第29話 日常と違和感
翌朝。
修司が目を覚ましたのは午前六時半だった。
ほとんど眠れた気がしない。
カーテンの隙間から差し込む朝日が妙に白く見える。
隣では玲奈がまだ眠っていたが、昨夜よりも修司に近い位置で丸くなっていた。
無意識に離れたくなかったのだろう。
修司は静かにベッドを抜け出し、洗面所で顔を洗った。
冷たい水が頬を打つ。
鏡の中の自分は、数日でずいぶん疲れた顔をしていた。
四十五歳のフリーライターが、地下鉄の怪異と戦うことになるなど、少し前なら冗談にもならなかっただろう。
右腕を見る。
黒い紋章は変わらずそこにある。
だが昨夜のような熱は感じない。
それでも、《第零駅》の映像は鮮明に記憶へ残っていた。
0番線 最終列車
あの赤い文字だけは、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
キッチンでコーヒーを淹れていると、玲奈が眠そうな顔でやってきた。
「おはようございます……」
「おはよう。少しは眠れたか?」
あの後、玲奈は俺を掴まえて離さなかったからな…
玲奈は少し考えてから、小さく首を横に振った。
「修司さんがいなくなってる…夢を見ました」
修司はコーヒーカップを置き、彼女の頭を軽く撫でる。
「まだ、ここにいるぞ」
玲奈はその手に頬を寄せ、ようやく少し安心したように笑った。
「今日はどこにも行かないでください」
「取材の予定もない。家で情報整理をするくらいだ」
「本当に?」
「本当にだ」
玲奈はようやく納得したように頷き、冷蔵庫から卵を取り出した。
「じゃあ、朝ご飯を作りますね」
朝食はシンプルなベーコンエッグとトーストだった。
食事をしながら、二人とも自然と昨夜の話題を避けていた。
だが沈黙が長くなると、玲奈がぽつりと呟く。
「美咲さん、大丈夫でしょうか」
修司も同じことを考えていた。
東梅田駅では、今も警察の調査班が動いているはずだ。
「無茶をするタイプじゃないと思うが…」
「でも、責任感は強そうです」
確かにそうだ。
深海門の時も、美咲は最後まで現場に残っていた。
警察官としての責任感が、彼女を危険へ向かわせている。
修司はスマホを確認した。
美咲から新しい連絡は来ていない。
それが逆に気になった。
午前九時過ぎ。
修司はリビングのテーブルにノートパソコンと資料を広げた。
東梅田駅の構造図。
失踪者の時系列。
監視カメラ映像のメモ。
深海門とは違い、《第零駅》には明確な物理的入口が確認されていない。
それが厄介だった。
修司は考えを整理するため、紙に大きく書き出す。
《第零駅》仮説
特定時間帯にのみ出現
「0番線」の表示が鍵
視認者へ精神的マーキングを行う
黒いコートの案内人が誘導役
最終列車が本体、または接続装置の可能性
そこまで書いた時、スマホが震えた。
美咲からだった。
修司はすぐにメッセージを開く。
『おはようございます。お時間がある時にご確認ください』
添付ファイルが一つ付いている。
監視カメラの静止画だった。
東梅田駅、終電後。
薄暗いホームに赤く点灯する 0番線 の表示。
そしてホーム端に立つ黒いコートの男。
だが今回、修司の目を引いたのは別の部分だった。
ホームの柱に貼られた古い路線図。
そこには現在存在しない駅名が並んでいる。
そして終点部分に、小さくこう書かれていた。
《第零駅》
修司の背筋に冷たいものが走る。
美咲から続けてメッセージが届く。
『これまで読めなかった部分が、画像補正で判読できました』
さらにもう一文。
『相良さん、《観測者》の貴方に確認していただきたいことがあります』
修司は画面を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
昨夜の悪夢は、単なる幻覚ではなかった。
《第零駅》は、確かに梅田の地下に存在している。
そして今、その正体へ繋がる最初の手掛かりが現れようとしていた。




