第35話 零時十三分
秒針の音が、異常なほど大きく聞こえた。
カチ、カチ、カチ――。
リビングは闇に沈んでいる。
窓の外の街灯だけが、薄青い光を床へ落としていた。
玲奈は修司の腕にしがみついたまま、息を殺している。
玄関の向こうでは、もうノックは鳴っていない。
それがかえって恐ろしかった。
「修司さん……」
玲奈の声は震えていた。
修司は答えず、スマホの画面を見つめる。
通話はまだ繋がっている。
ノイズ混じりの向こう側で、美咲の荒い呼吸だけが聞こえた。
『……ホーム中央に、列車が停車しました』
その言葉と同時に、修司の右腕が激しく灼けた。
── ズガンッ――!
今までとは比較にならない痛み。
《観測者》が赤く点滅する。
【最終接続開始】
時計が 0:13 を示した瞬間だった。
部屋の温度が、一気に下がった。
吐いた息が白くなる。
そして、玄関のドアノブが――
カチャリ。
ゆっくりと動いた。
鍵は掛かっている。
それなのに、外側から静かに回されている。
玲奈が小さく悲鳴を呑み込む。
修司は立ち上がり、玄関を睨みつけた。
カチャ……カチャ……。
執拗に、確かめるようにドアノブが回される。
その時、《観測者》が強制的に視界を奪った。
暗闇。
白いタイルの地下ホーム。
湿った空気。
天井の蛍光灯は半分以上が切れ、チカチカと明滅している。
修司は理解した。
ここは《第零駅》だ。
ホームの駅名標には、黒ずんだ文字でこう書かれている。
第零駅
その下には、古い時刻表が貼られていた。
だが記載されているのは一本だけ。
最終列車 0:13
ガタン……ゴトン……。
ホームの向こう側で、列車の扉が開く音がした。
銀色の古い車両。
窓ガラスは曇り、車内灯は青白く揺れている。
座席には人影が並んでいた。
スーツ姿の男。
作業服の男。
制服姿の若者。
だが全員、顔がない。
黒い影が人の形をして座っているだけだった。
そして最後尾の扉の前に、あの黒いコートの男が立っていた。
男はゆっくりとこちらへ顔を向ける。
相変わらず輪郭はぼやけている。
だが今度は、その口元だけがはっきり見えた。
男は静かに笑っていた。
『お待ちしておりました』
修司ははっと我に返った。
目の前には、自宅の玄関。
だが異変は終わっていなかった。
ドアの下の隙間から、白い霧のようなものがゆっくりと入り込んできている。
地下の冷気だ。
湿った鉄と油の臭いが、部屋の中へ流れ込んでくる。
スマホの向こうで、美咲が叫ぶ。
『相良さん! 応答してください!』
「聞こえてる!」
『こちらで異常が起きています!』
背後で、玲奈が震える声を上げた。
「修司さん、床……!」
リビングのフローリングに、黒い水が滲み始めていた。
ぽたり。
ぽたり。
天井からではない。
床の継ぎ目から、まるで地下水のように染み出してくる。
その水面に、赤い光が揺れていた。
修司が目を凝らすと、水の中に文字が映っている。
0番線
まるでホームの電光掲示板が、水面へ反射しているようだった。
その瞬間、玄関のドアが内側へ大きく軋んだ。
ギギギギ……。
鍵が掛かっているはずなのに、ドアが数センチ開く。
隙間の向こうは、マンションの廊下ではなかった。
暗い地下ホームが見えていた。
白いタイル。
古びた柱。
そして、赤く点灯する案内表示。
0番線 最終列車
玲奈が修司へしがみつく。
「閉めて……!」
修司は全身の力でドアを押し返した。
冷たい。
鉄ではない。
まるで氷の塊を押しているようだった。
隙間の向こうから、ゆっくりと黒い手袋の手が伸びてくる。
長い指先が、ドアの縁を掴んだ。
《観測者》が警告を表示する。
【境界侵食率:31%】
【《第零駅》が現実空間へ接続しています】
スマホの向こうで、美咲の声が切迫する。
『ホームの列車が動き始めました! 扉が閉まります!』
その直後、地下ホームから機械的な発車ベルが鳴り響いた。
ピンポーン――。
そして、女の声が静かに告げる。
『最終列車が発車します。ご乗車のお客様は、お急ぎください』
黒い手袋の指が、さらに深くドアの隙間へ食い込んだ。
修司の部屋と《第零駅》の境界が、今まさに繋がろうとしていた。




