真綿の地獄より (1)
「ロジェ。ロジェったら。……もう、ロジェーリオ!」
「わっ」
総レースの日傘を片手にヘーゼルのくせ毛を揺らし、女は青年の顔を覗き込んでいた。目を覚ました男がきょろきょろと周囲を見渡すが、そこは何の変哲もない王宮の中庭があるだけだ。彼のことだから、きっと春風の甘さに誘われて暖かな陽光を浴びているうちにうたた寝に誘われたのだろう。
半身を起こした彼の上半身から響く人間離れした音に女はアーモンド型の凛々とした紅眼を思い切り見開いて、子供のように破顔する。愛らしい少女を彷彿とさせる笑顔に、青年──フランチェスト神王国の現王ロジェーリオは柔らかく口角を引き上げると、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「おはよう、マリア。フレームベンチじゃベッドの代わりにならないね」
「あたりまえでしょう。その割にぐっすり眠りこんでいたのね、あなた」
「いやあ、ははは。あたたかくて、つい」
「探したわ。あまり心配させないで。ソルったら、あなたがいないと分かるや否や瓜のような顔を赤くしたり青くしたりでやかましいのよ」
「あらら……あのひと、侍従長としての立場が板についても心配性は変わらないな」
よいしょ、とおっくうそうに立ち上がった彼は再度腕を引き延ばして伸びをする。
神王歴1880年の春。愛すべきフランチェストは、きわめて長閑で豊かであった。
元王ヴァルドロの崩御から3年。彼の長子であったロジェーリオが冠を引き継いでなお、この国に大きな憂いの波はない。それは歴史学者にとっては退屈極まりなくとも、ロジェとマリアにとっては何より望ましいことだ。
毎日同じルーティンの公務をこなし、食事を共にし、市井の暮らしを言祝ぎ、睦言を語りあいながら死ぬまで隣で生きていく。
何十年とそうあるのが、ただひとつ、この安穏とした現王家にとっての願いであった。
「起こしてくれて助かったよ。何せ法衣に着替えなきゃいけないものだから」
この後、彼は【神王】として市井の人々との歓談を迎える予定になっている。
本人の穏やかな性質と人当たりの良さは父である前王とはまた少し趣の異なるもので、日和見と呼ぶ者も少なくないが、思慮深く誠実と捉える層からの支持も強い。そういった縁故をより盤石にするために王自ら国民の前に足を運び、彼らの語る言葉や生活に触れる機会を作っている……という建前なのだが、この時間をロジェはどんな公務より楽しみにしていた。
「ロジェ」
ふと思い起こし、マリアはそっとロジェの裾を握る。ロジェはそんなマリアの仕草に首を傾げた。
女性としては高い背を持つ彼女がロジェを上目にいじらしく見つめている。にこにことしたまま彼が彼女を見つめていると、マリアは愛らしくもの言いたげな表情から、みるみるわかりやすくへそを曲げたむくれ顔になっていた。
「あなた、さっき庭園でソルの話しかしなかったわね」
「え?ああ、うん。ソルが心配性って話、十八番だからね」
「……わたくしも」
「うん?」
「私も心配して、探し回っていたのに。何か言うことはないの?」
「──」
ぽかんと黙り込んだロジェの反応を真に受けた彼女は目に後悔の二文字を浮かべて額を抑える。心底恥ずかしそうな声だった。
「………………ごめんなさい、年甲斐もなく妙なことを──」
「あははっ」
楽しそうに声を挙げたロジェは、この場所が滅多人目につかない城内の庭園であることをいいことにマリアの両脇に手を入れる。
それから、ひょいっと彼女のことを抱き上げると、にっこり笑んでみせた。
「きゃっ、ちょ、ちょっと、ロジェーリオ!?」
「かわいいなあ、僕のマリア!きみが心配してくれたなら、これほど有意義な居眠りはなかったね」
「開き直らないの!それにこんな、小さな女の子にするようなことやめてったら」
「きみは出会った時からずっと、いつまでもかわいい、僕だけのちいさな女の子だ」
「そういう問題じゃなく、王としての威厳やしめしというものが──」
「……それって、そんなに大事なことかな」
マリアをそっと足先から地面に降ろして彼は言う。マリアはその澄んだ声音に息を呑んだ。
「マリア、僕はね。情けない話ながら、王様になりたいと思ったことはなかった」
「ロジェ……」
「だって王も市民もみな同じ人間じゃないか。こんなことを言うと宗主は怒るだろうけど、僕は生まれた時からずっと、自分が主の代行者などとは考えたこともない。そんな道化を背負うには、自分があまりに矮小なことを知っているからだ」
そんなことはない、と言わんとした彼女のことを制し、ロジェは続けた。
「それでも、この国にはまだ王様が必要だ。だから、僕がそれをやる。
……それだけなんだ。それだけで、あってほしいのさ」
遠い先を見据えた碧眼が日に瞬いて反射する。揺れる水面のような水光を湛えた穏やかな瞳はとても24の若王には見えないほどに達観していた。
この達観こそが王の証左であり、そうして、今の彼と、本来の彼における乖離を示していた。
ロジェは王に相応しい人間ではない。少なくともマリアはそう思っている。
王というのはもっと冷酷で、無慈悲で、覇道に満ちたものが務めるべき職務だ。
必要とあらば平然と嘘を吐き、笑って何もかも切り捨てられるくらいの外道をなせる誰かこそが務めたらいい。
彼はもっと、穏やかで。はつらつとした好奇心に満ちた人生を送るべき人で、それを誰より望んでいる。……そんな簡単なことを、いま、少し忘れていたのだ。
きゅっと心苦しくなって、マリアは静かに目を逸らした。
本来その孤独を共に負うべき自身が彼にそうあれかしと押し付けるなど、寂しすぎるではないか。
「……いっそ、私に王をやらせてくれたらいいのに」
「やらせるものか」
「違う、権力なんかいらないの。財産も、国民からの親愛も、ぜんぶあなたのものでいい。……あなたが背負う血の轍だけ、引き受けてしまえたらって……」
恥ずかしくなって口を噤む。いくらなんでも面の皮が厚すぎるかもしれない。
でも、本当に。本当に何もいらないのだ。ロジェーリオが幸福でいられるのなら。
彼はそんなマリアの言葉を噛み砕いて、そのつややかな頬に指を添えた。青年らしい大きさの掌は堅く、あたたかかった。
「マリア。だってきみは、王の重圧を肌で知ってしまったら、二度と僕なんかにその冠を返してくれやしないだろう」
「そうね。だって私、あなたには少しだって苦しんでほしくなんかない」
「だろう?なんたって僕も同じ気持ちなんだから。
実際きみはきっと僕よりよほどいい王様になるよ。……それでも、僕が今生で我儘をひとつ許されるならね。きみにはどうか、呆れるほどダメな王様の、愛しい妻であってほしいのさ」
「きみが僕を憂うように、僕だってきみを愛している」
いつくしむように、額にひとつ口付けが降ってくる。マリアはそれを受け入れながら彼の懐に身を滑らせると、すん、と一度鼻を鳴らして「そう」とだけ呟いた。ロジェは満足そうに頷くと、「それじゃあ、また夕食で」と、軽やかに手を振って、穏やかな顔で去っていった。
マリアはそんな彼の背中を見送って、ふう、と息を吐く。ああ、もう。今日の私は最悪だわ。
「……夕食が、ロジェの好きなものであふれるように。少し、口添えしてみましょう」
そうしたらきっと素直に、あの言葉は、照れ隠しだったのだと言えるはずだから。
なんて。それはどれほど、己の居場所に甘えた考えだったろう。
しかし、仕方のないことなのだ。
だってそれが、彼との最後になるなんて。その時まで誰も思いはしなかったのだから。




