(2)『グランブリトー』
海上にはなだらかな風が吹いていた。マリアたちの治めるフランチェストと今回の目的地である属国グランブリトーは隣国だが、二国の間には『西海』と呼ばれる海が広がっている。そのため、この二国を行き来するための手段は船に限られるのだ。
無論フランチェストにも港湾地域は存在するが、少なくともそれは王都から目と鼻の先というほど近いわけでもないので、物珍しさがあるのは事実だった。
……特に、デッキの前方に立っている、『彼』にとっては。
「わあ──」
外套の男が小さく声を漏らす。蒸気船は豪と飛沫を上げて海上を勢いよく走り抜けていた。
にゃあ、にゃあ、と、長閑にうみねこが上空を舞い遊ぶ。そのすべてに目を輝かせる青年を、悪戯な風が巻いて走り抜けた。
零れ落ちる、蜂蜜色の髪。
後ろに引かれたフードに見開いた蒼穹の瞳。
「──ロジー」
耳慣れない愛称が後ろから響いた。呆れたような女の声だ。『ロジー』と呼ばれた青年は「おっと」と楽しげに返答すると、外套をいそいそ被りなおして片手で抑えた。
「ごめん。ちょっと気が抜けていた。でも、まだ平気だろ?確かあっちの港に着くのは昼過ぎだって話だったし……陽はまだ低いから」
彼は機嫌よくその声の主の指を引く。布の下から穿つように、いたずらめかして片目を閉じた。
「だからさ、少し付き合ってよ、“ヴェイラ(うつくしいひと)”。ここは風が、とても心地いいからさ!」
「……はあ、もう。まったく……」
「あなたって、いつまでもこどもみたいな人ね、“ロジェーリオ”?」
肩を竦め、黒衣の女が苦笑する。
布地からはみ出したヘーゼルの巻き髪が、さらと潮風に揺れていた。
フランチェスト神王国王、ブルフォワ・レ・ロジェーリオ。他でもない彼は今、王妃であるマリアヴェールとともに、属国グランブリトーに向かう交易船のデッキに立って空を仰いでいる。
────
──
何故、フランチェストの王族である二人がそろってここにいるか。それについては少しだけ前に時をさかのぼる。それは先日、マリアが賜ったギフトである【ヘイドスの血】によって3年前に死に戻った日のことだ。「グランブリトーに行く」と、突如ロジェに宣言した彼女に彼は言った。
「そうか。確かにその通りだ。彼らも、等しく僕らの民、か」
「ええ。……とはいえ、長年気にかけられもしていなかった属国だもの。王家に対する反発の可能性は大いにあるわ。だから、私──」
「違いない。では、きちんと変装を整えないとね」
「? あ、ああ。そうね。なじみのいいように、新しくドレスでも仕立てたほうがいいかしら……」
少し視点のずれた意見を伝えてくれた彼の気遣いに頷きを返す。至って真剣に頷いたロジェもベッドサイドから立ち上がると、
「少し時間をくれ、そこで待っていて」
などとと言いながらそそくさと部屋を出る。しばらく廊下の突き当たり──つまりロジェの居室だ──から物音がしていたと思うと、今度はその物音が軽快な靴音に代わる。なにをしているのかしら、と窺っていれば、ばたん、と、威勢よく扉が開け放たれた。
「きゃっ」
「あった!見てくれ、これ!戴冠する少し前にソルが仕立ててくれた旅装なんだけど──、ど、どう?まだいけるかな?多分、サイズは問題ないんだ」
「え、ええと?ロジェ、何を突然……」
「あ、いや。きみが今から仕立てる旅装の隣に立って恥ずかしくないかい?彼のことなら流行に左右されない簡素なデザインにしてくれているはずだけどさ。
ある程度いまどきな方が、若王としてはセンスがいいというか、相応しいんじゃないかって──」
「……ロジェーリオ。まさかとは思うけれど。一緒に来るつもりなの?」
マリアが困惑を露わに問いかける。ロジェはその問いかけが心底不思議だとばかりに微笑んだ。
「もちろん。だって、前王の崩御に依った対応をしに行くというのに、王妃を一人で外交に放り出す王なんかいるわけないだろう」
「そ、れは、そうなのだけれど。でも、だけど」
「マリア、さっきも言ったけど」
ロジェは静かに笑みをたたえたまま、マリアの細い指先を拾う。それから、彼女の灼眼をまっすぐに見つめ返した。
「僕がきみを守るから。……何も、心配はいらないよ」
「──」
うそばかり。だってあなた、死んだじゃない。
そう言ってしまいたい心の内を、静かに奥へと抑え込む。マリアは彼の手を握り返して、顔を上げた。一度だけ。では、もう一度だけ。……信じてみたい。
ふたりでいれば。
それが正しい選択ならば──いつまでも、ともに生きていられるだろうから。
「……分かった」
「マリア」
「でも、ならその旅装はだめね。すぐにあなただとバレてしまいそう。仕立てがよすぎるんだもの。どうせやるなら、とことんやるの。グランブリトーで生きる人々が、どんな価値観と環境で生きているのか、私たちは一度、肌身で学ぶ必要がある」
「そうだね。市井の生活を見るには、そこに混ざることがもっともいい。ということなら、まずは交易連絡船を抑えて……護衛は少人数に、どこかの旅客を装いながら……」
ロジェはマリアに同意して旅装をふわりとベッドに置くと、何かしらの想定を呟きながら考え込んでいる。それがいつもよりずっと楽しそうで、切ない心地になった。
『……それって、そんなに大事なことかな』
ほら。彼はずっと前から、こういう人なのだ。
3年前から突然、ということでもない。現状に平等な興味を持ち、そこに隠された課題を探りだし、彼のできるすべてでそれを探求し、解決するのを是とする。まつりごとの皮を被った野蛮な盤上遊戯なんかは視界にも入っていやしなくて、ただ、いつまでも。目の前の大切なものが幸せであることだけを祈っているのだ。まるで、御伽話の王子のように。
そんなふうに思い淀んでいれば、彼は突然ぱっとマリアの顔を見た。
「よし。それなら、マリア」
「あ、ええ、ロジェーリオ?」
「決めた、僕とお忍びデートをしよう。きみは令嬢のヴェイラ、僕は旅人のロジー。王族としての人間じゃなく、もっと身近な視点から、彼らの文化に触れてみるんだ。……きっと、楽しい旅になる。一生で一番に躍り出るくらい、ね!」
彼は屈託なく笑う。
それは何とも子供じみた、ままごと遊びのような提案だったけれど。
「──……そうね、ロジェ」
「私も、なんだかそんな気がしたの」
と。
気付けば、一も二もなく頷いていた。
────
──
「さ、じきに波止場に着くぞ!慣れてない奴は席に着け!慣性に負けて吹っ飛ぶからな!」
「!ロジー、号令よ。さ、座って……」
「マリア。これは」
「もう、呼び名を決めたのはあなたなの、に──」
海上、波止場の前に船が止まる。そこに広がっていたのは堅牢な黒鉄でできた港だった。活気ある、貿易のかなめ。何艘も船が横に着き、あらゆる土地土地の特産が行き交う鉄の都。
……そう呼ばれたはずの、【マズラン港】は。
「おら、転がってんな、ジャンキーどもめ!お前らにやるもんはなんもねえ、よ!」
「荷を下ろせ!油断するなよ、横から乞食に盗られるぞ!」
……饐えた死臭が漂い、目も当てられないほどに、くすみ切っていた。




