第37話 残された痕跡
玄関のドアが閉じてから、数分が経っていた。
それでも修司は、その場から動けなかった。
背中を預けたドアは冷たく、薄い霜がまだ金属部分に残っている。
玲奈は床に座り込んだまま、震える呼吸を繰り返していた。
部屋は元の明るさに戻っている。
冷蔵庫の駆動音も聞こえる。
テレビのリモコンも、テーブルの上にいつも通り置かれている。
何も変わっていないように見える。
だが修司には分かっていた。
さっきまで、この部屋は《第零駅》と繋がっていた。
スマホの通話はまだ続いていた。
『相良さん、聞こえていますか』
美咲の声が、今度は少し落ち着いている。
「ああ……大丈夫だ」
『こちらの状況も安定しつつあります。地下42m区画は再封鎖しました』
修司はゆっくりと床を見回した。
黒い水は完全に消えている。
だが、フローリングの継ぎ目に沿って、細い黒ずみが残っていた。
まるで長年水が染み込んでいた跡のようだ。
「こっちにも痕跡が残ってる」
『どのようなものですか』
「床に黒い染みだ。それと、鉄と油の臭いがまだ消えてない」
電話の向こうで、キーボードを打つ音が聞こえる。
美咲は記録を取っているのだろう。
『重要な情報です。現地でも同じ臭気が確認されています』
つまり幻覚ではない。
《第零駅》の侵食は、物理的な痕跡を現実へ残している。
玲奈がようやく立ち上がった。
顔色は悪いが、意識ははっきりしている。
「修司さん、腕……」
右腕を見ると、紋章の周囲に青白い細い線がさらに増えていた。
深海門を封印した時よりも広がっている。
ズキ……。
鈍い痛みが走る。
《観測者》が静かに表示を浮かべた。
【境界干渉負荷:高】
【能力使用による浸食率上昇を確認】
修司は眉をひそめる。
「……あまり使いすぎると、こっちにも影響が出るらしい」
玲奈はその言葉に顔を曇らせた。
「浸食って、どういう意味ですか」
「まだ分からない」
それは本当だった。
《観測者》は情報を与えるが、肝心な部分を曖昧にすることが多い。
深海門の時もそうだった。
能力を使うたびに、自分が少しずつ“向こう側”へ近づいているような感覚だけが残る。
美咲が静かに言った。
『相良さん。今夜の件で、一つはっきりしました』
「何だ」
『《第零駅》は、あなたを“接続点”として利用しようとしている可能性があります』
修司は黙り込んだ。
否定できない。
0番線を視認して以降、怪異は明らかに自分へ執着を強めている。
黒いコートの案内人。
最終列車の幻視。
そして、自宅への直接接続。
『本来なら、ただちに保護対象として警察管理下へ移っていただきたいところです』
美咲の口調は丁寧だが、その内容はかなり深刻だった。
『ただ、あなたを隔離しても《第零駅》との接続が切れる保証がありません』
「つまり、俺自身がアンカーみたいになってるってことか」
『現時点では、その可能性を否定できません』
玲奈が修司の手を強く握った。
その温もりだけが、現実へ繋ぎ止めてくれるようだった。
午前一時を回った頃、ようやく通話は終了した。
美咲は最後にこう言った。
『今夜は休んでください。明日、改めて対策を検討します』
「そっちも無理するな」
『ありがとうございます。お気遣い感謝します』
電話が切れる。
静寂が戻った。
玲奈はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で言った。
「終わって、ないんですよね」
修司は玄関のドアを見つめた。
ドアノブの霜は少しずつ溶けている。
だが完全には消えていない。
「終わってない」
正直に答えるしかなかった。
「今夜は押し返せただけだ」
玲奈は俯き、それからゆっくり顔を上げた。
「じゃあ、次に来ても一緒に戦います」
その目には恐怖が残っている。
それでも逃げようとはしていなかった。
修司は彼女の肩を抱き寄せる。
「できれば、そんな…次は来てほしくないけどな」
玲奈は小さく笑おうとして、結局うまく笑えなかった。
その時だった。
カタリ。
二人は同時に顔を上げる。
音は玄関ではない。
リビングの窓の方から聞こえた。
カーテンが、風もないのにわずかに揺れている。
修司はゆっくり近づき、カーテンを少し開いた。
西宮の夜景。
街灯。
静かな道路。
異常はない。
だが窓ガラスの表面に、薄く曇った指の跡が残っていた。
外側から、誰かが五本の指で触れたような跡。
そして、その曇りの中央に、小さく数字が浮かび上がっていた。
0:13
玲奈が息を呑む。
修司は窓ガラスを指で拭った。
だが数字はすぐには消えなかった。
まるでガラスの内部へ刻み込まれているかのように、薄く白い文字が残り続けていた。
《第零駅》は去っていない。
最終列車は発車した。
それでもなお、“次の運行時刻”だけを静かに残していったのだった。




