第19話 朝のコーヒー
翌朝。
修司が目を覚ました時、カーテンの隙間から柔らかな朝日が差し込んでいた。
時計は午前七時半。
ここ数日の出来事を思えば、驚くほど穏やかな朝だった。
隣を見ると、玲奈はまだ眠っている。
長い黒髪が枕へ広がり、寝息は静かだった。
命のやり取りがあったせいか、昨夜の俺と玲奈はかなり激しかったな…
ほとんど眠れていないはずなのに、その表情は少しだけ安心しているように見える。
修司は起こさないよう静かにベッドを抜け出し、キッチンへ向かった。
コーヒー豆を挽く音が、小さく部屋に響く。
ガリガリ、ガリガリ。
この時間が好きだった。
記事の締め切りに追われる前の、ほんの短い静寂。
湯を注ぐと、深い香りが部屋に広がる。
だがカップを持ち上げた瞬間、右腕がずきりと痛んだ。
袖をめくる。
黒い紋章の周囲に増えていた青白い線は、昨夜よりさらにわずかに広がっていた。
《観測者》は今のところ沈黙している。
それが逆に不気味だった。
修司は小さくため息をつく。
「本当に、普通のライターに戻れる気がしないな……」
その時、背後から眠そうな声が聞こえた。
「朝から難しい顔してますね」
振り返ると、玲奈が髪を軽くまとめながら立っていた。
まだ少し寝ぼけているのか、普段より柔らかい雰囲気だった。
「起こしたか?」
「コーヒーの匂いで起きました」
彼女は修司の隣へ来て、自然に腕へ寄り添う。
以前なら、少し遠慮がちだった距離感が、今ではすっかり当たり前になっていた。
修司は二人分のコーヒーを淹れ、テーブルへ置く。
玲奈はカップを両手で包み込みながら、小さく息を吐いた。
「平和ですね」
「…今だけかもしれないけどな」
「だから、今を大事にしたいんです」
その言葉に、修司は何も返せなかった。
朝食は簡単なトーストとスクランブルエッグだった。
玲奈がサラダを並べながら、ふと真面目な顔になる。
「今日はどうするんですか?」
「まずは休む」
「本当に?」
疑いの目だった。
修司は苦笑する。
「本当だ。深海門の件は72時間は安定してるらしいし、美咲からも“今日は動くな”って釘を刺されてる」
すると玲奈は少し安心したように頷いた。
「じゃあ今日は、普通の日にしましょう」
普通の日。
その言葉が、今の修司には妙に貴重に聞こえた。
午前十時過ぎ。
修司は久しぶりにカメラを持ってマンションのベランダへ出た。
趣味で使っているフルサイズの一眼レフ。
西宮の街並みを何枚か撮る。
阪急電車。
駅前のロータリー。
遠くに見える六甲山。
ファインダーを覗いている間だけは、世界が少し整理される気がした。
玲奈が後ろから覗き込む。
「やっぱり、修司さんはカメラを持ってる時が一番落ち着いてます」
「料理とカメラだけは、昔から裏切らないからな」
「私は?」
修司はファインダーから目を離し、彼女を見る。
玲奈は冗談めかして言ったつもりなのだろうが、少しだけ不安そうな顔をしていた。
修司は苦笑して、彼女の額を軽く指で弾く。
「お前は最近、俺の平穏を奪う側だ」
「ひどい」
「でも、悪くない」
玲奈は照れたように笑い、そのまま修司の肩へ寄りかかった。
昼前になると、黒田からメッセージが届いた。
『生きてるか』
修司は短く返信する。
『一応』
すぐに電話がかかってきた。
「お前、その“一応”って返事やめろ。縁起でもない」
「そっちは?」
「筋肉痛で死にそうだ。四十五歳の身体に深海戦闘は厳しい」
黒田の声はいつもの調子に戻っていた。
それだけで少し安心する。
「で、東梅田の件なんだが」
修司はコーヒーを置いた。
「何か出たのか?」
「まだ噂レベルだ。ただ、終電後に“存在しないホーム”を見たって証言が複数ある」
修司の右腕が、ほんのわずかに熱を帯びた。
黒田は続ける。
「今すぐ動く必要はない。でも気をつけろ。地下鉄関係者の間で妙な失踪が出始めてる」
失踪。
その言葉に、赤橋事件の記憶がよぎる。
修司は窓の外を見つめた。
東梅田。
巨大都市の地下。
深海門とはまったく違うタイプの不気味さがある。
「分かった。情報が集まるまで待つ」
「珍しく慎重だな」
「たまには大人らしくするさ」
電話を切ると、玲奈が静かにこちらを見ていた。
「東梅田、ですよね」
「聞こえてたか」
「少しだけ」
彼女はテーブルへ戻り、洗い物を始める。
その背中を見ながら、修司は思った。
まだ、急がなくていい。
神戸湾の傷も、まだ完全には癒えていない。
次の門へ向かう前に、少しずつ情報を集め、日常を取り戻す必要がある。
窓の外では、夏の気配を帯びた風が西宮の街を静かに吹き抜けていた。




