第44話 祖父の残響
観測室の入口に立つ黒いコートの男。
その輪郭は、先ほどまでの曖昧な影とは明らかに違っていた。
ヘルメット姿の古い写真。
アルバムの中の横顔。
修司は喉の奥が凍りつくのを感じた。
「……祖父さん?」
男は答えない。
だがぼやけていた顔がさらに鮮明になり、深い皺と疲れ切った眼差しが浮かび上がる。
七十四年という時間を越えてなお、そこに立っている。
美咲が観測室へ駆け込み、修司の前に立つ。
「下がってください!」
しかし男は敵意を見せなかった。
静かに、ゆっくりと首を横に振る。
そして低い声が響いた。
『閉じろ』
その声は、人間の声だった。
機械音でも怪異の囁きでもない。
掠れ、長い孤独を背負った老人の声。
修司の心臓が激しく脈打つ。
「本当に……祖父さんなのか」
男はわずかに視線を伏せた。
『時間がない』
次の瞬間、ホームの外から轟音が響く。
ガタンッ!!
列車の車体が激しく軋み、車内の影の乗客たちが一斉に立ち上がった。
顔のない黒い人影が、ゆっくりホームへ向かって動き始める。
自衛隊員が無線で叫ぶ。
『ホーム上に多数の人影出現! 接近してきます!』
美咲が即座に指示を飛ばす。
「第一班、入口防衛! 観測室へ侵入させないでください!」
盾を構えた隊員たちがホーム側で防御線を作る。
だが黒い乗客たちは走らない。
ただ静かに、列車から降りてくる。
その異様さが、かえって恐怖を増幅させていた。
修司の《観測者》が激しく点滅する。
【境界侵食率:81%】
【観測室中枢が列車と接続中】
机の上の信号盤が突然赤く点灯した。
古い計器が自動的に動き始める。
カチ、カチ、カチ……。
中央のレバーには、黒ずんだ銘板が付いていた。
観測点閉鎖レバー
祖父はそれを見つめ、静かに言う。
『あの日、私は間に合わなかった』
修司は息を呑む。
祖父の背後の空間が、時折ノイズのように揺らいでいる。
完全な実体ではない。
《第零駅》に取り込まれながら、かろうじてここへ現れているのだ。
「どうすれば閉じられる?」
祖父はレバーを指差した。
『観測者が鍵だ』
同時に修司の右腕が焼けるように熱くなる。
《観測者》が新しい情報を表示した。
【閉鎖手順を確認】
【観測者の魔力を観測室中枢へ同期】
【同期中、観測者は列車側から強制接続されます】
つまり閉鎖操作を行えば、自分自身が《第零駅》と直接繋がる。
成功すれば観測点を閉じられる。
失敗すれば――列車に回収される。
美咲も表示を見たのか、顔色を変えた。
「危険すぎます!!」
「……他に方法はあるか?」
彼女は答えられなかった。
俺は美咲にぎこちなく微笑んだ。
ホームの轟音がさらに大きくなる。
隊員の悲鳴。
盾へ何かがぶつかる鈍い音。
防衛線が長くは持たない。
祖父が一歩前へ出た。
その身体は半透明になり始めている。
『修司』
初めて名前を呼ばれた。
修司は目を見開く。
祖父の眼差しには、怪異の冷たさではなく、強い後悔が宿っていた。
『私は観測してしまった』
観測。
それがすべての始まりだった。
七十四年前、地下工事中に《第零駅》を「見て」しまった。
その瞬間から、相良家はこの怪異と繋がってしまったのだ。
『列車は終点へ行く』
祖父の声が震える。
『終点へ行った者は、…帰れない』
修司の脳裏に、夢の中で聞いた「来るな」という言葉が蘇る。
祖父はずっと警告していたのだ。
ホーム側から、美咲の鋭い声が飛ぶ。
「修司さん! 急いでください!」
黒い乗客たちが観測室入口へ迫っていた。
盾に触れた瞬間、隊員の一人が膝をつく。
「寒い……!」
周囲の温度が急激に低下している。
このままでは全員が《第零駅》へ飲み込まれる。
修司はレバーへ手を伸ばした。
右腕の紋章が青白く輝く。
祖父は静かに頷いた。
『今度こそ、閉じろ』
その瞬間、観測室全体の照明が赤く染まった。
列車の発車ベルが鳴り響く。
ピンポーン――。
そして駅全体へ、あの女の機械音声が流れる。
『最終列車が発車します。観測者のご乗車を確認してください』
修司の手が、観測点閉鎖レバーを強く握り締めた。




