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第20話 普通の午後


午後一時を過ぎた頃。


玲奈がエプロンを外しながら振り返った。


「冷蔵庫の中身は、ほとんど空ですね」


修司も中を確認し、苦笑する。


卵、牛乳、調味料が少し残っているだけだった。


深海門から戻って以降、まともに買い出しをしていない。


「じゃあ、今日は本当に普通のことをするか」


「はい。普通のデートです」


玲奈はわずかに嬉しそうに言った。


その言い方に、修司は思わず笑みをこぼす。


「スーパーへの買い出しをデート扱いする三十二歳ってどうなんだ」


「相手が修司さんなら、私は何でも嬉しいです」


さらりと言われると、四十五歳の男としては反応に困る。


二人は西宮北口駅近くの商業施設へ向かった。


夏休みに入り始めた週末の午後で、館内は家族連れや学生で賑わっている。


神戸港で巨大怪物が暴れた翌日とは思えないほどの平穏だった。


エスカレーターを上がりながら、玲奈が小さく呟く。


「こういう場所に来ると、昨日のことが夢のように感じます」


「俺もだ」


しかし修司の右腕には、黒い紋章が確かに残っている。


夢ではない。


それでも今は、買い物かごを手に歩く自分の方が現実的に思えた。


食品売り場に入ると、玲奈は意外なほど手際が良かった。


野菜を選び、肉のパックを比較し、必要なものを次々とかごへ入れていく。


「今日は何を作るつもりなんだ?」


「鶏のトマト煮と、簡単なサラダです」


「随分しっかりした献立だな」


「修司さん、放っておくとコーヒーとコンビニで済ませようとしますから」


否定はできなかった。


玲奈はトマトを選びながら、ふと真剣な表情になる。


「ちゃんと料理をしないと……普通の味を忘れてしまいそうで」


修司は小さく笑った。


「ファイアボア肉はうまいからな」


「だからといって常食にしないでください」


その時、近くの通路から子どもの声が聞こえた。


「ねえねえ、お母さん! 神戸の海に怪獣が出たんでしょ?」


母親らしき女性が困ったように笑う。


「テレビの見すぎよ」


修司と玲奈は顔を見合わせた。


世間ではまだ、あの事件は「大規模事故」程度の認識に留まっている。


政府がどこまで情報を統制しているのかは分からないが、少なくとも混乱は抑えられているようだった。


買い物を終えた後、二人は館内の小さなカフェに入った。


窓際の席からは、西宮北口駅のロータリーが見える。


玲奈はアイスティーをストローで軽くかき混ぜながら言った。


「こうしていると、本当に普通の恋人みたいですね」


「普通じゃなかったのか?」


「普通の恋人は、海底で巨大な卵を封印したりしません」


それは確かにそうだ。


修司はアイスコーヒーを飲みながら、少し考える。


「後悔してるか?」


玲奈はすぐには答えなかった。


窓の外に視線を向け、それから静かに首を振る。


「怖いです。でも、後悔はしていません」


彼女は修司の右手にそっと触れた。


「修司さんが一人で行っていたら、もっと怖かったと思います」


その言葉に、修司の胸の奥がわずかに温かくなる。


夕方前、二人は公園をゆっくりと歩いて帰った。


セミの声が響き、子どもたちがボール遊びに興じている。


どこにでもある夏の風景だった。


ベンチに腰を下ろすと、玲奈が隣に寄り添うように座る。


少し風が強く、彼女の長い髪が修司の肩に触れた。


「修司さん」


「ん?」


「もし、東梅田の門が本当に開いたら……また行くんですよね?」


修司はしばらく黙っていた。


正直なところ、行きたくはない。


危険は大きく、すでに十分すぎるほど異常な経験をしている。


それでも、《観測者》が示した以上、無視することはできない気がしていた。


「情報次第だ」


「それ、半分は“行く”ってことですよね」


玲奈は小さくため息をつく。


しかし責めるような響きはない。


彼女は修司の肩にそっと頭を預けた。


「じゃあ、その時までに、もっと普通の時間を増やしましょう」


修司は空を見上げる。


青空の向こうに、梅田の高層ビル群は見えない。


だが地下のどこかで、“存在しないホーム”が静かに待っている。


それでも今は、急ぐ必要はない。


西宮の夏の風と、隣にいる恋人の温もりを感じながら、修司はしばらく何も考えずに座っていた。

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