第22話 休日の終わり
その夜は、不思議なほど静かだった。
神戸湾で巨大怪物と戦ったことも、海底の第二階層で卵を封印したことも、まるで遠い昔の出来事のように感じられる。
玲奈は先にシャワーを浴び、薄手の部屋着姿でソファに座っていた。
テレビでは夜のニュースが流れている。
『神戸港沖で発生した大規模海難事故について、政府は引き続き調査を進めています――』
事故。
その言葉に、修司は苦い顔をした。
映像には規制線と巡視船しか映っていない。
《アビス・イーター》の存在は、完全に隠蔽されているようだった。
玲奈がリモコンの音量を少し下げる。
「本当に、全部なかったことみたいですね」
「パニックを避けたいんだろうな」
「でも、隠し続けられるんでしょうか」
修司はすぐには答えられなかった。
西宮の平穏な夜景を見ていると、隠蔽は成功しているようにも見える。
だが地下では、別の門が静かに目を覚まし始めているかもしれない。
午後十一時を回った頃、修司のスマホが震えた。
画面には 九条美咲 の名前。
修司が通話に出ると、彼女の落ち着いた声が聞こえてきた。
『休んでるところ悪いわね』
「仕事熱心な警察は嫌われるぞ」
『あなたも休む気がないでしょう』
否定できなかった。
美咲は少し間を置いて続ける。
『深海門の封印状態は安定してる。あなたの《封潮》は予想以上に強力だった』
「それは良かった」
『ただし、問題が一つあります』
修司の表情が自然と引き締まる。
『東梅田の件、単なる噂じゃ済まなくなりました』
玲奈も会話の雰囲気を察したのか、静かにこちらを見ている。
「何があった」
『大阪メトロの保守員が、今夜…新たに一人消えました』
修司は眉をひそめた。
『監視カメラには、東梅田駅の終電後に地下通路へ入っていく姿が映っている。でも、その先の映像が途中で途切れている』
「機械トラブルじゃないのか?」
『普通のトラブルなら、映像が消えるだけで済む。でも――』
美咲の声がわずかに低くなる。
『途切れる直前、存在しないホームが映っていました』
部屋の空気が一瞬で冷えた気がした。
修司の右腕が、じわりと熱を帯びる。
《観測者》が微かに反応している。
電話を切った後、しばらく沈黙が続いた。
玲奈がそっと尋ねる。
「東梅田……ですよね」
「ああ」
修司はソファにもたれ、天井を見上げた。
美咲は「今すぐ来い」とは言わなかった。
おそらく、まだ警察側でも情報を集めている段階なのだろう。
それでも、状況は確実に動き始めている。
玲奈は修司の隣へ移動し、静かに寄り添った。
「今日は、考えすぎないでください」
「難しい注文だな」
「じゃあ、少しだけでいいです」
彼女は修司の肩に頭を預ける。
その温もりがあるだけで、張り詰めた神経が少し緩むのを感じた。
深夜零時。
玲奈が寝室へ入った後も、修司は一人でリビングに残っていた。
ノートパソコンを開き、東梅田駅の構造図を表示する。
地下鉄御堂筋線。
谷町線。
阪急・阪神・JRへ繋がる複雑な地下通路。
そのどこかに、「存在しないホーム」がある。
修司は地図を眺めながら、小さく息を吐いた。
深海門は“異世界への入口”だった。
だが地下鉄の門は、もっと人間の生活に近い場所にある。
だからこそ、より危険かもしれない。
ふと、右腕の紋章が再び熱を持った。
《観測者》が、久しぶりに文字を浮かび上がらせる。
【東梅田地下領域を観測中】
数秒後、新たな一文が追加された。
【正式名称:《第零駅》】
そして最後に、これまで見たことのない警告が表示される。
【注意】
【この門は“人を誘う”性質を持っています】
修司はゆっくりとパソコンを閉じた。
休日は終わった。
西宮の静かな夜の向こうで、梅田の地下が静かに低くこちらを呼び始めていた。




