真綿の地獄より (2)
執務室に籠り、常のように書類と向き合っている。嘆願書の類や財政状況をまとめた分厚い紐綴りの資料、はてには朝のニュースペーパーまで。気が付けば飴色になめされた執務机はどんどん隙間を失って、紙束が積み上がっていくばかり。
ふう、と息を吐いて、マリアは肩口を軽く揉んだ。どうも整理整頓は不得手だ。物を整然と整えるそのわずかな時間のうちにいくつ議案が捌けるかと考えてそわそわしてしまう。
フランチェストを代表する公爵家の令嬢として育てられたというのに、この手の繊細さがいつまでもロジェに敵わないのは嘆かわしいことだ。婚姻をむすんだ当初はそれを他の家臣に悟られないようにするのにひどく苦心したものだが、今となってはもう慣れたものである。
「……少し、外が騒がしいわね」
腰を上げ、閉め切っていた大窓に歩み寄った。王城の一室であるこの部屋からは市井の人々の生活を垣間見ることができるのだ。関門のすぐ近くにある噴水広場。祭りやキャラバン市でにぎわう彼らの姿がよく見える。今日は何があるだろうか、と。ドレスの裾を揺らしてカーテンに手を掛けた。
──異様な光景だった。
「っ、!?」
窓枠から覗き込んだ外。美しいはずの噴水広場にはおびただしい数の人間がいる。それもみな甲冑を着込み、軍馬を従えた兵士たちだ。無論フランチェスト軍ではない。彼らが何をしにどこから来たのか、王家の者すら知らないなんてあっていいはずのない事態であることは自明だった。
しかし呑み込めないからと言ってここに留まり続ける選択肢だけは存在しない。マリアはよろめきながら踵を返し、半ば突き破るように重い調度の扉を自力で開ける。
とにかく、誰か。自分以外の誰かに状況を確認しなければ。
「……ロジェ」
市井に降りた彼は、大丈夫だろうか。
王としての統率力を心配しているわけではない。ただ、彼が無事でいるのかだけが心に棘を残している。なにせ常日頃変装のひとつしない人なのだ。彼はいつも言っていた。
『僕には父上ほどの人望も才もないんだ。そんな若輩が代わって王として立つのに、顔を隠すなんてとんでもない』
『声援も、罵声も、花包みも、石礫も。皆より贈られるのなら、等しく、大切に受け取らないとね』
長く豪奢な廊下を踵のある靴で駆け抜けていく。王妃としてあるまじき醜態ではあるが、それを気にする余裕はとてもなかった。玉座に向かう最中、向かいから同様に必死の形相で走ってくる人物が目に入った。
侍従長のソルである。
常日頃身だしなみや立ち居振る舞いについては誰より厳しい彼が額に汗を浮かべ、裾をはしたなくたくし上げて走ってきたマリアに何も言わないのが既に異様さを強く物語る。
半ば怒鳴るように呼び止めた。
「ソル!」
「マリアヴェール様!ご無事でいらっしゃいましたか……!」
「私は大丈夫よ。それより状況の共有を。執務室から軍勢が見えたけれど、あれは一体どういうことなの?使者が来るなどという話を聞いていて?」
「いいえ。そういった連絡は無論ございません」
「それなら──」
「かの有象無象は、属国グランブリトーより派兵された【聖女派】でございます」
「聖、女?」
単語を反芻する。
聖なる乙女──このフランチェストにおける教典に書かれている存在と同一のものだろうか。おそらくはそうだろう。ソルの語る通り、グランブリトーは長らくこのフランチェストの属国だ。その在り様は先王よりさらにさかのぼった歴史からのもの。教義はとうに馴染んでいるに違いない。ただし、それを自らの大義名分に充てる性根はマリアにはとうてい理解できるものではないのだが。
フランチェストにおける最古の建国記、国民の教典たる『神王国記』に記された聖女に対する一節を思い起こす。
" 曰く、聖女は主の声を聴く。
清き乙女、その心にうつくしき信仰の火が宿りしとき、主は其の夢枕に立ち、神託とともに、ふさわしき力を授けられた。
乙女は信託をもとに旗を掲げ、志等しくせし戦士たちをつどい、力を分け与え給う。これを聖なる乙女、すなわち聖女と呼び、建国の折、ともに神託を叶えし英雄に正教会より『聖騎士』の勲を与え、ながく祝福した。”
「図々しいこと」
苦々しく吐き捨てる。マリアは先程までの不安げな面持ちから一転、顔を上げると、ソルに対して詳細の共有を促した。
「経緯は理解したわ。ロジェーリオはまだ戻っていないのよね」
「は。現在近衛に市内を探させておりますが、まだ……」
「では、我が夫が戻るまでこの場は私が引き受けます。軍勢の規模は?」
「八千です」
「……なんですって?」
「属国グランブリトーより遣わされた、平民の少女を旗頭とした革命軍──白百合。
その数八千強が、西海の関所を越えてフランチェスト王城前に集っておりまする……!」
「……ありえない。そんなにも多数の侵入が、何故どこからも伝わってきていないのよ……!」
関所は何をやっているの、と毒付く寸前に、飾り窓の外から鬨の声が響く。思わず窓辺に駆け寄れば、黒い絹のような髪を翻す、旗持ちの少女の楚々とした立ち姿が視界に飛び込んできた。
それは本当に何の変哲もない、庶民の娘らしい肉付きの貧相な女だった。
(──聖女)
一目で確信する。あの女こそ、【白百合】の聖女だ。
彼女が何事かを口にしてその身丈より大きな旗を振り上げる。途端、野蛮な兵士たちの声はより大きく、強大なこだまとなって世界を揺らした。
ごくりと苦い唾を呑み下す。これはいけない。あまりにも士気が高すぎる。
「今すぐにフランチェスト軍を招集して!一兵たりとも城内に入れさせては──」
号令の途中で、息を止めた。
並び立ち、武具を構えた八千の兵。それを束ねる一人の女と、その傍に控えた赤髪の近衛。
……その、背後に。
蜂蜜のような髪をなびかせた、法衣の男が立っているのが見えた。
「……ロジェ?」




