第5話 神戸湾の黒い門
午前九時。
西宮北口のマンションに、黒田がコンビニ袋を提げて押しかけてきた。
「朝飯食ったか?」
「今食い終わったところだ」
「じゃあ二回戦だな」
袋の中から取り出されたのは、尼崎名物のかつめし風弁当と大量の缶コーヒーだった。
玲奈が呆れた顔をする。
「黒田さん、朝から食べ過ぎです」
「昨日、命を削ったんだぞ。カロリー補給は正義だ」
黒田はソファにどかっと座り、スマホを修司へ向けた。
画面には神戸港のライブ映像が映っている。
メリケンパーク沖。
海面から突き出した巨大な黒い石門。
周囲には海上保安庁の巡視船、自衛隊の輸送ヘリ、報道ヘリが飛び交っていた。
「でかいな……」
修司が呟く。
猪名川の洞窟とは規模が違う。
門だけで十階建てビルほどある。
黒田が声を潜める。
「内部で“第二階層”が確認された。しかも調査隊の一部が消息不明だ」
「もう犠牲者が出てるのか」
「政府は隠してるが、現場はかなりヤバいらしい」
玲奈が不安そうに尋ねる。
「私たちに関係あるんですか?」
修司は右手の紋章を見下ろした。
すると視界の端に、勝手に文字が浮かぶ。
【深海門との共鳴反応を検知】
「……あるかもしれない」
黒田と玲奈が同時にこちらを見る。
修司は眉間を押さえた。
「神戸港の門に近づくと、紋章が反応してる」
「遠隔で?」
「ああ。距離は二十キロ以上あるはずなのにな」
黒田の表情が真面目になる。
「お前、本当に普通じゃなくなってきたな」
昼前。
修司たちは神戸港へ向かうことにした。
阪神高速を走る車窓から見える街並みは、表向きはいつも通りだ。
だが電光掲示板には、
【神戸港周辺 一部立入規制】
の文字が流れている。
ラジオからは臨時ニュースが聞こえてきた。
『政府は本日、“ダンジョン対策準備室”を内閣官房に設置すると発表しました――』
「準備室ねえ……」
黒田が鼻で笑う。
「完全に後手後手じゃないか」
修司も同感だった。
世界中でダンジョンが出現してまだ数日。
国家レベルでも状況を把握できていない。
そんな中で、自分だけが“観測者”という未知の能力を得てしまった。
良い年したおっさんなのに…ラノベ主人公みたいな笑えない話だ。
神戸ハーバーランド近くに車を停めると、海風が強く吹きつけてきた。
遠くの海上には、黒い石門が異様な存在感を放っている。
観光客は規制線の外からスマホで撮影しており、まるで巨大イベントのような騒ぎだ。
「平和ボケしてるな……」
修司が呟く。
その瞬間、右手の紋章が熱を帯びた。
ズキン。
視界がわずかに揺れる。
【観測対象を確認】
海上の黒い門の周囲に、青白い線が幾重にも浮かび上がった。
普通の人間には見えない。
まるで巨大な魔力の渦だ。
そして門の中心部には、赤黒い一点が脈打っている。
修司は思わず足を止めた。
「……まずい」
玲奈がすぐに気づく。
「どうしました?」
「門の中心に、何かいる」
黒田が眉をひそめる。
「見えるのか?」
「ああ。猪名川の神殿より、ずっと巨大な反応だ」
その時、規制線の向こうで騒ぎが起きた。
「下がってください!」
警察官の怒鳴り声。
次の瞬間、海上の門が低く唸るような音を発した。
ゴォォォォ……!
海面が大きく波立つ。
見物人たちがざわめき、スマホを向ける。
そして門の闇の中から、黒い影がゆっくりと現れた。
最初は流木のように見えた。
だが違う。
それは巨大な触手だった。
海水を滴らせながら、十メートル以上ある黒い触手が門の外へ伸びてくる。
「うわっ!」
周囲から悲鳴が上がる。
触手は空中でうねり、海上保安庁の小型艇へ叩きつけられた。
バキィィン!
船体が横転し、海に人が投げ出される。
一瞬で現場はパニックになった。
「本当に出てきやがった……!」
黒田が青ざめる。
修司の視界には新たな表示が浮かんでいた。
【名称:深海触腕体】
【危険度:C】
【警告:現在戦力では対処困難】
玲奈が修司の腕を強く掴む。
「逃げましょう!」
だが修司は海を見つめたまま動けなかった。
海に投げ出された隊員が、触手に巻き取られようとしている。
周囲の警察官も救助に近づけない。
その瞬間、《観測者》が激しく明滅した。
【緊急観測任務を検知】
【対象を放置した場合、死亡確率:87%】
修司は舌打ちした。
「くそっ……」
「相良さん!?」
修司は近くの係留ロープを掴み、海へ向かって走り出した。
黒田が叫ぶ。
「おい待て! 相手は巨大タコだぞ!」
「タコなら神戸らしいだろ!」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
だが身体はもう止まらない。
右手の紋章が青白く輝き、海風の中で熱を帯びる。
そして修司は、悲鳴とサイレンが響く神戸湾へ飛び出していった。




