第45話 帰るべき場所
修司は観測点閉鎖レバーを握り締めた。
冷たい。
金属というより、長年地下水に浸かっていた石のような感触だった。
《観測者》が激しく脈動する。
【同期開始】
右腕の紋章から青白い光が走り、古い信号盤へ吸い込まれていく。
カチ、カチ、カチ……。
停止していたはずの計器類が一斉に動き始めた。
真空管が赤く灯り、観測室全体へ低い振動が広がる。
同時に、修司の視界が揺らいだ。
地下ホーム。
列車。
無数の黒い乗客。
そして、さらにその奥――。
線路が続いている。
東梅田ではない。
大阪の地下でもない。
終わりの見えない暗闇の中を、無数のホームが連なっていた。
《第零駅》は一つの駅ではなかった。
終点へ向かう途中駅の一つだったのだ。
その事実を理解した瞬間、頭の奥へ大量の情報が流れ込む。
七十四年前の工事現場。
崩れたトンネル。
地下深くで発見された古い線路。
「存在しない列車」の試験運行。
そして祖父――相良修一郎が観測室でレバーを引こうとしている姿。
だがその背後で、黒いコートの男が列車から降りてくる。
祖父は振り返り、絶望した表情でこう呟いた。
『駅が増えていく……』
映像が途切れる。
「修司さん!!」
美咲が必死に叫びながら、腕を掴んでいる。
──現実へ引き戻された。
ホーム側では戦闘が始まっていた。
黒い乗客たちは盾へ触れるだけで周囲の熱を奪っていく。
隊員の一人が凍傷のように腕を白く変色させ、後方へ引きずられていた。
自衛隊指揮官が怒鳴る。
「入口を維持しろ! 観測室を守れ!」
だが防衛線は押され始めている。
列車の扉はまだ開いたままだ。
まるで観測者が乗り込むのを待っているかのように、
大きな口を暗闇に覗かせていた。
修司は歯を食いしばり、動かないレバーへさらに力を込めた。
《観測者》が次の段階を表示する。
【閉鎖率:23%】
──足りない。
──全然、足りない。
魔力を流し込む量が不足している。
右腕の青白い線が肩まで広がっていく。
焼けるような痛み。体温が沸騰する。
美咲が修司の異変に気づく。
「無理しすぎです!」
「これを止めるには……最後までやるしかない!」
その時、祖父の半透明の身体がレバーの上へ重なるように手を伸ばした。
冷たい感触が、修司の手へ重なる。
『一緒に引け』
修司は目を見開いた。
祖父は完全に消えかけている。
だがその眼差しには、七十四年間抱え続けた後悔が宿っているように感じた。
ホーム側で轟音が響く。
黒いコートの男が、ついに観測室入口へ到達した。
今度はその顔がはっきり見える。
それは祖父ではなかった。
祖父に酷似した顔を「模倣」しているだけのようだ。
その口元が裂ける様に割れ…ゆっくりと歪む。
『観測者は必要です』
『観測者は必要です』
『観測者は必要です』
……狂った様に、早口で何度も話し続けている。
次の瞬間、観測室の壁から黒い霧が突如噴き出した。
霧はまるで蛇のように修司の右腕へ絡みつく。
《観測者》が激しく警告を発する。
【列車側から強制回収を受信】
視界の端に、列車の車内が映る。
空いている座席。
その上に、古びた乗車券が一枚置かれていた。
券面には黒い文字でこう印字されている。
相良修司
行先:終点
修司の身体が強引に、強制的に前へ引かれる。
まるで列車そのものが、魂を引き寄せているように感じた。
「修司さん!」
美咲が背後から抱きしめる。
彼女の手は冷えていたが、確かな現実の温もりだった。
その瞬間、修司の脳裏に玲奈の顔が浮かぶ。
西宮のマンション。
窓ガラスに残った 0:13。
「必ず帰ってきてください」
あの声が、列車の引力へ抗う力になった。
修司は叫んだ。
「俺は――帰る、あの場所へ!!」
祖父の手と、自分の手。
二つの力が重なり、観測点閉鎖レバーが一気に下へ倒される。
ガコンッ!!
信号盤の全ランプが青白く反転した。
同時に、ホーム全体へ巨大な衝撃波が走る。
ガァァァァァン――!!
列車の車体が激しく揺れる。
黒い乗客たちは強い風に吹かれた霧のように、散り散りに崩れ始めた。
黒いコートの男が初めて苦悶の表情を浮かべる。
《観測者》が最終表示を浮かび上がらせた。
【観測点閉鎖率:100%】
【第零線観測室を封鎖】
その瞬間――列車が悲鳴のような金属音を上げ、空間ごと引き裂かれるように暴れ出した。
発車ベルが狂ったように鳴り響く。
ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン!
そして機械音声が歪んだ。
『観測者未乗車……観測者未乗車……』
ホームの白いタイルがひび割れ、空間そのものが音もなく崩れ始める。
隣の祖父の身体は……光の粒子となって消えていく。
最後に彼は、静かに微笑んだ。
『帰れ』
その言葉と同時に、《第零駅》全体が崩壊を始めた。




