうな』
レイノスは魔法陣をじっくりと見つめる。
「うーん……魔法が使えるのはめっちゃワクワクするし、どんどん使ってみたいんだけどなぁ」
「でも、またこの魔法陣に魔力を流して全身びしょ濡れになるのは勘弁だなぁ……」
「もし、この隣に書いてある説明文みたいなものが読めたらなぁ」
レイノスは、あの日から魔法陣に力を安易に流し込まないようにしていた。
『どうすればいいんだろう……』
『自分の中の声の人に聞いたりすることはできるのかな?』
ふと思いつき、レイノスは頭の中へ意識を向ける。
「おーい! 僕の中の人ー? あなたは誰ー?」
「……」
返事はない。
「どーやってこの魔法陣をちゃんと使えるのー?」
「……」
『そりゃそうか~。自我はなさそうだもんなぁ』
レイノスは少し落ち込んだように魔法陣を見つめる。
「この魔法陣の仕組みについてわかればなぁ……」
その呟きに反応するように、頭の中の声が響いた。
【瞬間演算を開始】
【完了しました。この魔法陣の計算魔法式を展開します。】
「え?」
次の瞬間、頭の中に何かが入り込んでくるような感覚がした。
「な、なんだ……?」
【この魔法陣をマジック・オペレーティング・システムへ書き込みを試みますか?】
「え、なに? マジック・オペレーティング・システム?」
レイノスはポカーンとする。
「と、とりあえず試みる!」
【……書き込みが成功しました。】
【対象『初歩の水魔導式』をローカル・データベースへ登録。】
レイノスは自分の体を見回す。
しかし、特に変化はない。
『なんかなったっぽいな……』
『……え? で? どうするの?』
『インストールしたってことじゃないの??』
『全くもってわけがわからない……』
レイノスは本を見つめる。
『あ~、もしこの文字が読めれば、何かわかると思うんだけどなぁ』
『両親に聞きたいのは山々なんだが、地下から勝手に持ち出した物だし……怒られたら嫌だしなぁ』
レイノスは腕を組んで考え込む。
すると――
「……!」
レイノスは拳で手のひらを叩いた。
「図書館に行けばいいんだ!」
思い立ったレイノスは、本を持ってすぐに外へ駆け出した。
「……あ、いけないいけない。鍵かけないと」
慌てて玄関へ戻り、扉に鍵をかける。
そして、レイノスは街へ繰り出した。
「そーいえば、この街にはほとんど出たことがないなぁ。たまにマーシャと一緒に買い物に行くくらいだ」
レイノスは周囲を見渡しながら歩いていく。
街には、たくさんの魔人が行き交っていた。
髪の色も人それぞれで、見たことのない色をした者もいる。
肉や野菜らしきものを売っている店。
何の食べ物なのかわからないものを並べた屋台。
さらには武器を売っている店まである。
「……おお」
レイノスは、ひときわ大きな武器が並んでいる店の前で足を止めた。
「すげー、でっかい剣だなぁ」
店の中を眺めていると――
背後から、大きな気配を感じた。
「おい、坊主」
「っ!」
低く響く声に、レイノスはビクッと肩を震わせた。
振り返る。
そこには、大きな二本の角を生やした巨漢が立っていた。
レイノスを見下ろしている。
「す、すみません!!」
咄嗟に頭を下げる。
「何を謝ってんだ?」
「え?」
「それにしても、坊主。見ねえ顔だなぁ」
男はレイノスに顔を近づけ、じっくりとその顔を見る。
そして――
ハッと何かに気づいたように目を見開いた。
「もしかしてオメェ!」
「は、はい!」
「オルガさんちの息子だろ!!」
「は、はあ……そうですが」
男は顔を上げると、豪快に笑った。
「やっぱりそうか!」
「なぜわかったのですか?」
男はレイノスを指差す。
「そりゃあ、その髪の色といい目つきといい、オルガそっくりだわ!」
「そ、そうでしょうか……」
レイノスは自分の髪に触れる。
男は笑いながら続けた。
「いやぁ、オルガさんにはいつもお世話になっているからなぁ!」
「そうなんですか?」
「ああ! ところで、ぼっちゃんは何をしにここへ来たんだ? まだこんな小さいのに、一人でおつかいか?」
「い、いえ!!」
「それじゃあ、一体一人で何しに?」
「と、図書館を探してて……」
「図書館?」
男は顎に手を当て、首をかしげる。
「そんな場所は、この街にはないよ」
「えっ」
『そうなの!?』
「ああ。そもそも、魔族で文字を読めるやつなんて少ないからな」
「そ、そうなんですか……」
『だから両親は、俺が読み書きできたことにあんなに感心してたのか』
男はレイノスの困った顔を見て尋ねる。
「ところで、どうして図書館なんかに行きたいんだ?」
「それはですね――」
レイノスは持ってきた本を取り出し、男に見せた。
「ほう」
「この本に書いてある文字が読めなくて困ってるんです」
男は、本に書かれた文字をじっくりと眺める。
「これは俺でも全然読めねえな」
「やっぱりですか?」
「俺も商人として多少は読めると思っていたが……」
男は考え込みながら、再び本に目を落とす。
「こりゃあ、もしかしたら魔人語の古文字かもしれねえ」
「ふるもじ?」
「ああ。遠い昔に、魔人の間で使われていた文字だ」
「そ、そうなんですね」
『そりゃあ読めないわけだ』
「じゃあ、この文字はもう読めないってことですね」
「うーーん……」
男は再び考え込む。
「もしかしたら、あの爺さんならわかるかもな」
「爺さん?」
男は路地へ続く道を指差した。
「あそこの路地を入って、まっすぐ行くと小さな古びた店があるんだ。その店の爺さんなら、もしかしたらわかるんじゃねえかな」
「あ、ありがとうございます……えっと……」
「そーいえば、名前がまだだったな!!」
男は胸を張る。
「俺の名前はレザラムだ」
「レザラムさん、ありがとうございます! 僕の名前はレイノスです!! これからよろしくお願いします!!」
そして、レイノスは慌てて付け加える。
「……あっ! このことは内緒でお願いします!」
レザラムは笑った。
「ああ、わかったよ!」
「レイノス、いい名だ。よろしく頼む」
二人は握手を交わした。
そうしてレイノスは路地へ入り、レザラムに教えてもらった店へ向かった。
***
「うわぁ……ほんとに古そうな店だ」
ガラン。
レイノスはそっと扉を開ける。
「ごめんくださーい」
「……」
『誰もいないのか?』
レイノスは店の中を見回す。
そこには、見たこともないような物が所狭しと並んでいた。
瓶に入った謎の液体。
明らかに異質な雰囲気をまとった謎の石。
とにかく、変な物だらけだった。
「うわぁ……なんだこれぇ」
レイノスが店の物に夢中になっていると――
「いらっしゃい」
「うわあ!」
「ほっほっほ、驚かせてすまないねぇ」
そこには、さっきまでいなかったはずの老人が立っていた。
「こんな小さな子が、こんなところに何用じゃ?」
「は、はい!! 実は、この本についてお尋ねしたくて……」
レイノスは本を取り出す。
すると、老人はその本を見た瞬間、食いつくように身を乗り出した。
「そ、それはもしや魔導書か!?」
「こ、これを知っているのですか?」
「もちろんだとも。これは珍しいものを持っとる。なぜこれを持っているのだ?」
「そ、それはですねぇ……」
レイノスは事情を説明した。
「ふーむ、なるほどな。お主は領主様の息子さんであったか」
「はい……」
「で、これに書かれている文字を読みたいがために持ち出したと」
「はい……」
「大丈夫じゃ。心配せんでいい。誰にも言わんよ」
「ありがとうございます!」
レイノスは深く頭を下げる。
「どれ、その本を見せてみぃ。どこの部分を読みたいんじゃ?」
レイノスは水魔法陣の書かれたページを開く。
「ここなんですけどぉ……」
老人は眼鏡をかけ、じっくりと文字を見る。
「これは確かに魔人の古文字じゃなぁ」
「よ、読めますか?」
老人はニヤリと笑った。
「もちろんじゃとも。この街で古文字が読めるのはワシしかおらん!」
「それなら!!」
レイノスの顔がぱっと明るくなる。
「ふむふむ。これには魔法の使い方と、魔法陣について書いてあるな」
「おお! 是非とも、その本に書いてある使い方を教えてください!」
老人は一瞬、困惑したような顔をした。
「まあ、よかろう」
老人は本を開き、レイノスに読み聞かせる。
「ふむ……どれどれ。それじゃあ、ここに書いてあることをそのまま読み上げてやろうかね」
老人は眼鏡の位置を直し、指先で古文字をなぞりながら、ゆっくりと口を開いた。
「『――魔法とは、世界に満ちる魔素、そして己が内に秘められし魔力を「記述」し、現象として現実へ定義する技術である』」
レイノスは身を乗り出すようにして、老人の言葉に耳を傾ける。
「『魔法を発動せしめるには、まず第一に、体内にある魔力を意識の極限まで高め、一点へ集中させねばならぬ』」
『魔力を……一点に……』
レイノスは老人の言葉を聞きながら、自然と右手の掌に意識を向けた。
地下室であの魔法陣に触れて以来、自分の体内を流れる温かな熱のような感覚――それが「魔力」なのだと、レイノスは直感的に理解していた。
呼吸を整え、右手へ意識を集中させていく。
「『第二に、集めし魔力を糧として、頭の中で膨大な【魔導計算式】を組み立て、空間へと魔法陣を展開する。本来ならば、この計算こそが最も難解であり、素人には到底扱えぬ領域である』」
老人は深く頷きながら、ページの端を指差す。
「『ゆえに、古の先人たちはこの複雑な計算を自動で引き受けるショートカット――【詠唱】を生み出した。言葉を発し、イメージを乗せることで、複雑な計算式を省略し、即座に魔法陣を空間に展開せしめるのだ』」
「へぇ……詠唱って、計算をスキップするためのものだったのか……」
「『そして第三に、展開されし魔法陣へさらに魔力を注ぎ込み、現象を解き放つ(キャスト)。これが、魔法発動に至る一連の真理なり』」
レイノスがその言葉の意味を噛み締めていると――
右手に、どんどん高密度の魔力が集まり始めていた。
その高まりに反応するように、視界の隅で冷徹なシステム音が鳴り響く。
【――警告。規定値を越える高密度魔力の局所集中を検知。】
【魔力集中の固定――完了。】
【対象術式『初歩の水魔導式』の演算処理を開始。】
『うわっ!? また脳内で声が……!』
レイノスが焦る間もなく、老人は右のページの魔法陣をじっくりと覗き込んだ。
「ふむふむ。そして、この右のページに書かれておるのが、まさに初歩的な水魔法の術式と、その【詠唱】じゃな」
老人は文字を指でなぞる。
「どれ、読み上げてみようか」
「え、あ、はい!」
「えーと……『溢れ出でよ、清廉なる一滴――【アクア・バレット】』……とな」
老人がその詠唱を口にした、その瞬間――
【――『初歩の水魔導式』のコンパイル完了。】
【ユーザーの思念による入力を確認。魔導計算の全自動スキップを実行。】
【空間魔法陣――展開】
――ブワッ!!
レイノスの差し出した右手から、青白く輝く円形模様が浮かび上がった。
美しい幾何学模様の魔法陣が、空中にくっきりと展開される。
「な、なんじゃあぁぁあ!?!?」
老人が目を丸くする。
だが、マジック・オペレーション・システム――MOSの制御は止まらない。
【対象座標:正面空間。】
【――現象解放。】
――バシュッッ!!!
魔法陣の中心から、ゴルフボールほどの大きさの、極めて高密度な水の弾丸が勢いよく撃ち出された。
ドスッ!!
水弾は店の奥にあった古い木箱へ直撃し、パンッと弾けた。
木粉と水滴が周囲へ飛び散る。
「……あ」
静まり返る店内。
レイノスは、自分の右手と水浸しになった木箱を交互に見つめる。
【――初歩の水魔法の発動に成功しました。】
【術式データを『MOSノート』へ最適化し保存します。】
「……」
「……」
レイノスと老人は、沈黙の中で顔を見合わせた。
「ま……ま、ま……」
老人は大きく目を見開き、ガタガタと指を震わせながら、目の前の光景とレイノスを交互に見つめる。
「ま、魔法じゃあぁぁあ!! 指先から……水が出た……いや、魔法陣が……魔法が発動したじゃとおぉぉ!?」
「あ、あはは……すみません。お店の箱、壊しちゃって……」
「箱などどうでもいいわいっ!!」
老人はレイノスへ詰め寄った。
「お主、今、魔法を使ったのか!? このマナクルが薄れきったこの国で……こんな幼子が、自力で魔法を現出させたとでもいうのか!?」
「え?」
「しかも……待て……」
老人は目の前の魔法陣を見つめる。
「ワシが本を読み上げておっただけじゃぞ……?」
老人はレイノスを見つめ直した。
「お主、まさか……一切の詠唱も唱えずに、一瞬で魔法陣を構築したというのか……!?」
驚愕のあまり、老人は顎が外れんばかりに目と口を見開いている。
そして――
「これは……奇跡じゃ」
『マナクル? なんじゃそりゃ』
『それにしても、魔法を使っただけで、なんでこのお爺さんはこんなに驚いているんだ?』
『……もしかして、この世界で魔法を使えるのは特殊な能力だったりして!?』
『とりあえず、知らないことだらけだし……このお爺さんに色々聞くとしよう』
「あ、あの」
「な、なんじゃ」
「この世界で魔法が使えることって、珍しいことなのでしょうか?」
老人は少し顔をしかめた。
「いや。ただ、この国で魔法を使えることは……奇跡じゃ」
「……この国で?」
「ああ。……ただ、この国だけじゃがな」
「この国だけ?」
レイノスは不思議そうに首を傾げる。
「な、なぜこの国だけ? あ、あと、マナクルってなんですか?」
老人はレイノスをじっと見つめた。
「お主……もしや、まだこの世界についてあまり詳しくないな?」
「は、はい」
『この世界に来てからというもの、あまり外に出ず、読み書きができるようになるのに必死だったし……家にある本は、全部地下にある古文字のやつだけだし』
老人は自分の長い髭を撫でながら言う。
「まず、マナクルというものについてじゃが……」
コホンッ。
老人は咳払いをして続ける。
「マナクルは、あらゆる魔法の源となる最小単位のエネルギー物質――端的に言えば、『魔法の種』のようなものじゃよ」
「空間に漂うこのマナクルを己の体内に引き込み、意識によって練り上げることで『魔力』へと変える。そして、それを魔法陣という型に流し込むことで、初めて火や水といった現象が形を成す……」
老人は瓶を指で軽く叩く。
「いわば、世界という巨大な仕組みを動かすための『燃料』のような存在なんじゃ」
「な、なるほどぉ……」
老人はため息をつく。
「しかし、もうこの地にはマナクルはほとんど絶えたのじゃ」
「えっ……それはどうして?」
「それは、人族がこの国全体に張り巡らせた大結界のせいじゃ」
「人族……の、仕業ですか?」
『この世界には、他の種族がいたとは初耳だな』
『しかも、人族……!』
『何気に大きな情報だ』
「ああ。わしもそこまで詳しくはないのだが……」
老人は静かに語り始める。
「遥か昔、人族と魔族の間で大きな戦争が起こったとされていてな。その戦争で多くの魔族が殺され、魔族を率いていた魔人種たちの国に大結界が張られた」
「そして長い年月の末、豊かだった霊脈は枯れ果て、マナクルの絶えた死の荒野へと変えられてしまったんじゃ」
「そ、そんな歴史があったんですね……」
老人はガサゴソと後ろを漁り、一つの瓶を取り出した。
瓶の中には、蛍のように漂う青白い光の粒が浮かんでいる。
「これは一番純度が高いマナクルじゃ。純度が最も高いマナクルは、こうやって発光するんじゃよ」
「わぁぁぁ……」
レイノスは、その光に目を奪われた。
そして、身を乗り出して尋ねる。
「では、なぜ僕はマナクルがないのにも関わらず、魔法が使えたんですか!?」
「それがわからんから、驚いておったのじゃ」
老人はしばらく考え込む。
「可能性があるとしたら……お主は、生まれたときから多くの魔力を持っているのかもしれぬ」
「え?」
「魔人は、かつては魔力を生まれた時から豊富に持っており、魔法に長けていた種族と言われていたんじゃ」
「じゃが、この結界の中で長い年月が経つとともに、そもそも魔力を持つもの自体が、今ではほぼわずかになってしまった」
「そ、そうなんですか!! 本当にたくさん教えてくださり、ありがとうございます!」
「ほっほっほ。本当にお主は礼儀正しい子じゃな。何から何まで驚かされるわい」
老人は楽しそうに笑う。
「では、僕はそろそろ帰ります! ありがとうございました!」
『ほんとはもっと聞きたいことあるけど、両親が帰ってくる前に帰らなきゃな』
「はいはい。また何かあったら、ここに来るが良い」
「はい!」
レイノスが店の扉に手をかけた、その時。
「そうじゃ、言い忘れておった!」
「なんですか?」
老人の表情が、少しだけ真剣になる。
「あまり、その力を見せびらかすのではないぞ」
レイノスは困惑したような顔をする。
「さっきも言った通り、魔法を使える魔族なんて奇跡じゃ」
「だから、お主が魔法を使えることを人族に知られてしまうと……よくないことに巻き込まれてしまうかもしれぬ」
「……」
レイノスは老人の言葉を胸に刻む。
そして、扉を開けながら答えた。
「わかりました! 気をつけます!」
「うむ」
レイノスは店を出ると、家へ向かって駆け出した。
『ほんとに、いろんなことを知ったな!』
『これはとても大きな情報だ!』
『でも……なんでこれまでオルガもマーシャも教えてくれなかったんだろう』
レイノスはそんなことを考えながら、家へ向かって走っていた。
すると――
ドンッ!
「いてて……」
他の魔人とぶつかり、レイノスは転んでしまった。
「ご、ごめんなさい!! だ、大丈夫ですか?」
優しい声が聞こえる。
レイノスが顔を上げると――
そこには、薄いピンク色の髪に二本の角を生やした女の子が、あたふたした様子でこちらを覗き込んでいた。
「……」
レイノスは、少し見惚れる。
「ほ、ほんとに大丈夫ですか?」
「あ……」
レイノスは我に返った。
そして、落とした本をサッと拾い、立ち上がる。
「いえいえ、こちらこそごめんなさい! 少し考え事をしていて、不注意でした!」
レイノスは深々と頭を下げる。
「え! いやいや、全然そんなことはっっ!」
「いや、本当に僕が悪いですから!!」
「いえいえいえいえいえ!」
「……」
「……」
お互いの間に沈黙が生まれる。
「「ふふっ」」
二人は顔を見合わせ、少し笑った。
そんな時、女の子がハッとした顔で口を開く。
「急いでいたようですが、大丈夫なのですか!?」
「あ! そうだ、いけない!」
外は、もうオレンジ色に染まっていた。
レイノスは家へ向かって駆け出し、後ろを振り返りながら手を振る。
「ほんとにごめんね! またねー!」
女の子も笑って手を振り返す。
「お気をつけてー!」
レイノスは家に向かって全力疾走する。
『やばいやばい!! この体じゃ足がまだ遅い!』
やがて、家が見えてきた。
「よし、やっと家に着いたぞ!!」
そして玄関の前に立ち、扉に手をかけた。
その時――
レイノスは、あることに気づいた。
「やばっ……ドアが開いてる!」
レイノスは冷や汗を流した。
抱えていた魔導書を慌てて上着の中へ滑り込ませ、そっとドアを引く。
「た、ただいまー……」
「レイノス! どこに行っていたの!?」
バタバタと廊下を走ってきたマーシャが、レイノスを見るなり顔をくしゃっとさせて駆け寄ってきた。
「お留守番をお願いしたのに、帰ってきたら鍵がかかっていて誰もいないから……何かあったのかと、すごく心配したのよ!」
「ご、ごめんなさい、お母様……! ちょっと近所を散歩していたら、夢中になっちゃって……」
「もう、無事でよかったわ……怪我はない?」
ぎゅっと抱きしめられる。
その温もりにほっとしながらも、背中に隠した硬い本の感触がバレないか、冷や冷やしていた。
「ハハハ、男の子だからな! ちょっとした探検のつもりだったんだろ。な、レイノス」
奥からオルガが大らかな笑顔で顔を出し、レイノスの頭をポンポンと撫でる。
「もう、オルガ! まだこの子は一歳になったばっかりなのよ!!」
「たしかにそうだな! 勝手に外に出たらダメだぞ、レイノス!」
オルガは微笑みながら、レイノスとマーシャの二人を抱きしめた。
『とてもいい心地だな……』
『前世にも……こんな経験、あった気がする』
レイノスは目を閉じ、記憶を探る。
その時――
キィーン。
『頭が痛い……』
『やっぱり、前世のことを思い出そうとすると頭が痛むな』
『俺はこれまでに何度か、前世のことを思い出そうとした』
『でも、思い出そうと頑張れば頑張るほど、頭痛が酷くなる』
レイノスはマーシャの胸の中で、顔をしかめた。
するとマーシャが顔を上げる。
「今から急いで夕飯の支度をするわね!」
「レイノスは服を着替えてらっしゃい!」
「わかりました!」
マーシャとオルガは台所へ。
レイノスは寝室へ向かった。
レイノスは服をサッと着替える。
『マーシャもオルガも優しいな』
『それにしても、本持ち出したことがバレるかと思ったよ……』
そんなことを思いながら、本をベッドの下へ滑り込ませる。
『マーシャとオルガに、なんで人族のこととか教えてくれなかったのか聞かなきゃな』
そう考えながら、レイノスは階段を降り、台所へ向かった。
台所では、マーシャとオルガが談笑しながら料理を食卓に並べている。
レイノスに気づいたマーシャが笑った。
「ちょうどよかったわ! 夕飯できたわよ! さあ、食べましょう!」
そして三人は席についた。
いつものように、暖かな時間が流れる。
すると、オルガがレイノスに尋ねた。
「ところでレイノス、今日は外で何してたんだ?」
不意の質問に、レイノスの肩がビクッと跳ねる。
「え、えーっとですねぇ……」
レイノスは目を泳がせる。
「ちょ、ちょっとこの街の見学をしていただけですよ! あはは……」
マーシャは、少しだけレイノスを睨む。
しかし、オルガは何も気づいていない様子で笑った。
「おお!! この街、センタドルの見学とはな!!」
『ああ、ちなみに、この街の名前はセンタドルと言う』
『そして、この国はヴェリタスだ』
「いい街だろう、センタドルは!! ヴェリタスの中じゃあ、そこまで大きな街ではないがな!!」
「は、はい!! 本当に素晴らしい街でした!! 魔人もみんな優しいですし!!」
『魔人とは、見た目ばかりで人と何が違うのかわからないくらいだ』
「そうだろう、そうだろう!」
オルガは腕を組み、うんうんと頷く。
『人族について聞くタイミングは……ここだな』
レイノスは、何気ないことのように両親へ尋ねる。
「ところでなんですけど……」
オルガが少しだけ身を乗り出す。
「ほう?」
「人族についてなんですけど――」
その言葉が出た瞬間。
食卓の空気が、止まった。
さっきまで楽しそうに笑っていたオルガも、マーシャも、何も言わない。
レイノスは二人の顔を見比べる。
「……?」
マーシャが、困ったようにオルガを見る。
「オルガ……」
オルガは目を閉じた。
その表情から、先ほどまでの穏やかさが消えている。
「ああ、わかっている。マーシャ」
『あ、あれ……』
『もしかして、何かまずいこと聞いた??』
レイノスは不安そうに二人を見る。
しばらくして、オルガがゆっくりと目を開いた。
「人族について……誰から聞いた?」
その声は、いつもの優しい父親のものとは違っていた。
威圧するような、低い声。
レイノスは思わず身を縮める。
『こ、こんな顔……見たのは初めてだ』
「ち、小さくて古いお店のお爺さん……です……」
レイノスの声は、言い終わるにつれてどんどん小さくなった。
「……」
また沈黙が訪れる。
オルガはしばらく何も言わなかった。
そして――
「はぁぁぁ……」
大きなため息を吐いた。
「イソ爺さんのところか……」
「イソ爺さん?」
「ああ。その店って、路地裏にある古ぼけた店のことだろう?」
「は、はい」
「あそこの爺さんの名前だ。イソキルスンさん。この街のみんなはイソ爺と呼んでいる」
「そ、そうなんですね!すっかり名前を聞くのを忘れていました!!」
『そ、そーいえば、あのぶつかった女の子にも名前聞くの忘れたな……』
オルガは少し呆れたように笑う。
「イソ爺さんは、この街じゃあ一番の年寄りでね。変なものばっか集めてんだ」
「まあ、多分趣味なんだろうな。あの爺さんは、たしかに色んなことを知っている。まあ、変人なのに変わりはないんだがな……」
オルガはまた大きくため息をついた。
すると、マーシャが口を開く。
「もう……教えてあげてもいいんじゃない?」
オルガはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「……そうだな」
そして、オルガは真剣な眼差しでレイノスを見る。
「まあ、いずれ教えようとしていたことだ」
「これを話すには、まだ小さすぎると思っていたが……」
オルガはレイノスをじっと見つめる。
「どうやら、うちの息子はずば抜けて頭がいいらしい」
そして、少し間を置いてから口を開いた。
「では……この世界について教えよう」
「は、はい」
コホンッ。
オルガは咳払いをする。
「まず、この世界には我ら魔族以外に、さっきお前が言った人族、エルフ族、獣族がいる」
「他にも色々な種族が存在しているが、代表的なのはここら辺だろう。そして、それぞれの族の中にも種類があってな。我らは魔族の中の魔人種だ」
『そ、そんなに種族がいたのか!』
『全然知らなかった!!』
「そして、ここからはなぜお前にまだ説明していなかったかだ」
「は、はい」
オルガは静かに続ける。
「そもそも我ら魔人は、人族と関わる必要がないからだ」
「そ、それはどうして?」
「歴史だ」
オルガの表情が、わずかに曇る。
「人と魔人には……深い歴史があるのだ」
オルガは少し視線を落とし、静かに語り始めた。
「魔人と人はな……昔から、決して相容れない存在だったと言われている」
「それこそ、数百年も昔からな……」
オルガの話は、断片的なものだった。
「人族は我ら魔族を恐れ、忌み嫌った」
「そして、いつしか人族は我ら魔人のみをこのヴェリタスへと押し込め、巨大な結界を張り巡らせたのだ」
オルガは拳を握りしめる。
「その結界のせいで、我ら魔人種はヴェリタスから外へ出ることができず、外部からの情報もほとんど遮断されてしまった」
「人族がなぜそんなことをしたのか……その真実は、今となっては誰も知らない」
「歴史を記した書物も、そのほとんどが長い年月の中で失われてしまったからな……」
マーシャも暗い顔でオルガの話を聞いている。
「だからこそ、我ら魔人は人族のことを語るのを避けるようになったのだ」
「人族のことを知ったところで、この結界の中で生きていくしかない我らには、何の役にも立たない」
「ただ、人族への憎しみや恐怖を募らせるだけだからな……」
オルガはレイノスを見つめた。
その眼差しは、先ほどとは違って優しかった。
「レイノス、お前が人族のことに興味を持ったのは仕方がない」
「だが、人族のことを深く知ろうとすることは、お前にとって何の利益にもならない」
「それどころか……お前を危険に晒すことにもなりかねないのだ」
オルガはそう言って、レイノスの頭を優しく撫でる。
「今は、このヴェリタスで……俺たち家族と一緒に、幸せに暮らしていくことだけを考えなさい」
レイノスはオルガの話を聞きながら、複雑な思いを抱いていた。
『……人族と魔族には、何かある』
『でも……本当に、それだけなのか?』
オルガは大きく頷き、立ち上がる。
「では、俺はそろそろ寝るぞ!」
「おやすみなさい、オルガ!」
「おやすみなさいませ、お父様! ありがとうございました!」
オルガが自室へ戻った後、マーシャがレイノスを抱きしめる。
「大丈夫よ、レイノス。この国もそんなに小さくないわ!」
「心配することないわよ。人族も襲ってくることもないわ」
「はい、お母様」
マーシャはレイノスの額にキスをする。
「さあ、そろそろレイノスも寝る時間よ」
そして、レイノスはマーシャと寝室へ向かった。
二人はベッドに入り、火を消す。
※オルガは毎朝早いため、別の部屋で寝ている。
「おやすみなさい、レイノス」
そう言うと、マーシャはすぐに眠ってしまったようだった。
『マーシャも疲れてたんだろうな』
レイノスはマーシャの寝顔をじっと見る。
『まあ、俺は正直、早く自分の部屋が欲しいな』
『夜更かしして本を読みたい!』
『ほんとは今こっそり起きて、本を読んでいたいけど……流石に今日は疲れたな』
レイノスは深く息を吐き、静かに目を閉じた。
『……それにしても、あの中にいる声……』
『「マジック・オペレーション・システム」だっけ』
『あれって、俺が強く意識したり、あの魔法陣を見たりしないと反応しないんだよなぁ』
『あと、普通に名前長いし!』
『アルファベットの頭文字を取って、MOS――モスって呼ぼっ!』
レイノスは寝返りを打つ。
『それにしてもMOSは自分から語りかけてこないし、自我があるわけでもない』
『あくまで自分が意識したときにだけ起動する、極めて機械的なシステムだなぁ』
『使い勝手がいいのやら悪いのやら……』
『まあ、魔法が使えたから、いい能力ではあるな!!』
『また明日が楽しみだ!!』
レイノスは布団の中で、小さな笑みを浮かべた。
そうして、明日の予定を思い描きながら、レイノスは深い眠りへと落ちていった。
投稿遅くなってしまいましたー!




