第36話 境界封鎖
黒い手袋の指が、ドアの隙間へ深く食い込んだ。
ギリ……ギリギリ……。
金属が軋む音が、静まり返った部屋に不気味に響く。
修司は全身の力でドアを押し返していた。
だが押し返している感触は、人間の腕ではない。
氷の塊とも違う。
冷たい“空間そのもの”を押し戻しているような感覚だった。
玲奈が背後から修司の腰へ腕を回し、必死に支える。
「修司さん……!」
床に広がる黒い水は、さらに範囲を広げていた。
水面には赤い文字が揺れている。
0番線
まるで地下ホームの案内表示が、この部屋へ滲み出してきているかのようだった。
スマホの向こうで、美咲の声が響く。
『相良さん、状況を教えてください!』
修司は歯を食いしばったまま答える。
「……玄関が繋がった。《第零駅》がこっちへ侵食してきてる」
一瞬、電話の向こうが静まり返った。
『……やはり、接続は現地だけではありませんでしたか』
その声は驚いていたが、完全に取り乱してはいない。
さすがに現場指揮を任されているだけのことはある。
『こちらでも同時刻に異常が発生しています。ホーム周辺の空間が不安定化し、壁面が断続的に消失しています』
「そっちの被害は?」
『負傷者が一名。現在救助中です』
背後で無線の怒号が飛び交う音が聞こえる。
美咲はすぐに続けた。
『相良さん、《観測者》に何か表示は出ていますか』
修司は視界の端を確認した。
赤い警告表示が点滅している。
【境界侵食率:38%】
【現実座標と《第零駅》座標が重複中】
その下に、新たな文字が浮かび上がった。
【対処可能:《封潮》の応用】
深海門で使った封印能力。
だが今回は海ではない。
地下鉄の怪異に通用する保証はない。
修司は深く息を吸った。
「美咲さん。《封潮》を試せるかもしれない」
『成功する可能性は?』
「分からない。だが何もしなければ、こっちの部屋ごと向こうに飲まれる」
玲奈が修司の腕を強く握る。
その手は震えている。
それでも彼女は離れなかった。
「私、手を離しません!」
修司は短く頷いた。
《観測者》へ意識を集中する。
右腕の紋章が青白く輝き始めた。
ズキズキと痛む。
深海門の時と同じだ。
いや、もっと重い。
《第零駅》は単なる魔力ではなく、空間の境界そのものへ干渉している。
ドアの隙間の向こうでは、地下ホームがさらに鮮明になっていた。
ホームの奥。
停車した最終列車。
閉まりかけた扉の隙間から、黒い人影たちがこちらを見ている。
顔のない乗客たち。
その中央に、黒いコートの男が立っていた。
男はゆっくりと帽子へ手を添え、まるで駅員のように一礼する。
『発車時刻です』
その瞬間、ドアがさらに押し開かれた。
冷気が部屋へ吹き込む。
玲奈が小さく悲鳴を上げる。
修司は右手をドアへ叩きつけた。
「――《封潮》!」
青白い光が爆発するように広がった。
玄関の周囲へ、無数の光の鎖が走る。
床に広がっていた黒い水が一瞬で凍りついたように静止した。
《観測者》が高速で解析を始める。
【対象:地下接続境界】
【封鎖率上昇中】
黒い手袋の指先から、ジュウッと煙のようなものが上がる。
男が初めて反応を見せた。
ぼやけた顔の奥で、笑みがわずかに消える。
電話の向こうで、美咲が鋭く言った。
『こちらでも反応がありました! ホームの空間歪曲が一時的に縮小しています!』
修司は全力で魔力を流し込む。
右腕が焼ける。
視界が揺れる。
《封潮》の鎖がドアの周囲を覆い、地下ホームとの境界を押し戻していく。
ギギギギ……。
ドアが少しずつ閉まり始めた。
黒いコートの男は、閉じていく隙間の向こうで静かに立っている。
そして最後に、低い声でこう告げた。
『終点では、またお会いしましょう』
バンッ!!
ドアが完全に閉じた。
同時に、部屋の冷気が一気に薄れる。
床の黒い水も、音もなく消えていった。
リビングの照明が復旧する。
暖かな電球色の光が部屋を照らした。
玲奈はその場に座り込み、荒い呼吸を繰り返している。
修司も玄関にもたれかかり、肩で息をしていた。
右腕の紋章は青白く発光したまま、激しく脈打っている。
スマホの向こうで、美咲が静かに報告した。
『こちらでもホームが消失しました。現在、地下42m区画は再びコンクリート壁で閉じられています』
修司は目を閉じ、深く息を吐いた。
「……一時的に押し戻せたらしいな」
『はい。ただし、完全に封印できたとは思えません』
美咲の声は疲れていた。
『《第零駅》は、こちらの調査に反応していました。そして今、あなたの自宅にまで接続してきた』
それは最悪の事実だった。
修司は玄関のドアを見つめる。
そこにはもう地下ホームの気配はない。
だが、ドアノブには薄く白い霜が残っていた。
《第零駅》は消えていない。
ただ今夜は、最終列車を見送っただけなのだ。
そして修司は理解していた。
次に0時13分が訪れた時、《第零駅》はもっと強く、もっと深く、現実へ侵食してくるだろうということを。




