第46話 崩壊、脱出
《第零駅》が悲鳴を上げた。
ホームの白いタイルが次々と砕け、天井の照明が火花を散らしながら落下していく。
ガァァァァン!!
列車の車体が激しく歪み、窓ガラスが黒い霧となって吹き飛んだ。
無数の顔のない乗客たちは、発車できないことに苛立つように空中で歪んで崩れていく。
そしてホーム全体が、ゆっくりと静かに暗闇へ沈み始めていた。
「全員、撤退!! 撤退!!」
美咲の怒号が地下空間に響く。
自衛隊指揮官も即座に叫ぶ。
「階段まで後退しろ! 急げ!!」
隊員たちは凍傷で動けなくなった仲間を抱え、観測室から撤退を開始する。
だが床はすでに崩れ始めていた。
線路側のタイルが割れ、その下から底の見えない、大きな黒い空間が覗いている。
そこにはレールなど存在しない。
ただ、終わりのない暗闇だけが広がっていた。
修司はレバーを押し切った反動で膝をついた。
右腕が焼けるように痛む。
青白い紋章は肩から首筋近くまで広がり、脈打つたびに視界が揺れる。
《観測者》が断続的に表示を繰り返す。
【観測点閉鎖成功】
【境界崩壊進行中】
【速やかに離脱してください】
美咲が修司の肩を抱える。
「立てますか!」
「……何とか」
立ち上がろうとした瞬間、背後で轟音が響いた。
振り返ると、黒いコートの男が崩壊するホームの中央に立っている。
身体は半分以上が霧になっていたが、その顔は引きつる様に歪んで…笑っているようにも見えた。
それでもその目だけは、はっきりと修司を凝視していた。
『観測…者は アァアァァァァ──』
言葉にならない様な、悲鳴にも似た叫びをあげながら、男の身体が裂ける。最後までこちらへ手を伸ばしながら…崩れた。
黒い霧は列車へ吸い込まれ、その列車自体も空間の亀裂へ飲み込まれていく。
最後に聞こえたのは、遠ざかる車輪の軋みだけだった。
ガタン……ゴトン……。
そして音は完全に消え、痛いほどの静寂が訪れた。
「修司さん、急いで!」
美咲に腕を引かれ、修司は観測室を飛び出した。
ホームはすでに半分以上が崩壊している。
第一班の隊員たちが盾を捨て、増殖階段へ向かって走っていた。
天井からのタイル片が、音を立て雨のように降り注ぐ。
古い柱が傾き、地下空間全体が唸り、地震のように大きく揺れる。
修司たちは階段へ飛び込んだ。
地下46mから44mへ。
背後から熱風のような衝撃が追いかけてくる。
振り返ると、観測室の入口が青白い光に包まれていた。
そして光の中で、祖父の姿が一瞬だけ浮かび上がる。
ヘルメット姿のまま、静かに敬礼していた。
次の瞬間、光は収縮し、観測室ごと一瞬で闇へと消えた…
地下44m。
増殖階段そのものが崩れ始めていた。
石造りの壁がひび割れ、白タイルが剥がれ落ちる。
技術職員が悲鳴を上げる。
「階段が消えていきます!」
実際、後方の段が霧のように薄くなり始めていた。
《第零駅》の崩壊とともに、接続経路そのものが消滅しているのだ。
「全員!走れ!」
美咲が先頭へ飛び出す。
修司も痛む右腕を押さえながら必死に階段を駆け上がった。
地下42m。
ここまで戻ると、空気がわずかに現実へ近づく。
コンクリートの匂い。蛍光灯の白い光。
それでも背後からは、まだ地下からの…悲鳴にも似た咆哮が聞こえていた。
ゴォォォォ……。
まるで巨大な駅舎そのものが沈没していくような深い音だった。
最後の保守用扉を抜けた瞬間、全員が床へ倒れ込んだ。
直後、背後で重い衝撃音が響く。
ズドォーーーン!!
増殖階段があったはずの壁面が完全に崩れ落ち、厚いコンクリートの瓦礫で塞がれる。
冷気が止まった。
列車の音も聞こえない。
ただ、地下設備の換気音だけが静かに響いている。
しばらく誰も動けなかった。
やがて美咲が荒い呼吸を整えながら言う。
「……生存確認を」
隊員たちが次々に応答する。
全員、生きていた。
凍傷者はいる。
負傷者もいる。
だが、《第零駅》へ取り込まれた者はいなかった。
修司は壁にもたれかかり、右腕を見下ろした。
青白い線はまだ残っている。
だが脈動は弱まっていた。
《観測者》が最後に静かな表示を浮かべる。
【第零線観測室:封鎖完了】
【主接続経路を遮断しました】
主接続経路。
その表現に、修司はわずかに眉をひそめる。
完全消滅ではない。
少なくとも《観測者》は、まだ別の経路の存在を否定していなかった。
美咲も同じことに気づいたのか、疲れた表情のまま小さく息を吐く。
「今夜は……勝ったと考えていいんでしょうか?」
修司はしばらく沈黙し、それから静かに答えた。
「少なくとも、祖父が多分…後悔していた…閉じられなかった観測点は閉鎖出来た」
それは事実だった。
七十四年前から続いていた接続は、今ようやく断ち切られた。
だがその時、修司のスマホが震えた。
画面には、玲奈からのメッセージが表示されている。
『窓ガラスの0:13が、今……消えました』
修司は目を閉じ、長く息を吐いた。
西宮の自宅に残っていた痕跡も消えた。
《第零駅》は確かに、現実から一歩後退したのだ。
しかし地下のさらに奥深くで、遠ざかる列車の音がほんの一瞬だけ聞こえた気がした。
ガタン……ゴトン……。
それは、終点へ向かう最後の残響のようだった。




