“紅”
※本話数には、残酷な表現が一部含まれます。
「……ロジェ?」
敵陣の只中。あの貧相な女が旗を横に薙ぎでもしたら、それだけで吹き飛びそうな位置に彼は立っていた。護身の武器ひとつ持たず、ただ片手に教典を抱いたまま。
「ッ──!!」
「マリアヴェール様、何処へ!」
「離して!離しなさい、ソル!ロジェよ!ロジェがあの軍勢の傍にいるの!」
「な、」
「ッ、退いて!」
「マリア様!」
ソルを振り払い、一目散に走り出す。嫌な予感ばかりが脳裏を霞めて背筋が冷えていた。指先の震えを押し込むように拳を握り締める。煩わしいヒールを脱ぎ捨て、裸足のまま転がるように城内を駆けた。
ああ、どうして。どうしてあなたはそうなのだ。いつも、いつも、馬鹿の一つ覚えのように、生身で地獄に立っている。
石を投げる手は斬り落とせばいい。罵声しか吐けない醜い喉は潰せばいい。あなたがそれを望むなら、私は喜んで、天使のような笑みでこの布を赤く染めるだろう。
それなのに、あなたは。
あなたはいつも──あなたばかりが!
「ロジェ──ロジェーリオ!」
息を切らしたまま、王城の裏戸にたどり着く。肺の奥から血の味がしていた。足裏も痺れ、膝は笑い、きっと嘲笑されるほど惨めな姿だろうが、躊躇いなどはない。
扉に手を掛ける。外にいる八千の兵?どうでもいい。
ただ彼が無事であれば、それを一目見た瞬間、番えた矢で心の臓を撃ち抜かれようと構わなかった。
観音開きの扉。
その隙間から、やわらかな彼の声が聞こえている。それだけで涙が出そうなほど安堵した。
(ロジェーリオ……!)
「では、僕の首があれば。卿等はその矛を我が民には向けず、おさめると言うのだね」
「──え?」
思わず声が漏れてぱっと口をふさぐ。幸い気付かれてはいないようだ。しかし、紡がれるその言葉の意味を即座に理解することは出来なかった。
何を──何を、言っているのだろう?
「当然だ。騎士に二言はない。聖女ミレイ・イルミナータの御前に誓おう。我々はただ自由と正当を求めているのであり、無益な争いを好んでいるのではないのだから」
「そうか。では、それで構わない。見ての通り、武具ひとつ持たぬ弱き王の首印だが、あなたたちに預けよう。長年苦労を強いた。報うこともできず、すまない」
「第55代 フランチェスト神王国王、ブルフォワ・レ・ロジェーリオの命において。
聖女イルミナータの御前により、今、属国グランブリトーの独立を認める」
「ロジェーリオ、それは……!!」
ロジェをとどめるように扉を押し開いたのと、ほぼ、同時に。
彼の首が、ぱっと虚空に舞っていた。
「──」
散華、仇花の紅。
青い瞳。金の髪。白い肌に、たおやかな笑み。すべて、すべてを喪って。
目前にただ、赫色の飛沫を残した、彼は。
ひどく呆気なく、地に転がって──死んでいた。
「、あ、あ」
ざくろが弾けたようだった。そうであるなら、どれほどいいか。
全身から力が抜けて、がたがたと震えながら膝をつく。少し先に転がった、ロジェーリオだったはずのものに手を伸ばして触れれば、それはまだ温かい熱を持っている。縋りこむように地に伏せた。
「ロジェ、……ロジェーリオ。ねえ、ロジェーリオ……!」
何も考えられなくなって、ざわめきすらが耳の奥から遠のいていく。
冷えていく熱が、ただ、怖かった。
「なんだ、この女は?」
「王妃だ。マリアヴェールだったか──」
「……哀れなものだな。しかし、妃殿。その男は実に潔く……」
「……うるさい、ああ、煩い──」
「!」
「うるさい、うるさい、うるさい!下賤の人殺しども!!
この者がおまえたちに何をしたというの!?おまえたちを属国としたのはロジェーリオではない!
ましておまえたちがそうなったのは、愚かな先達が我が国を侵し敗したからでしょう──!」
感情の濁流をこらえ切れずに叫び声を上げる。生まれてこの方一度たりとも出したことのない声音はきんきんと耳について、自分でさえ不愉快になるものだった。
「なんだと?……我が国の尊い選択を愚弄するか、フランチェストの悪妃ごときが!」
「悪妃──悪妃!?ふ、そう、そうなの。ええ、構わない。おまえたちがそう宣うのならば。おまえたちがそう望むのなら!その女を、この手で──!!」
袖口に手を伸ばす。マリアは狂乱のなかでも躊躇なくそのダガーホルダーから短剣を抜いて一目散に聖女へ奔った。狙うは急所、喉元のみ。
……間に合った。
ほの白い喉元に刃を突きつけんとした、その瞬間。
マリアの爪先が生ぬるい肉を蹴った。
ロジェーリオだった。
「ッ、あ、?」
思わず動きを止めてしまう。気付いた時には灼けるように腹が熱かった。からん、と、結んだ手から短剣が転がり落ちて、……自身の胴体から、真っ直ぐに刃が生えている。
背後にいたのは赤髪の男だ。ごぽり、と声もなく口元から生ぬるい鮮血が溢れた。
「ロ、ジェ」
いけない。よごれてしまう。うつくしいひとが。
彼の纏う清廉な法衣に濁った赤が落ちていく。腹の傷を素手で抑えて血を止めるよう試みるが、意味はなかった。くずおれてすぐに全身に力が入らなくなる。ああ、なんと呆気ない。
私があなたよりいい王様になるなど、いったいどこに目をつけていたのだか。
そんなわけがない。そんなわけがないのだ。
だって、私は。
あなたの幸福以外、何も。望むものはないのだから。
視界が暗く閉ざされていく。
ブルフォワ・レ・マリアヴェールは愚かな妃であったのだ。
この女などにあなたの高潔に敵うものは何ひとつなく。
だからせめて、あなたの望むまま、愚かな悪妃が汚してしまう前に。
このくにがあなたのように、うつくしくあればいいと祈った。
────
──
有機物が燃える匂いと、火の熱が肌を焼いていく。鼻につくそれがどうにも不愉快だ。自身が何者か、ここがどこか。ぼんやりと思い出せずに重い瞼を開いた。
「黒煙と、火」
ああ、これが。きっと俗に言う煉獄か。
死出の旅路、地獄と天国の間にあると語られた灼熱の冥界。
であれば私が向かうべきはきっと、この下にある──
「ぷ。あはは。ばかだねえ、あんた。もうちょっと優秀だと思ってたけど」
「っ、誰!?」
抜き身で振り抜かんと肩口に伸ばした手が空を切った。そこに短剣は存在しない。
どころか自身の肉体に触れたか感触すら知覚できなかった。それもそのはずだ。だって、自身は間違いなく、あの剣に貫かれて死んだのだから。
少し気まずくなったが、背後から呼びかけてきていたテノールの持ち主は「うわあ!」とわざとらしく驚いた声をあげた。
「危ないな~。意外と血気盛んなタイプ?旦那さんのまえではぶりっ子してたんだ」
ふわふわと宙に浮いている褐色の肌をしたその男。何が楽しいのか、人を不快にするような調子でにやにやと目を細めている。マリアは露骨に眉根を寄せた。
「おまえは──」
誰、と問うより先に、その男の持つ金の瞳孔がきゅっと細くなる。
人間離れした風格を感じ取ったマリアは身構えるが、男はのらりくらりと気軽に口を開いた。
「邪神みたいなもの、ってとこかな。どうだい、怖がったっていいんだぜ?」
「……別に」
「なあんだ。つれないなあ」
「何でもいい、興味がないの。だけどあなた、その調子ならこの場所に詳しいんじゃなくて?私、ちょうど道が分からなくて。どうしたら下に降りられるのか──」
「あは。ねえねえマリア。あんた、まだここを煉獄だとか思ってる?」
「……なぜ、私の名を?」
「それはいいから、落ち着いてちょっと周りを見てみなよ。あんたが健忘症じゃないなら、道に迷ったりなんかするはずないからさ」
「……」
癪に触る物言いではあるが、そのほかの手掛かりがない故に渋々男に従うことにする。見渡す限りの火柱とばかり思っていたが、確かにこう見てみればこの場所はそれほど現実離れしてはいない。
どころか家並みや城壁。水の枯れた噴水などは実になじみ深い景色で──
「気付いた?マリア。実はそれ、大・正・解! ……ね、言った通りでしょ?」
男は笑う。それが当然の事実で、滑稽な唯一の現実なのだと。
おまえたちの祈りはただ、──彼らに踏みにじられたということを、突きつける。
「だってここ、あんたたちが死んだ後のフランチェストだからね!」
その一言を、無防備に聞かされて。
ぐらり、と。脳髄が煮えた心地がした。




