第27話 …帰路
美咲と別れた後も、修司はしばらくその場を動けなかった。
梅田の夕方は騒がしい。
高層ビルの谷間を風が抜け、信号が変わるたびに人の流れが大きく動く。
それなのに修司の耳には、地下の静けさがまだ残っていた。
玲奈がそっと隣に立つ。
「帰りましょう」
「ああ」
黒田も腕を組んだまま頷いた。
「今日はもう十分だ。これ以上は、嫌な予感しかしない」
三人は大阪駅へ向かって歩き出した。
地下を避け、地上の歩道を選ぶ。
普段なら遠回りに感じるルートだったが、今日は誰も文句を言わなかった。
大阪駅の中央口に近づくにつれ、人の多さはさらに増していく。
旅行客のキャリーバッグが行き交い、駅前の大型ビジョンではニュースと広告が交互に流れていた。
その映像の中に、一瞬だけ神戸港の規制区域が映る。
『政府は、関西圏における特殊災害対策本部の設置を検討しており――』
音声はすぐに別の話題へ切り替わった。
黒田が苦笑する。
「“特殊災害”ねぇ。便利な言葉だな」
「真実を隠すには都合がいいんだろうな」
修司はそう答えながらも、視線は自然と地下入口へ向かってしまう。
東梅田方面へ続く階段。
昼間に聞いたブレーキ音が、まだ耳の奥に残っていた。
玲奈はその視線に気づき、修司の腕を軽く抱き寄せる。
「見ないでください」
「……悪い」
「修司さんは、気になると自分から近づいてしまいます」
否定できなかった。
阪急電車に乗り込むと、ようやく少しだけ緊張が緩んだ。
窓の外を流れていく大阪の街並み。
中津、十三、塚口――見慣れた駅名が続く。
玲奈は修司の肩に頭を預け、静かに目を閉じていた。
疲れているのだろう。
深海門から帰還してまだ二日も経っていない。
それなのに、もう次の門の影が迫っている。
黒田は向かいの席でスマホを弄りながら言った。
「美咲さん、かなり本気だったな」
「ああ」
「警察だけで何とかなる相手じゃないって、向こうも分かってるんだろうな…」
修司は窓の外を見たまま答える。
「だからこそ、…今は近づくなと言ったんだと思う」
黒田はしばらく黙り、それから小さく息を吐いた。
「珍しく、俺もその意見に賛成だ」
西宮北口へ戻った頃には、空はすっかり暗くなっていた。
駅前のスーパーはまだ営業しており、学生たちがコンビニの前で笑い合っている。
梅田の地下で起きている異常など、ここには一切届いていない。
マンションへ戻ると、玲奈が真っ先にカーテンを閉めた。
その仕草が妙に慎重で、修司は少し気になった。
「どうした?」
「今日は、外が少し怖いんです」
玲奈は小さく笑おうとしたが、うまく笑えていなかった。
修司は彼女の肩を軽く抱き寄せる。
「ここは大丈夫だ」
「……はい」
夜九時過ぎ。
簡単な夕食を済ませた後、修司はリビングでノートパソコンを開いた。
今日得た情報を整理するためだ。
《第零駅》は少なくとも半年以上前から活動している
終電後に「0番線」が出現する
視認者は門に記録される
昼間にも断続的な出現が始まっている
黒いコートの「案内人?」が存在する
深海門との共通点は少ない。
むしろ、都市伝説と怪異が融合したような性質を持っている。
修司がメモを打ち込んでいると、右腕が微かに熱を帯びた。
ズキン。
《観測者》が反応する。
画面の文字が一瞬揺らぎ、ノートパソコンの黒いモニターに別の映像が映り込んだ。
暗い地下ホーム。
白いタイル。
そして、ホーム端に立つ黒いコートの男。
今度は以前よりはっきり見える。
男はゆっくりと腕を上げ、こちらを招くような…挑発的に指を曲げた。
修司は反射的に画面を閉じる。
バンッ、と乾いた音が部屋に響いた。
玲奈がキッチンから顔を出す。
「修司さん?」
「……何でもない」
だが心臓は激しく脈打っていた。
《第零駅》は距離に関係なく接触してくる。
地下から離れても、完全には逃れられない。
修司は閉じたノートパソコンに手を置き、静かに息を吐いた。
その時、スマホが震えた。
画面には美咲からの短いメッセージが表示されていた。
『東梅田駅で新たな異常を確認しました。詳細は明日お伝えします』
たった一文。
だがその短さが、かえって不吉だった。
西宮の静かな夜の中で、梅田の地下だけが少しずつ現実へ滲み出してきている。
修司は窓の外の闇を見つめながら、嫌な確信を抱いていた。
《第零駅》は、もう遠い場所の怪異ではない。
すでに、自分たちの日常のすぐ隣まで来ている。




