第0.8話 「MOS(マジック・オペレーション・システム)」
パシュッ!
パシュッ!
乾いた音が、朝の庭に響いた。
レイノスは右手の人差し指を前に突き出し、狙いを定めていた。
指先から放たれた水滴が、少し離れた木の幹に当たって弾ける。
『よし。だいぶ慣れてきたな』
魔法を使い始めてから数日。
この短い期間で、レイノスは魔法についていくつかの法則を発見していた。
『まず、魔法を発動するには魔法陣が必要だ』
右手のひらを上に向け、意識を集中させる。
すると、手のひらの上に青白い魔法陣が浮かび上がった。
『体内の魔力を集中させれば、魔法陣を展開できる。そして、そこに魔力を流し込む』
魔法陣が淡く輝き始める。
『あとは、放つイメージをするだけ!』
「放て!」
バシュッ!
水の球が空へと打ち上がり、弧を描いて飛んでいく。
レイノスが手を握ると、魔法陣は音もなく消えた。
『よし、成功!』
満足げに頷く。
『ただし、普通は詠唱が必要らしい』
以前、イソ爺から教わった話を思い返す。
『たぶん、詠唱によって魔力の流れを整え、魔法陣を構築するための計算を補助しているんだろう。言葉を手がかりにして、魔力の波形を合わせている……とか?』
『もちろん、確証はない。けれど、少なくとも俺の場合は違う。』
『俺にはMOSがあるからな』
『MOS――マジック・オペレーション・システム。
魔法陣の展開を最適化し、魔力の流し込みまでバックグラウンドで同期処理してくれる。しかも、その処理はミリ秒単位。』
『おかげで、詠唱をしなくても魔法を発動できる。』
『本当に便利な能力だよな。問題は、こいつが何をどうやっているのか、俺自身がさっぱり理解できていないことだけど……』
考えても答えは出ない。
レイノスは気持ちを切り替え、今度は右手を大きく広げた。
魔法陣が先ほどよりも大きく展開される。
『魔法陣の大きさも、ある程度は自由に変えられる。つまり――』
さらに大きく。
もっと大きく。
魔法陣が広がり、レイノスの腕を覆い尽くすほどになった。
『おおっ! すごい!』
しかし、喜んだのも束の間。
パキッ。
魔法陣の一部に亀裂のような光が走った。
次の瞬間、魔法陣は霧のように崩れ、跡形もなく消えてしまった。
「えっ、もう消えた!?」
レイノスは慌てて手のひらを確認する。
『今のは魔力不足……じゃないよな。そもそも、魔法を放つ前に魔法陣そのものが消えた』
『ならば、逆はどうだろう。』
今度は手を握り込み、魔法陣を小さくする。
青白い円が縮み、指先ほどの大きさになった。
しかし――。
パチンッ!
小さな光が弾け、魔法陣は一瞬で消滅した。
「うわっ!」
レイノスは思わず手を引っ込める。
『大きすぎても、小さすぎても駄目なのか……』
頭の中で、さっきの現象を整理する。
『大きすぎると、魔法陣の面積に対して計算式の情報密度が足りなくなる。逆に小さすぎると、計算式の線同士が近づきすぎて干渉する……そんなところか?』
『あくまで仮説だ。
それでも、魔法陣の大きさには限界があるらしい。』
『こういうのを調べるの、結構楽しいな』
レイノスは再び右手を銃の形にし、指先に小さな魔法陣を展開した。
『さて、次は威力だ』
まずは魔力を少しだけ流し込む。
「放て」
ピューッ。
指先から細い水が飛び出した。
水鉄砲と大差ない威力だ。
『まあ、こんなもんか』
今度は魔力を多めに流し込む。
「放て!」
バシュッッ!
勢いよく飛び出した水が、正面の木に直撃した。
ドスッ。
幹の表面が削れ、小さなくぼみができる。
「おおっ!」
レイノスの目が輝いた。
『すごい! 同じ魔法陣なのに、ここまで威力が変わるのか!』
『だが、魔力を流し続ければ無限に威力が上がるわけではない。
一定以上の魔力を流し込むと、魔法陣は不安定になり、維持できなくなる。』
『魔法陣が処理できる魔力量にも限界があるってことだな。大きさと威力は別の要素だけど、まったく無関係ってわけでもなさそうだ』
レイノスは腕を組んだ。
『高圧洗浄機だって、圧力や水量、ノズルの形によって威力が変わる。魔法も似たようなものなのかもしれない』
『もちろん、まだ分からないことだらけだ。
だからこそ、試す価値がある。』
『そして、最後はこれだ!』
レイノスは両手を前に突き出した。
今度は自分の手のひらではなく、数メートル先の空間に意識を向ける。
すると――。
ブワッ。
離れた場所に、青白い魔法陣が浮かび上がった。
『よし! 成功!』
さらに意識を傾けると、魔法陣がゆっくりと上を向く。
「放て!」
フシャァァァッ!
魔法陣から水が噴き出し、空中に噴水のような弧を描いた。
水しぶきが朝日に反射して、きらきらと輝く。
『視界に入っていれば、離れた場所にも魔法陣を展開できる。向きもある程度は自由に変えられる……と』
『ただし、距離が伸びれば伸びるほど魔力の消費は増える。
魔法陣を直接手のひらに展開するほうが、魔力を流し込みやすく、維持するための負担も少ないようだった。』
『まあ、こんなところかな』
レイノスは手を下ろした。
空中の魔法陣が消え、水しぶきだけが地面に落ちていく。
『この数日で、魔法についてはだいぶ分かってきた。でも……』
レイノスは自分の手のひらを見つめた。
『MOSについては、まだ何も分かっていないんだよな』
『魔法を使うとき、頭の中には見慣れない計算式が浮かび上がる。
けれど、読めない。意味も分からない。
MOSが裏側で何かをしてくれているのは確かだが、それが具体的に何なのかは分からないままだ。』
『まあ、焦る必要はないか。分からないことは、これから少しずつ調べていけばいい』
そう考えていた、そのとき。
ガチャッ。
玄関の扉が開いた。
「レイノス~! ご飯できたわよ~!」
マーシャが顔を覗かせる。
「はーい! 今行きまーす!」
レイノスは返事をして、家へと駆け出した。
『そうだ! 今日は本の続きを読もう!』
頭の中に、あの魔導書のことが浮かぶ。
『でも、今日はマーシャも仕事が休みだし、珍しくオルガも家にいるんだよな……。居間で読むわけにもいかないし、どこで読もう?』
扉に手をかけたところで、レイノスはぴたりと動きを止めた。
『……そうだ! 地下室で読めばいいじゃないか!』
名案を思いついたとばかりに、レイノスは勢いよく扉を開けた。
* * *
「ごちそうさまでした!」
「はい、お粗末さま」
朝食を終えたレイノスは、さっそく地下室へ向かおうとした。
『おっと、そうだ。これを持っていかないと』
手持ちの蝋燭をつかみ、階段を下りていく。
一歩、また一歩。
地下室へ続く石段を踏みしめると、最後の段を踏み終わると以前と同じように壁の松明へ火が灯った。
ボッ、ボッ、ボッ。
暗闇が少しずつ明るくなる。
『……あれ? そういえば、これも魔法陣で動いてるんだよな』
レイノスは床に目を向けた。
床には刻まれた魔法陣がある。
ところどころ埃をかぶり、線もかすれていた。
『そういえば、今まで気にしたことがなかったな』
しゃがみ込み、手でそっと埃を払う。
魔法陣の模様が、少しずつ姿を現した。
その瞬間――。
【未確認の魔法陣を検知。解析を行いますか?】
『おっ?』
「行う」
【……解析成功】
【判定:火属性の設置型魔法陣です】
【あらかじめ設定された座標に対して、火属性の現象を発生させる構造です】
「設置型……?」
レイノスは、壁の松明を見上げた。
「つまり、この場所に火をつけるための魔法陣ってことか」
『なるほど。』
『確かに、わざわざ手で魔法陣を展開しなくても、決められた場所で自動的に魔法を発動させられるなら便利だ。』
『これも使えるようになれば、いろいろ応用できそうだな』
そう思った矢先だった。
【警告:対象の魔法陣に物理的摩耗、および魔力伝導経路の破綻を検知】
【魔力伝導経路に短絡現象――ショートが発生しています】
「え? どういうこと?」
【警告:構造の最適化、およびデータベースへの登録には、過剰な演算処理が必要です】
「えっと……つまり、今すぐには使えないってこと?」
【推定処理時間:計測不能】
「そんなぁ……」
レイノスは肩を落とした。
『せっかく面白そうな魔法陣を見つけたのに……』
「なんとかならないのか? 無理やり使うとか!」
【警告:該当の設置型魔法陣は回路が劣化しています。修復を行わずに即時登録を試みた場合、莫大な魔力リソースを消費する可能性があります】
「魔力を使うだけなら、別に……」
【予想魔力消費量:ユーザーの現在の全保有魔力量を超過】
【警告:実行した場合、急激な魔力枯渇による意識障害、および魔法使用不能状態に陥るリスクがあります】
「うげぇっ! それは絶対にダメだ!」
レイノスは即座に手を引っ込めた。
『危ない危ない……。便利だからって、何でも試せばいいってもんじゃないな』
『さすがに意識を失うのはごめんだ。』
しかし、MOSはそこで話を終わらせなかった。
【提案:優先度を下げ、バックグラウンドで段階的な解析・修復処理を実行しますか?】
「えっ、そんなこともできるのか?」
【推定処理時間:不確定。長期間にわたる可能性があります。演算リソースの空き状況に応じて、処理速度を自動調整します】
「なるほど……。それなら、ほかのことをしながら直せるんだな」
「処理中に何かデメリットはある?」
【ユーザーが使用する魔法の威力、および同時に維持可能な魔法の数に制限がかかる場合があります】
『ふむ……』
レイノスは少し考え込んだ。
『完全に安全とは言い切れない。けれど、即座に魔力を使い果たすような危険は避けられるらしい。』
『それに、今の俺が使える魔法なんて、たかが知れてる。多少制限されたところで、そこまで困らないだろう』
「分かった。実行してくれ」
【この魔導式の復元、およびMOSへの書き込みを開始します】
【優先度:最低】
【進捗:0%】
その瞬間、頭の奥に何かが入り込んでくるような感覚が走った。
「……っ!」
思わず眉をひそめる。
しかし、痛みはすぐに引いていった。
『今のは何だったんだ……?』
少し不安は残ったものの、目の前の魔法陣に変化はない。
「よし! いつか使えるようになるのが楽しみだな!」
レイノスは立ち上がり、持ってきた魔導書を手に取った。
「あ、そうそう! 今日はこっちが本命だった!」
床に本を置き、ページをめくっていく。
しかし――。
「……文字ばっかりじゃないか!」
何ページめくっても、見慣れない文字がびっしりと並んでいる。
「読めないんだから、勘弁してくれよ……」
ぶつぶつと文句を言いながら、さらにページをめくる。
そして、ようやく。
「あっ! あった!」
見覚えのある魔法陣が目に飛び込んできた。
ただし、最初のページに載っていたものとは違う。
模様は明らかに複雑になり、外側には二重の円枠まで描かれている。
『これは……前に見た水魔法とは別物だな』
レイノスは魔法陣をじっと見つめた。
「……解析!」
【ユーザーの意思を検知】
【対象の未登録魔導式、および魔法陣の解析・演算を開始します】
『おおっ! 試しに言ってみただけだけど、ちゃんと反応した!』
やがて、頭の中に声が響いた。
【解析・演算成功】
【判定:中位の水魔導式】
「中位……?」
『いわゆる中級魔法ってことかな?
そのとき、頭の中に複雑な計算式が浮かび上がった。
『ああ、これこれ。魔法を使うときに毎回見えるやつだ』
細かな記号と線が、頭の中で次々と組み上がっていく。
『相変わらず何が書いてあるのか分からないけど……』
レイノスは苦笑した。
『まあ、意識しなければ邪魔にはならないし、今は気にしないでおこう』
【分析:既知データ『初歩の水魔導式』の上位互換構造と判定】
【データベースへの書き込みを試みますか?】
「……あ」
レイノスは、ふと先ほどの魔法陣を思い出した。
『そういえば、今は設置型魔法陣の修復処理をしている最中だったな。別の魔法陣まで登録して大丈夫なのか?』
少しだけ迷う。
しかし、すぐに思い直した。
『いや、MOSが処理を自動調整するって言ってたし……。さっきのは壊れた魔法陣だったけど、こっちは本にちゃんと描かれている。たぶん大丈夫だろう』
「実行する!」
【……書き込み成功】
【対象『中位の水魔導式』をローカル・データベースへ登録】
「えっ、早っ!?」
思わず声が出た。
さっきの設置型魔法陣は、登録するだけでも大変そうだったのに。
『……あ、そうか!』
レイノスはぽんと手を打った。
『あっちは回路が壊れていたから、修復しながら解析しなきゃいけなかったんだ。でも、こっちは正常な魔法陣が本に残っている。しかも、すでに登録してある初歩の水魔導式と似た構造だから、追加するだけで済んだのか!』
頭の中に、先ほどまで使っていた水滴や水の球とは明らかに異なる計算式が展開される。
複雑に絡み合う線。
二重の円枠。
そして、そこに組み込まれた見慣れない構造。
『すごい……。これが中位の魔法か』
胸が高鳴った。
『これを使えば、今までとは比べものにならない魔法を発動できるかもしれない。』
『……ちょっとだけ、試してみるか』
レイノスは地下室の奥にある石壁へ向き直った。
念のため、周囲を確認する。
ここなら、多少水が飛び散っても問題ないだろう。
そう判断すると、両手を前に伸ばし、深く息を吸った。
魔力を集中させる。
そして――。
「デプロイ――!」
ブワッ!!
青白い光が弾けた。
レイノスの手のひらの前に、巨大な魔法陣が浮かび上がる。
庭で使っていたものとは比べものにならない。緻密な模様が幾重にも重なり、二重の円枠が強い光を放っていた。
「す、すごすぎる……!」
レイノスは思わず息を呑んだ。
『なんだこれ……! 想像していたより、ずっと大きい!』
魔法陣の美しさに目を奪われる。
しかし、すぐに違和感を覚えた。
『……いや、待て。大きすぎないか?』
レイノスは魔法陣を小さくしようと意識した。
『縮め。』
『縮め!』
……縮まない。
「な、なんで!?」
もう一度試す。
それでも、魔法陣は微動だにしなかった。
『まさか……バックグラウンド処理の影響か!?』
次の瞬間。
ゴォォ……。
魔法陣の中心が、青白く輝き始めた。
「えっ?」
空気が震える。
魔法陣の内側に、目に見えない力が集まっていくのを感じた。
「ちょ、ちょっと待て! まだ撃つつもりは――」
魔法陣がさらに強く光る。
レイノスの顔から血の気が引いた。
『まずい……! このままじゃ勝手に発動する!』
慌てて魔力の流れを調整する。
『せめて威力だけでも抑えよう。
これ以上、魔力を流すな。』
『落ち着け。
少しずつ、少しずつだ……!』
レイノスは必死に魔力を制御しながら、じりじりと後退した。
「よ、よし……! 少し落ち着いてきた……!」
そのときだった。
グニッ。
「……へ?」
足の裏に、嫌な感触があった。
次の瞬間、レイノスの体が大きく傾いた。
床に置いてあった蝋燭を踏んでしまったのだ。
「う、うわあああっ!」
体勢を立て直そうと手を伸ばす。
しかし、間に合わない。
転倒した拍子に、魔法陣の向きが大きく変わった。
その先にあるのは――地下室の天井。
『やばい!!』
青白い光が、地下室を真昼のように照らした。
そして。
バァァァァァンッッ!!
轟音が地下室を揺るがした。
巨大な水の塊が、魔法陣から猛烈な勢いで放たれる。
衝撃は凄まじかった。
レイノスの体は爆風のような反動に押され、床を転がった。
ガタガタガタッ!
本棚が大きく揺れ、次々と倒れていく。
壁に設置されていた松明も、衝撃で一斉に火を失った。
そして――。
地下室は、真っ暗になった。
「う、ううぅ……」
レイノスは床にうずくまったまま、しばらく動けなかった。
『体が痛い。
頭がくらくらする。
何より、何が起きたのか理解が追いつかない。』
そのとき、頭の中にいつもの声が響いた。
【――中位の水魔法の発動に成功しました】
【術式データを『MOSノート』へ最適化し、保存します】
【バックグラウンド処理を一時停止します】
【……保存完了】
「……もう、なんなんだよ……」
レイノスは天井を見上げた。
『成功って……。いや、成功はしたけどさ!』
『成功してほしいのは、そういうことじゃない。
そもそも、発動させるつもりすらなかったのだ。』
その直後。
ドタドタドタドタッ!!
階段の上から、尋常ではない勢いで足音が響いてきた。
『……あ』
レイノスの思考が止まった。
『やばい。オルガとマーシャが来る……』
逃げようにも、体が動かない。
『……終わった』
「レイノス!? レイノス、大丈夫!?」
「今の音と揺れは何だ!?」
蝋燭を手にしたマーシャと、木剣を握りしめたオルガが地下室へ駆け込んできた。
「レイノス!」
マーシャは倒れた本棚のそばにいるレイノスを見つけると、すぐさま駆け寄った。
「怪我はない!? どこか痛いところは!?」
レイノスの肩を抱き、頭から足先まで確かめる。
「う、うん……。大丈夫だよ、お母様……」
「本当に? 無理していない?」
「うん……」
マーシャはようやく息をついた。
一方、オルガは木剣を構えたまま、地下室の奥を見回していた。
何かが侵入したのではないか。
何かが潜んでいるのではないか。
周囲を警戒し、異常がないことを確認してから、ようやく木剣を下ろした。
「……何があった?」
視線の先には、派手に倒れた本棚と、床一面に散らばった本。
そして、煤けた壁。
「……本棚が倒れたのか?」
オルガが眉をひそめる。
マーシャはレイノスを抱きかかえながら、ほっとしたように言った。
「本を取ろうとして、バランスを崩しちゃったのかしら……」
そして、レイノスの顔を覗き込む。
「もう! びっくりさせないでよ! 怪我がなくて本当によかったわ……!」
「ごめんなさい、お母様……。お父様も……」
マーシャは胸を撫で下ろし、レイノスの頭を優しく撫でた。
「まったく……。いったい、そんなに何の本が読みたかったの?」
マーシャは周囲を見回す。
「ここの本は読めないものばかりだし、古くて傷んでいるものも多いのよ?」
オルガも倒れた本棚を持ち上げ、元の位置へ戻し始めた。
「そうだな。ここにあるのは、読めない古文書ばかりだ」
散らばった本を一冊ずつ拾い上げ、積み重ねていく。
そのときだった。
「……ん?」
オルガの手が止まった。
床に、一冊の本が開いたまま落ちている。
そのそばには、レイノスが持ち込んだ蝋燭も転がっていた。
「これが読みたかったのか?」
オルガは本を拾い上げた。
表紙には見慣れない模様が刻まれている。
しかし、文字は読めない。
「……ふむ」
考え込むように本を眺めていたが、マーシャに呼ばれて顔を上げた。
「あなたー? こっちは片付いたわよー!」
「ああ、今行く」
オルガは本を懐にしまい、階段へ向かった。
そのとき。
ぽつん。
「……ん?」
首筋に、冷たいものが一滴落ちてきた。
オルガは足を止め、ゆっくりと天井を見上げた。
しかし、暗くてよく見えない。
「……水漏れか?」
小さく呟く。
「あなたー? どうしたのー?」
階段の上からマーシャの声が聞こえた。
「あ、いや……何でもない。今行く」
オルガは首を傾げながら、階段を上っていった。
* * *
――翌日。
レイノスは街を歩いていた。
『昨日は……それはもう、大変だった』
脳裏に浮かぶのは、地下室での大惨事。
家全体が揺れるほどの轟音を立てたのだから、当然といえば当然だが――。
『あのあと、マーシャにめちゃくちゃ怒られたんだよな……』
居間に運ばれたレイノスを待っていたのは、マーシャの大説教だった。
「だめじゃない、レイノス! あそこには古い本棚がたくさんあるのよ!? 倒れてきたらどうするの!」
「ご、ごめんなさい……」
「もし頭に当たっていたら、大怪我をしていたかもしれないのよ!」
「……ごめんなさい」
いつも優しいマーシャが、本気で怒っている。
レイノスはひたすら頭を下げるしかなかった。
『その後も全身をくまなく確認され、幸い怪我は見つからなかったものの、当分の間、地下室への出入りは禁止となった。』
『まあ……怒られて当然だよな』
レイノスは小さくため息をついた。
その後、地下室の片付けを終えたオルガが、例の魔導書を持って居間に戻ってきた。
「レイノス。お前が地下室で取ろうとしていたのは、この本だな?」
「あ、はい……」
オルガは本を見下ろし、それからレイノスへ視線を戻した。
「読めもしない古本を持ち出そうとして事故を起こすとは……困ったものだ」
「……ごめんなさい」
「だが」
オルガは本を差し出した。
「そこまで興味があるのなら、この一冊はお前にやろう」
「えっ!? いいのですか?」
「ああ。ただし、二度と勝手に地下室へ入らないと約束しろ。いいな?」
「はい! 約束します!」
レイノスは本を受け取った。
『やった……!』
心の中で拳を握る。
どうやら、オルガにとっても地下室の本は、解読できない謎の古文書にすぎないらしい。
怪我がなかったこと。そして、本を傷つけずに大切そうに扱っていたことから、ただの子供の好奇心だと判断してくれたのだろう。
『怒られたのは災難だったけど……結果的には大収穫だ!』
レイノスは胸の中で笑った。
『これで、こそこそ本を持ち出す必要もなくなった!』
そして、もう一つ。
あの事故の直後に、頭の中へ流れてきた声も気になっていた。
【――中位の水魔法の発動に成功しました】
【術式データを『MOSノート』へ最適化し、保存します】
『……もしかして、魔法陣をうまく操るには、一度ちゃんと発動させる必要があるのか?』
『まだ確証はない。』
『けれど、昨日の暴発を思い返すと、そんな気もする。』
『まあ、次はもう少し慎重に試そう……』
そう決意しながら街を歩いていると――。
「よぉーー! レイノスー!」
活気のある声が響いた。
「レザラムさん、こんにちはー!」
振り返ると、レザラムが大きく手を振っていた。
『相変わらず元気だなあ、レザラムさん』
レイノスも笑顔で手を振り返す。
軽く挨拶を交わし、そのまま目的地へと向かった。
向かう先は、イソ爺の店だ。
『前回は、初歩の魔法陣のところまでしか読んでもらえなかったからな』
歩きながら、レイノスは魔導書を抱え直した。
『今はもう中位の魔法陣も使えるようになった。でも、あの本には魔法の仕組みや使い方が書かれているかもしれない。俺が見落としていることだってあるはずだ』
それに――。
『できれば、古文字の読み方も教えてもらいたい。いつまでもイソ爺に読んでもらうだけじゃ、先に進めないからな』
自分で読めるようになれば、もっと多くのことを学べる。
それは、レイノスにとって大きな一歩になるはずだった。
やがて、見慣れた店が見えてきた。
レイノスは扉を開ける。
カラン、カラン。
「こんにちは、イソキルスンさん!」
「おお、ぼっちゃんか。いらっしゃい」
カウンターの奥から、イソ爺が顔を出した。
「どうじゃ? あれから魔法のことは、誰にも話しておらんじゃろうな?」
「はい! もちろんです! 僕が魔法を使えることを知っているのは、イソキルスンさんだけです!」
「ほっほっほ。イソ爺でよい」
「分かりました、イソ爺!」
レイノスが元気よく答えると、イソ爺は満足そうに笑った。
「さてさて、魔法使いの天才が今日は何の用で来たのかの?」
「あはは! 実はですね――」
レイノスは抱えていた魔導書を取り出し、カウンターの上に置いた。
イソ爺は表紙を見るなり、目を細めた。
「……またその本か。前に見せてくれたものじゃな」
「はい! 今日は、この先のページを読んでほしいんです!」
レイノスは本を開き、昨日解析した中位の水魔導式が描かれたページを広げた。
複雑な模様と、二重に囲まれた円枠。
それを見たイソ爺は、眼鏡の位置を直しながら身を乗り出した。
「ふむ……これは前に読んだものより、ずいぶん複雑じゃな」
「よ、読めそうですか?」
「なあに、任せい」
イソ爺は古文字と魔法陣を交互に見比べながら、ゆっくりと説明を始めた。
「まず、見てみぃ。この外側に描かれた二重の円枠じゃ。初歩の魔法陣には、こんなものはなかったじゃろう?」
「うん。前のやつにはなかった!」
「この外枠は、増幅された魔力を外へ逃がさず、一定の圧力で封じ込めるための壁のようなものじゃ」
イソ爺は円枠を指でなぞった。
「初歩の術式なら、単純に魔力を現象へ変換するだけで済む。じゃが、中位の術式ともなると、扱う魔力も威力も段違いじゃ。外枠で圧力を保たねば、発動する前に魔法陣そのものが破裂してしまうのじゃよ」
「なるほど……! 魔力を閉じ込めておくための仕組みなんですね」
「そういうことじゃ」
レイノスは熱心に頷いた。
魔法陣を見ただけでは分からなかった構造が、少しずつ言葉になっていく。
「ほかには、何か分かりますか?」
「うむ……」
イソ爺はさらに目を細め、複雑な模様を見つめた。
「この模様も、ただの飾りではなさそうじゃな。魔導式そのものが、初歩のものよりずっと複雑になっておる」
「魔導式……?」
「おそらく、魔力の流れを制御したり、威力を増幅したりするための式が組み込まれておるのじゃろう」
そう言って、イソ爺は困ったように眉を下げた。
「じゃが、わしは魔法の専門家ではないからの。この部分を詳しく解読するのは難しい。すまんのう」
「い、いえいえ! 全然大丈夫です!」
レイノスは慌てて首を振った。
「ここまで分かっただけでも、すごく助かります!」
「そうか……。ぼっちゃんが中位の魔法を使えるようになる助けになればと思ったのじゃがな」
「えっ?」
レイノスは、ぽかんと口を開けた。
「……どうしたのじゃ? そんな顔をして」
「あ、そういえば伝えるのを忘れていました。中位の魔法なら、もう使えるんですよ」
「…………へ?」
イソ爺の動きが止まった。
レイノスは何気なく横を向き、右手を前に突き出した。
ブワッ。
青白い光が広がる。
目の前に、本に描かれたものと同じ中位の魔法陣が浮かび上がった。
「ほら、こんな感じで!」
「…………」
沈黙。
「伝えるのを忘れてしまって、すみません! でも、もう使えるんです!」
「……は?」
次の瞬間。
「はあああああああああ!?」
店中に、イソ爺の叫び声が響き渡った。
「もう使えるとは、どういうことじゃぁぁ!? お主、この本の文字すら読めんのじゃろう!?」
「えっ、あ、はい!」
「それなのに、なぜ使えるんじゃぁぁ!?」
レイノスは慌てて魔法陣を消した。
「えっと……たぶん、魔法陣の構造を解析できるから、だと思います」
「解析……?」
「はい。僕が考えるに、この魔導式には魔力の圧力を高めたり、波動を放つための仕組みが書かれているんじゃないかと……」
イソ爺は、しばらくレイノスを見つめていた。
やがて、深々と息を吐く。
「……はぁ。ぼっちゃんには、いつも驚かされるわい」
「いえいえ、そんなことは……!」
レイノスは照れくさそうに笑った。
しかし、イソ爺の視線は、先ほどの魔法陣が浮かんでいた空間へ向けられたままだった。
『……しかも、今のも詠唱なしじゃった』
そんな呟きが聞こえた気がしたが、レイノスにはよく分からなかった。
「それで、もう使えるのなら、なぜわしに聞きに来たのじゃ?」
「ああ、それはですね。魔法陣の仕組みや使い方が、まだよく分かっていないからです。この本に何か書いてあるんじゃないかと思って」
「なるほどのぉ……」
イソ爺が感心したように頷いた、そのときだった。
カラン、カラン。
店の扉が開いた。
「おじいちゃん! 頼まれてた薬草のお使い、行ってきたよー!」
明るい声が店内に響いた。
レイノスは、そちらへ顔を向けた。
片手に小さな籠を提げた女の子が、元気よく店へ入ってくる。
鮮やかな桃色の髪が、動きに合わせてふわりと揺れた。
『……ん? あの髪の色……』
「おお、おかえり」
イソ爺が優しく目を細める。
「あら?お客さんなんて珍し――」
少女はそう言いかけ、店内にいるレイノスへ視線を向けた。
そして。
二人の動きが、ぴたりと止まった。
「「あ……!」」




