(4) 酒場の夜
「ヴェイラちゃん!こっちにエールひとつ!」
「はい」
「ヴェイラちゃーん、こっちはナッツの盛り合わせ追加ね~」
「はい、ただいま」
「ヴェイラちゃん、娘の誕生日プレゼントなんだけどさあー」
「ご自分で考えなさいまし」
ばたばたと、忙しく夜が更けていく。酒場がクローズする頃合いには、マリアはすっかり息を切らしていた。
(はあ、……フランチェストの王妃たるものが情けない。しっかりなさい、マリア。こんなところでくじけている暇はなくてよ)
「やあ“マリア”。お疲れ」
「──“ロジェ”」
彼が顔の横で、木札のついたルームキーを揺らす。酒場の主である夫婦はロジェにそれを渡して自分たちも仮眠室へと引っ込んだようだ。いつの間にか日付が変わり、とっぷりと夜が暮れていた。
マリアたち二人に割り当てられたのは、階段を上がったすぐ奥にある中二階の角部屋である。おそらく気を遣っていい立地を貸してくれたのだろう。安宿だと日中主は卑下していたが、小さいながら、掃除や手入れの行き届いた小綺麗な部屋だ。大窓からは夜の港がよく見える。
マズラン港は眠ることなく、ちらちらとカンテラの明かりが揺れ動いていた。
「凄い景色だ。さすが『鉄の港』と呼ばれただけはある。朝方まで灯を絶やさずに作業するんだろうなあ」
「ええ、そうね」
揃って言葉少なに外を眺める。フランチェストの窓から見える長閑な景色とは全く異なる風景なのが不思議だった。国が違う、とはこういうことか。それとも、ただ自身が夜の帳に心許なくなってしまっただけなのか。答えは出ない。
やがて沈黙を味わい切ったころに、ロジェはそっと口を開いた。
「あのねマリア。実は、知っていたんだよ」
「え?」
「【マズラン港】がひどい状態である、ということ。嘆願書が届いていることも、……国に帰ってこない船乗りや積み荷が多々あることも、僕は知っていた」
ああ、そうか。そうなのだろう。彼の口から直接そうと語られれば、日中の疑問は確かに霧散する。
ロジェは知っていたのだ。だから彼はマリアのように桟橋で足を止めることはなく、アトラスではなくこの港で降りる、と、商人たちに我を通したのだろう。
「父上の手腕は確かに素晴らしいものだ。フランチェストという大国を導く人間として申し分なく、外交・内交ともにこれ以上はないほど優れた素質をもっていた」
窓枠に手を掛けて、懐かしむように彼は視線を空に伸ばす。曇天の空、月だけが朧に輝いている。凪の瞳が少し複雑に揺れていた。
「だけど大国の祖として優れるということは、小さな市井の日々における悲しみや苦痛に対しては鈍感ということだ。敢えてでも、本意でも……僕にそれは重たすぎる。きみは、今更こんなことを言わなくたって分かってくれているだろうけどね」
昼間、ロジェが楽しそうに属国の平民である人間に手を貸していた姿を思い起こす。加えて今日の晩、酌を担いで軽やかに歩きまわっていた姿のことも。
「マリア、どうすればいいのだろう」
「──」
「この港ひとつ見過ごしていた僕が、宗主国の王として彼らにしてやれることはとてもちっぽけだ。木箱を五つ担いでやっても彼らの日々は潤わない。薬にむしばまれた者を正気に戻すこともできなければ、飢えた人々皆にパンとミルクを毎日与えてやることすらも現実的には不可能だ。旅人ならそれでいいかもしれないけれど、主従の国には搾取が生まれ、利権が絡む。これは絶っても断ち切れない」
「こうして冠を受け取ってみても。世界というのは、実にうまくはいかないなあ」
「──っ」
背中から彼を抱きしめる。さもなくば消え入ってしまいそうだった。
自身の視点の甘さも恥じ入るばかりだ。何せこの期に及んで自身は『そんな顔をさせるのなら、いっそ連れてこなければよかった』と思ってしまうから。
「何が、できるのでしょうね」
形ばかりは同調を示す。懐に回したマリアの指先を握りこんで、彼は「うん」と小さく述べる。
……きっと賢い彼は分かっているのだろう。
彼の持つ、王としての正しい苦悩に、マリアが本当の意味で寄り添ってなどやれないことは。
「……さあ、もう今日は眠ろうか。慣れない労働で顔に疲れが出ているよ。お客さんたちの話でいくつか気になることも聞けた。明日は街道の先へ出てみよう」
「ええ、……そうね。あなたの言う通り、今日は少し、疲れたから。お互いゆっくり休みましょう」
ふたり、窮屈なベッドで横になる。誰の視線もない、普通の夫婦のような距離感だ。マリアはそっとロジェの指先に触れて、静かに目を閉じた。
……あなたの隣にいる人が、もし、聖女のような女なら。
(あなたはきっと、今より幸せだったわね、ロジェ──)
私は何度も、あの日と同じ夢を見る。
聖女になれない、愚かな悪妃の慟哭だけが、毎夜、耳にこびりついていた。
────
──
差し込む日差しで目を覚ます。大窓の外、マズラン港は快晴だ。雲一つない晴天の春風にくっと背筋を伸ばせば、隣にはうつらと眠る愛しいひとの顔がある。
……ああ、今日もいい朝だ。『私』には、それだけでいい。
マリアがそっと身じろげば、ロジェは小さく寝込みで呻く。しばらくシーツの海で駄々を捏ねたあとに蒼穹の瞳がゆるく開かれた。彼は一瞬ぼんやりとして、それから、視界に彼女を捉えると、いたずらな子供のようにマリアのことを引き寄せる。
そうして、いつもの決まり文句。彼は花の咲くように微笑ってみせた。
「──おはよう、僕の可愛いマリア」
「……ええ、おはよう。ロジェーリオ」




