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第26話 九条美咲


地下通路を抜けて地上へ出た瞬間、修司はようやく息を吐いた。


八月の湿った熱気が肌にまとわりつく。


地下の冷房と異様な静けさの後では、その蒸し暑ささえ現実を確認させてくれるようだった。


大阪駅前第2ビルの前では、観光客が写真を撮り、会社員たちが慌ただしく横断歩道を渡っている。


普通の梅田だ。


だが修司の右腕には、まだ《観測者》の熱が残っていた。


玲奈は修司のすぐ隣を歩きながら、小さく呟く。


「地上に出ると、少し楽になります」


「俺もだ」


黒田は振り返って地下入口を見た。


「今日はもう解散にしようぜ。あそこにいると、頭がおかしくなりそうだ」


修司も同意しかけた、その時だった。


スマホが震える。


今度はメッセージではなく着信だった。


九条美咲


修司はすぐに通話へ出る。


「もしもし」


『相良さん、今どちらにいらっしゃいますか』


美咲の声はいつも通り落ち着いていた。


以前のぶっきらぼうな印象は薄れ、今は警察官らしい丁寧な口調が自然に馴染んでいる。


怪しい存在から、少しは信用されたのだろうか…


「第2ビルを出たところだ。地下からは離れた」


『それなら安心しました。実は、少しお話ししたいことがあります』


「今からか?」


『はい。できれば、地上で』


修司は黒田と玲奈を見た。


二人とも察したように頷く。


「分かった。どこへ行けばいい」


『大阪駅前第1ビルの北側に小さな公園があります。五分ほどで着きます』


約束の場所は、高層ビル群に挟まれた小さな広場だった。


ベンチと植え込みがあるだけの簡素な場所だが、地下通路の圧迫感に比べればずっとましだった。


美咲はすでに到着していた。


私服姿だった。


紺色のブラウスに黒いパンツという地味な服装だが、姿勢の良さのせいか妙に目を引く。


警察手帳を持っていなければ、普通の会社員に見えるかもしれない。


彼女は三人を見ると、軽く頭を下げた。


「お疲れさまです。急にお呼びして申し訳ありません」


黒田が小声で修司に囁く。


「今日の九条さん、やたら丁寧だな」


「聞こえていますよ、黒田さん」


「こちらも…あれから色々とありまして…」


美咲は苦笑した。


その反応に、黒田が肩をすくめる。


ベンチに腰を下ろすと、美咲はタブレットを取り出した。


画面には東梅田駅周辺の監視カメラ配置図が表示されている。


「先ほどお伝えした異常映像ですが、詳細が分かりました」


彼女は画面を拡大した。


東梅田駅へ向かう地下通路。


時刻は 12:14。


昼間だ。


人通りの多い時間帯のはずなのに、映像の一角だけが不自然に暗くなっている。


「この部分をご覧ください」


暗い領域の奥に、白いタイルの壁が映っていた。


現在の東梅田駅には存在しない、古い駅舎のようなデザイン。


そして壁の上には、ぼんやりとした表示板が浮かんでいる。


0


たった一文字だけ。


玲奈が小さく息を呑んだ。


「昼間なのに……」


美咲は静かに頷く。


「これまでは終電後にしか発生していませんでした。しかし今日は、正午過ぎに一瞬だけ出現しています」


修司は眉をひそめた。


「活動時間が広がっている?」


「その可能性があります」


美咲は少し表情を引き締めた。


「さらに問題なのは、この映像が記録された直後、カメラの担当オペレーターの数分間の記憶が、欠落を起こしていることです」


黒田が顔をしかめる。


「記憶まで消すのかよ……」


「完全に消えているわけではありません。ただ、その数分間だけ“何を見ていたか思い出せない”と証言しています」


修司の脳裏に、深海の巫女の精神干渉がよぎる。


《第零駅》も、精神へ直接作用するタイプの門なのかもしれない。


美咲はタブレットを閉じ、修司をまっすぐ見た。


「相良さん。率直に伺います」


「何だ?」


「あなたは、あの地下通路で何かを見ましたよね?」


玲奈が少し緊張したように修司を見る。


隠しても意味はない。


修司は短く答えた。


「黒いコートの男だ。監視カメラ映像に映っていた人影と同じだった」


美咲の表情がわずかに変わった。


「やはり……」


「そっちでも確認してるのか?」


「はい。ただし、映像にはほとんど残りません。複数の警察官が“見た”と証言していますが、録画データには人影が存在しないケースが多いんです…」


風が吹き、植え込みの葉が揺れた。


地上の明るい空の下で話しているのに、内容だけが異様に重い。


しばらく沈黙が続いた後、美咲は少し声を落とした。


「…お願いがあります」


修司は彼女を見る。


「今夜、東梅田駅へは絶対に近づかないでください」


その口調には、警察官としての命令というより、個人的な危惧が滲んでいた。


「こちらでも調査班を編成しています。まずは警察側で可能な限り情報を集めます」


「俺たち抜きで?」


「はい。少なくとも現時点では、その方が安全です」


玲奈がほっとしたように小さく息を吐く。


修司も頷いた。


「分かった。今日は動かない」


美咲はわずかに表情を緩めた。


「ありがとうございます」


その丁寧な言い方が、逆に事態の深刻さを感じさせた。


彼女は立ち上がり、最後にもう一度だけ修司へ視線を向ける。


「相良さん。《第零駅》は深海門とは性質が違います」


「どう違う」


美咲は少し考えてから、静かに答えた。


「深海門は“異世界へ踏み込む門”でした。でも《第零駅》は――」


彼女は梅田の地下へ続く入口の方向を見た。


「日常の中へ異常が侵食してくる門です」


その言葉だけを残し、美咲は人混みの中へ歩き去っていった。


修司はしばらくその背中を見送っていた。


梅田の高層ビル群の足元。


無数の人々が行き交う地下のどこかで、《第零駅》は静かに次の来訪者を待っている。


そして修司は、自分がすでにその候補に入ってしまっていることを、痛いほど理解していた。

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