第4話 西宮北口、非常識な朝
神殿の奥から響く重い呼吸音を背に、修司たちは洞窟を引き返した。
帰路は行きよりも長く感じられた。
途中でレイク・アイの残骸を通り過ぎた時、そこにはもう黒い泥しか残っていなかった。
魔石だけが、修司のポケットの中で微かに脈打っている。
洞窟を出た瞬間、春の夜風が頬を撫でた。
「生きて帰れた……」
黒田が大きく息を吐く。
玲奈は何も言わず、修司の腕にしがみついたままだった。
暗闇の中で、その指先がまだ小さく震えているのが分かる。
「すまない…怖かったか…」
修司が小声で尋ねると、玲奈は少し間を置いて頷いた。
「怖かったです。でも……」
彼女は修司を見上げた。
「修司さんがいたから、最後まで動けました」
その真っ直ぐな視線に、修司はわずかに言葉を失う。
黒田がニヤニヤしながら割り込んできた。
「はいはい、ごちそうさま。俺は火を吹く猪に追い回されたんだが?」
「お前も十分元気そうだ」
「精神的ダメージは別腹だ」
役場へ戻ると、職員たちは三人が無事だったことに驚いていた。
「本当に中に入ったんですか!?」
「ああ。しかもモンスター付きだ」
黒田が真顔で答えると、職員は冗談だと思ったらしい。
だが修司がテーブルに青い魔石と赤い魔石を置いた瞬間、会議室の空気が変わった。
「これが……内部で?」
修司は神殿の存在、レイク・アイ、ファイアボアについて簡潔に報告した。
もちろん《観測者》のことは伏せた。
そんな能力を正直に話せば、政府に拘束されかねない。
担当職員は青ざめた顔で言う。
「すぐに県と国へ連絡します。今夜は封鎖を強化します」
修司は頷いた。
だが胸の奥では別の不安が膨らんでいた。
神殿の奥にいた“上位存在”。
あれはまだ眠っているだけだ。
深夜一時。
西宮北口のマンションへ戻った修司は、シャワーを浴びてようやく人心地ついた。
リビングでは玲奈がソファに座り、温かいお茶を飲んでいる。
長い髪をほどいた姿は、昼間よりずっと柔らかく見えた。
「眠れそうか?」
「多分……少しは」
玲奈はカップを置き、修司の右手を見つめる。
黒い紋章はまだ消えていなかった。
「痛みますか?」
「さっきよりはマシだ」
彼女はそっと修司の手を両手で包み込んだ。
ひんやりした指先が心地よい。
「無茶しないでください」
「取材だからな」
「それ、言い訳になってません」
修司は苦笑した。
玲奈は普段おとなしいが、修司が危険なことをすると途端に頑固になる。
そしてその頑固さは、恋人としてはかなり重い部類だ。
だが修司は嫌いではなかった。
むしろ、帰る場所があるような感覚を覚えていた。
翌朝。
修司は珍しく早起きし、キッチンに立っていた。
フライパンの上ではベーコンと卵が焼けている。
玲奈が寝ぼけ眼で現れた。
「いい匂い……」
「ダンジョン帰りでも腹は減るだろ」
テーブルにはトースト、サラダ、コーヒーが並ぶ。
玲奈は席に着きながら、ふと真面目な顔になった。
「昨日の肉、本当に身体が軽くなりました」
修司も同じ感覚を覚えていた。
疲労がほとんど残っていない。
通常であれば、一晩中の探索の後は確実に筋肉痛が残るはずだった。
「魔物の肉には、何らかの特殊な作用があるのかもしれないな」
「それを食べちゃうところが修司さんらしいです」
「料理人の好奇心は止められん」
玲奈は小さく笑った。
その時、修司のスマートフォンが震えた。
発信者は黒田。
「朝から何だ」
通話に出ると、黒田の興奮した声が飛び込んできた。
『修司、ニュース見たか!?』
「まだだ」
『神戸港のダンジョンで、自衛隊の調査隊が“第二階層”を発見したらしい。しかも内部で未知の金属資源が見つかったって大騒ぎだ!』
修司は眉をひそめる。
「もう資源争奪戦か」
『それだけじゃない。国が“民間適合者の登録制度”を検討してるらしい』
玲奈の表情が強張った。
修司は右手の紋章を見下ろす。
もし適合者が公的に管理されるようになれば、この紋章も隠し通せなくなるかもしれない。
黒田が続ける。
『あともう一つ。昨日の猪名川ダンジョン、今朝から内部構造が変化してる』
「変化?」
『入口の先に、昨日は無かった通路が出現したらしい』
修司はゆっくり息を吐いた。
ダンジョンは固定された洞窟ではない。
生き物のように変化している。
そして《観測者》は、その変化に強く反応していた。
視界の端に、半透明の文字が浮かぶ。
【新規階層反応を検知】
【推奨行動:再探索】
玲奈が不安そうに修司を見る。
「……また行くんですか?」
修司はコーヒーを一口飲み、窓の外の西宮の街並みを眺めた。
平和な朝。
通勤電車。
いつもの日常。
だがその地下では、異世界への扉が静かに広がり始めている。
修司は静かに答えた。
「行かなきゃ、……多分もっと危険になる」
玲奈はしばらく黙っていたが、やがて小さくため息をついた。
「じゃあ私も行きます」
「当然のように言うな」
「当然です」
彼女は微笑みながらも、修司の右手をしっかりと握った。
その温もりを感じながら、修司は直感していた。
昨日の探索は、ただの入口に過ぎなかった。
本当の“ダンジョン”は、これから始まるのだと。




