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第21話 静かな夕食


公園からマンションへ戻る頃には、空はゆるやかに茜色へと移り変わっていた。


夏の夕暮れ特有の、わずかに湿り気を帯びた風が吹いている。


玲奈は買い物袋を抱えながら、どこか満足げな表情を浮かべていた。


「今日はとても穏やかでしたね」


「スーパーと公園で満足できるなら、ずいぶん安上がりな彼女だな」


「修司さんと一緒なら、それで十分です」


さらりと返され、修司は苦笑するしかなかった。


部屋に戻ると、玲奈はすぐにキッチンへ向かった。


トマトを刻む規則的な音。


鍋で玉ねぎが炒められる香ばしい気配。


オリーブオイルとニンニクの香りが、室内にゆっくりと広がっていく。


修司はリビングのソファに腰を下ろし、久しぶりにノートパソコンを開いた。


フリーライターとしての仕事は、依然として止まったままだ。


深海門の件を記事にすることはできない。


しかし、赤橋事件や関西各地で増加している「不可解な失踪」については、情報を整理しておく必要があった。


画面には、黒田から送られてきたメモが並んでいる。


東梅田駅終電後の目撃証言


地下鉄保守員二名の失踪


「存在しないホーム」の噂


深夜に聞こえる列車のブレーキ音


修司はわずかに眉をひそめた。


神戸湾の深海門は、明確に“異世界”の領域だった。


しかし東梅田の噂には、それとは異なる都市伝説的な不気味さがある。


地下鉄という、何百万人もの生活を支える日常の直下に異常が潜んでいる。


その性質は、海底の怪物とは別種の恐怖だった。


「難しい顔をしていますね」


玲奈がキッチンから顔を覗かせる。


「少し情報を整理していただけだ」


「今日は休むって言っていませんでしたか?」


「原稿じゃない。メモだ」


玲奈はしばらく修司を見つめたあと、小さく息を吐いた。


「無理はしないでくださいね」


「分かっている」


そう答えながらも、本当に理解できているのかは自分でも確信が持てなかった。


夕食は、玲奈の言葉通り鶏のトマト煮だった。


柔らかく煮込まれた鶏肉に、バジルの香りがよく馴染んでいる。


修司は一口食べ、素直に感心した。


「店を出せるレベルだな」


「褒めても、……夜のサービスくらいしかできませんよ」


「それで十分だ」


玲奈は少し赤くなり…嬉しそうに微笑み、自分の皿にも少し取り分けた。


食事中、二人は意識的にダンジョンの話題を避けた。


最近観た映画のこと。


近くに新しくできたカフェのこと。


黒田が過去の取材でやらかした失敗談。


そうした他愛のない会話が、今はかえって貴重に感じられる。


食後、玲奈が食器を洗っている間、修司はベランダに出た。


夜の西宮北口駅周辺は、昼間よりもわずかに静けさを増している。


遠くから電車の走行音がかすかに響いていた。


修司は右腕の紋章に触れる。


熱はほとんど感じられない。


それでも、完全に消える気配もなかった。


《観測者》は沈黙したまま、ただそこに在り続けている。


「……次は梅田か」


小さく呟いたその背後から、玲奈がそっと肩にブランケットを掛けた。


「夜風、冷えますよ」


「ありがとう」


玲奈は修司の隣に並び、同じ夜景を見上げる。


しばらくの間、二人は言葉を交わさなかった。


やがて玲奈が静かに口を開く。


「修司さん」


「なんだ」


「もし次の門が本当に地下鉄にあるのだとしたら……これまでみたいに、“人の目が届かない場所”ではありませんよね」


修司は小さく頷いた。


「そうだな。毎日何万人も行き交う場所かもしれない」


「だから、きっと放っておけなくなりますね」


玲奈は修司の性格をよく理解していた。


修司は苦笑しながら、彼女の頭に軽く手を置く。


「その時は、その時に考えるさ」


「むぅ…ずるい答えです」


「おっさんは時々、そういう答え方をするんだ」


そう言って、頭を撫でた


玲奈は小さく笑い、修司にギュッと寄り添った。


遠くの空には、梅田方面の街明かりが淡く滲んでいる。


その地下で何が起きているのかは、まだ誰にも分からない。


遠くで聞こえるサイレンやクラクションの音が、やけに街に響いていた

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