1.1877年 春
「ロジェーリオ、?」
マリアヴェールが信じられないものを見たとばかりに目を見開いた。彼は、彼女がいきなり目覚めたことに少し面食らっていたが、まだ幼さの残る妻が指先を震わせているのを見るとそっとその手を拾い上げ、彼の頬に掌を引き寄せた。
「!」
「マリア。ひょっとして悪い夢でも見たのかい? 」
「本、当に? 本当に、あなたは、」
「?」
「っ、ロジェ!」
「わっ、おっと……!」
布地を跳ね上げるように彼の首元へかぶりつく。勢いを殺しきれずに背中をしたたかに打ち付けながらも、それで彼の首が落ちるなどということはない。
「いてて」と緩やかに半身を持ち上げたロジェだが、懐にしがみついて声を上げて泣いているマリアを見ると、そのまま、あやすように彼女の頭を抱いた。
「大丈夫。 大丈夫だよ、マリア。どんな怪物が襲ってきても、僕がきみを守るから」
「ちがうのよ。私、怪物なんて、こわくない」
「じゃあ、ゴーストか何かかな。あいにく除霊の力はないから、かわりに国一番のエクソシストを呼んであげる」
「……だめよ。そんなことに税金を使わないで」
「ええ?手厳しいなあ……」
どこか嬉しそうにそんな冗談を重ねる彼に、マリアはむっと口元をとがらせて、彼の腹の辺りをそっと叩く。それから言った。
「どうして嬉しそうな顔をするの。私が泣くのがそんなに面白い?私、本気で──」
「ごめん。だって、こんなふうにきみが甘えてくることなんかすっかりないからさ。それが、どうも、……かわいくて」
ぎゅっと両腕に力が籠められる。全身を包むように抱き込まれて、その懐かしい甘さに息が止まりそうになった。ああ、むしろ止まってくれたらいい。このまま、この温かな腕の中で──
『こらこら。息が止まったらリセットされちゃうからね、マリアちゃん?』
「──トロイ! 」
「うわあ!? ちょ、ちょっと! いきなり殴りかかってくるのはかなり野蛮だよ!」
彼はばっと自分の腕を前に回して生娘のように身を守るジェスチャーを取っている。
マリアが我に帰れば、周囲は白黒に姿を変えていた。
「あなた、ロジェに何をしたの!? 」
「ロジェには何もしてないよ! ほかに怒るところあるんじゃない!? ま、まあ、いいけどさ……心配しなくとも、今は少しボクの権能で時間を止めているだけだ。ほら、そのまま放り出しちゃったし、一応チュートリアルがいるでしょ」
「チュートリアル? 」
耳慣れない言葉を問い直す。彼はぱちん、と指を鳴らして「その通り!」と口角を釣り上げた。
「あんたに与えたギフト、【ヘイドスの血】についての説明だ。死に戻りだとは教えたけど、細かい条件や諸注意もしておかないとコンプラが、ね」
「……よく分からないけど、そういうことなら聞きましょう。でも、手短に済ませてちょうだい」
マリアが姿勢を正す。トロイはそれを受けて、マリアの目前で両手を広げた。
「オーケー、マリア。簡単に言うとだ。あんたのギフトは、『あんたの意思の介在の有無は問わず、肉体・精神がその活動を停止した際、強制的に時間が巻き戻り、勝手にやり直す』ものだよ」
「勝手に?」
「そ。つまり自死をしようと殺されようと、あんたが1回死んだら巻き戻される。ちなみにオートセーブだから、あんたの意思で戻る時代は選べない。プレイヤーの行動次第で”フラグ”が立ってルートが分岐し、もし失敗したら勝手に手近なターニングポイントまで戻されるシステムになっててね」
「ああもう、ややこしいわね……あなたの使う言葉がほとんど理解できない。つまり、私が死んだ時点で能力は発動するけれど、死んだ後、この辺りからやり直したいという要望は叶わない、というの? 」
「いい理解だ。つまりあんたが選べない代わりに、能力そのものが『あんたが他の選択を取れる』地点に巻き戻してくれるわけさ」
「……そう。捉えようによってはずいぶん不便な力じゃない」
「当然だろ? だってボク、苦しむ人間が大好きなんだもん。イージーでカジュアルなSRPGなんていくら見ていてもつまらない。軽率に死んだってうまくはいかないんだから、ハッピーになりすぎてうっかり腹上死とかしないでよってこと。選択肢、『夜の誘いを断る』とかしょーもないのになるからね? 」
「……」
マリアが心底不愉快そうに眉を顰める。トロイは変わらずにやにやとしながらくるりと宙を回っていた。
「とりあえずはまあ、それだけ分かってくれたらいいよ。あ、ついでに初回だけはヒントをあげようか。マリア、ちょっとロジェーリオが若いことには気付いてたかな? 」
「確かに、言われてみれば……2、3歳若いかしら」
すっと時の止まったロジェの頬をいとおしそうに撫でる。トロイは「げえ」と愛嬌のない声を上げた。
「いや、やっぱ気持ち悪いなあんた。なんでピンポイントで分かるんだよ」
「? 何か? 」
「……まあ、いいけどさ。お察しのように、ここはちょうどマリアが聖女派にしてやられた春の3年前──」
「神王歴1877年。先王様が死んで、半年後の春だ。
ここがターニングになってるなんてこと、きっと気付かなかっただろう?
さて、ボクからの情報は以上。それじゃあ、そろそろあんたに時間を返すとするよ」
「次は中途BADエンドで会おう、親愛なるマリア! ……またね? 」
「な、ちょっと、トロイ!」
マリアの静止は聞かずにトロイは姿を消した。直後、ぐるりと世界を取り囲むようにネガ・フィルムがフレームのように飛び交って。
ぱっと、世界にはあざやかな色と時間が戻って動き出していた。
とく、とく、と、規則正しいロジェの拍動が聞こえている。時間が戻ったのと同時に、先ほどと地続きの状態に戻ったようだった。マリアはその幸福をひたすらに噛み締めてから、静かに顔を上げる。
この幸福を失わないためには、ただ柔らかな腕に抱かれているだけではいけないのだ。
「ロジェ。あのね。少し、相談があるのだけど」
「相談?」
「グランブリトーに行こうと思う。構わない?」
「え──グランブリトー? どうして急に……」
「“守るためよ”」
無駄な言葉を挟むことなく、マリアは凛と言い放つ。トロイは言っていた。『ここがターニングポイントだ』と。それが正しいのならば、まず打たなければいけない施策は聖女派の台頭を防ぐこと以外にないだろう。自身が『死に戻った』世界は、ヴァルドロ王が崩御して時期も浅い。
この間に負の芽を摘むことは、確かに意義があるはずで──
(そして、それはきっと。私にしかできないことだもの)
「可能な限り早く起ちたいの。フランチェストの民だけじゃなく、グランブリトーの人々だって、今は私たちの民でしょう。いつまでも地盤が緩んだ状態にはしておけないわ」
マリアは柔らかなベッドサイドから立ち上がり、彼女の部屋に備え付けられた衣装箪笥から黒い外套を翻す。それは礼服のように、光全てを吸い込む黒をしていた。
「だから行くの。よろしいかしら、ロジェーリオ」
……私が、きっとあなたを守ってみせる。




