第40話 封印資料
午前七時。
西宮の空は薄曇りだった。
昨夜の出来事が嘘のように、マンションの外では通勤電車の音が規則正しく響いている。
修司はほとんど眠れないまま朝を迎えた。
窓ガラスの 0:13 は、朝日を浴びても完全には消えていなかった。
薄い白い曇りとして、確かにそこに残っている。
玲奈がコーヒーを差し出しながら、小さく言った。
「まだ残っていますね」
「ああ」
修司は指でなぞった。
冷たい。
普通のガラスよりも、そこだけ温度が低い。
《第零駅》は物理的な痕跡を残す。
その事実が、昨夜の恐怖を現実として突きつけていた。
午前九時半。
二人は再び兵庫県警本部へ向かった。
今日は昨日以上に警備が厳重だった。
受付を通過すると、すぐに美咲が迎えに来る。
彼女は昨夜ほとんど寝ていないのだろう。
目の下に薄い疲労の色が見えた。
それでも口調は落ち着いている。
「お越しいただきありがとうございます」
「そっちこそ、大丈夫か」
「少し眠れていませんが、問題ありません」
美咲はそう言って小さく微笑んだ。
玲奈は待合室へ案内され、修司だけが地下対策室へ入る。
対策室の雰囲気は昨日とは明らかに違っていた。
大型モニターには東梅田駅地下42m区画の写真が映し出されている。
コンクリート壁が消失した場所。
その奥に現れた白いタイル張りのホーム。
そして回収された古い資料の数々。
美咲は一冊の分厚いファイルを机へ置いた。
表紙には赤いスタンプでこう記されている。
極秘 大阪地下高速鉄道 第零線関連資料
「これが、昨夜回収されたものです」
修司は慎重にページを開いた。
中には1950年代の設計図、工事日誌、試験運行記録が綴じられている。
そして途中に、黄ばんだ一枚の報告書が挟まっていた。
美咲が静かに説明する。
「これは1952年7月31日付の内部報告書です」
修司は読み進めた。
第零線試験運行報告(抜粋)
運行時刻:0時13分
東梅田地下試験線にて異常信号を確認
存在しないホームへの接続を視認
列車番号 000 が無断で線路上に出現
乗務員一名が列車へ接近後、消息不明
最後の欄には、震えたような筆跡で追記が残されていた。
『あの列車は乗ってはいけない。終点へ行ってしまう』
修司の喉が乾く。
深海門の記録とは違う。
これは、実際に体験した人間の恐怖がそのまま残っている。
さらにページをめくると、祖父・相良修一郎の署名入りメモが現れた。
そこには短くこう書かれている。
『列車は地下を走っていない。駅の方がこちらへ来る』
修司は思わず顔を上げた。
美咲も真剣な表情で頷く。
「昨夜、あなたの自宅で起きた現象と一致します」
《第零駅》は固定された場所ではない。
接続対象へ“駅そのものが侵食してくる”。
祖父は七十四年前に、その事実へ辿り着いていたのだ。
「もう一つあります」
美咲はファイルの最後から一枚の写真を取り出した。
昨日のモノクロ写真とは別のものだった。
地下ホームに立つ三人の技師。
中央にヘルメット姿の男――修司の祖父。
その背後の壁には、黒板のようなものが立てかけられている。
拡大すると、そこにチョークで書かれた文字が読めた。
『接続解除条件:観測点の閉鎖』
修司は眉をひそめる。
「観測点……?」
美咲は別の資料を開いた。
「第零線計画では、地下42m区画に特殊な信号観測室が設置されていました。そこが《第零駅》との最初の接触地点だった可能性があります」
つまり、祖父たちは偶然門を開いたのではない。
地下工事中に“何か”を観測し、その結果として接続が発生したのだ。
そして解除条件として「観測点の閉鎖」を記録している。
「祖父は、それを閉じようとして失踪したのかもしれない……」
修司が呟くと、美咲は静かに頷いた。
「私もその可能性が高いと考えています」
その時、対策室の技術職員が慌ただしく駆け込んできた。
「九条警部補! 地下42m区画で新しい反応です!」
モニターに映像が切り替わる。
封鎖されたはずのコンクリート壁。
その表面に、赤い光がゆっくりと浮かび上がっていた。
数字だった。
0:13
対策室の空気が一瞬で張り詰める。
技術職員が震える声で報告する。
「現在時刻は午前10時07分です。接続時間ではありません」
それなのに、カウントダウンのように数字が明滅している。
美咲が修司を見る。
修司の右腕は、すでに熱を帯び始めていた。
《観測者》が静かに文字を浮かべる。
【観測点が再起動しています】
そして、その下に新たな警告が表示される。
【次回接続まで:13時間06分】
昨夜だけでは終わらなかった。
《第零駅》は次の運行へ向けて、すでに動き始めている。
しかも今度は、単なる侵食ではない。
七十四年前に閉じられなかった“観測点”そのものが再び目を覚まし始めていた。




