第7話 アビス・イーター
神戸湾の空気が、大きく震えた。
低く濁った咆哮は、耳ではなく腹の底に響く。
海面から姿を現した《アビス・イーター》は、これまで修司が見たどんな怪物より巨大だった。
深海魚のように横へ裂けた口。
青白く発光する無数の眼。
首だけで小型船ほどの大きさがある。
周囲にいた見物人たちは、ようやく事態の異常さを理解したらしい。
悲鳴を上げて一斉に逃げ出す。
美咲は即座に無線へ怒鳴った。
「全隊員、第一種災害レベルへ移行! 民間人を完全退避させて!」
だがアビス・イーターは、すでに海面を割ってこちらへ近づき始めていた。
触手が岸壁へ伸びる。
ドォン!
コンクリートが砕け、港のフェンスが吹き飛んだ。
玲奈が修司の背中へぴたりと張り付く。
「修司さん……!」
その声には恐怖が滲んでいた。
修司も平静ではない。
《観測者》の視界は赤い警告表示で埋め尽くされている。
【アビス・イーター】
危険度:B+
外部装甲:高耐久
弱点候補:咽頭内部・第三眼
現在戦力:撃破不能
「撃破不能って、正直すぎるだろ……」
修司は苦々しく呟いた。
黒田が顔を引きつらせる。
「逃げよう! 今回はマジで逃げよう!!」
珍しく黒田が本気で弱気だった。
美咲は魔石ライフルを構え、触手へ連続射撃を放つ。
青白い光槍が次々と命中し、黒い肉片を吹き飛ばした。
だが触手は海水を吸い込むように蠢き、傷がゆっくり再生していく。
「再生が速すぎる……!」
美咲が舌打ちする。
その時、アビス・イーターの無数の眼の一つが、まっすぐ修司を向いた。
ゾクリ、と背筋が凍った。
《観測者》が激しく明滅する。
【観測対象から逆探知を受けています】
「逆探知……?」
怪物が、こちらを認識している。
ただの人間としてではない。
《観測者》を持つ存在として。
次の瞬間、アビス・イーターが口を大きく開いた。
内部で青白い光が収束していく。
修司の視界に表示が浮かぶ。
【高圧水撃ブレス】
【着弾予測:3秒後】
「伏せろ!!」
修司は玲奈を抱き込み、地面へ倒れ込んだ。
直後、轟音が神戸港を揺らす。
ゴォォォォォッ!!
超高圧の水流が岸壁を薙ぎ払い、コンテナを紙箱のように吹き飛ばした。
コンクリート片が雨のように降り注ぐ。
黒田が転がりながら叫ぶ。
「水圧で爆撃とか聞いてないぞ!」
修司は玲奈を庇ったまま顔を上げる。
もし《観測者》の警告がなければ、今ので全員即死だった。
美咲も驚いた顔で修司を見る。
「今のを予測したの……?」
修司は答えなかった。
答えられない。
その時、沖合から重いエンジン音が響いた。
海上自衛隊の大型巡視艇が接近し、甲板上の砲塔が深海門へ向けられる。
無線が周囲に響き渡った。
『全員退避! 門周辺へ対魔石榴弾を使用する!』
美咲が即座に判断する。
「ここにいたら巻き込まれる! 走って!」
修司たちは岸壁から全力で離れた。
数秒後――
ドォォォン!!
青白い爆炎が海上で炸裂した。
通常火薬とは違う、魔石エネルギー特有の閃光。
衝撃波がハーバーランドまで押し寄せ、ガラス窓を震わせた。
爆煙の向こうで、アビス・イーターが苦しげに咆哮する。
巨大な頭部が再び門の闇の中へ沈み始めた。
触手も次々と引き込まれていく。
やがて海面には激しい波だけが残った。
しばらく誰も動けなかった。
「……助かったのか?」
黒田が呆然と呟く。
美咲は海を睨んだまま首を振る。
「違う。押し戻しただけよ」
その言葉の重さに、修司は息を呑んだ。
つまり、あれはまだ生きている。
しかも深海門の内部には、あれより強い存在がいる可能性すらある。
美咲は修司へ歩み寄った。
至近距離で見ると、彼女はかなり整った顔立ちをしていた。
ただし目つきが鋭く、隙がない。
「さがら…相良修司さん…ですね?」
「……取材対象になった覚えはないが」
「こちらはあります」
美咲は真っ直ぐ修司を見据える。
「あなた、さっき二度も攻撃を事前に察知した。偶然では説明できません!」
玲奈がさりげなく修司の腕を抱き込む力を強めた。
美咲はその様子を見て、ほんの少しだけ口元を緩める。
「安心してください。恋人を取り調べるつもりはありません」
「恋人です」
玲奈が即答した。
黒田が吹き出しそうになるのを必死に堪えている。
美咲は小さくため息をついた。
「とにかく、あなたには協力をお願いしたい」
「警察に?」
「正確には、兵庫県警特殊災害対策課に」
彼女はポケットからカードを取り出した。
そこには一般には存在しないはずの部署名が記されている。
「政府はまだ公表していませんが、すでに“適合者”の存在が確認されています」
修司の右手の紋章が、じわりと熱を帯びた。
美咲は低い声で続ける。
「そして私は、あなたもその一人だと考えています」
神戸湾の向こうでは、黒い深海門が静かに脈動を続けていた。
まるで次にこちらを喰らう機会を待っているかのように。




