第18話 西宮の静かな夜
第二階層からの帰還は、想像していたよりずっと静かなものだった。
神戸港の規制区域を抜けた頃には、空はすっかり夜になっていた。
海風にはまだ潮と焦げた魔力の匂いが混じっている。
だが、少なくとも《アビス・イーター》の咆哮はもう聞こえなかった。
県警の臨時車両で西宮へ戻る途中、車内には重い疲労感が漂っていた。
運転席の美咲は無言でハンドルを握り、助手席のあやめはタブレットを抱えたまま半分眠りかけている。
後部座席では、黒田が珍しく静かだった。
「……さすがに今日は喋る元気もないか」
修司が小さく言うと、黒田は目を閉じたまま答えた。
「いや、喋ると現実だって認めることになるからな」
その言葉に、誰も笑えなかった。
数時間前まで、彼らは海底の異世界で巨大怪物と戦っていたのだ。
西宮北口駅前に着いたのは、午後十時を回った頃だった。
普段なら居酒屋帰りのサラリーマンや学生で賑わう時間帯だが、今日はどこか空気が違う。
大型ビジョンでは、神戸港の規制に関するニュースが繰り返し流れている。
『政府は本日、関西圏におけるダンジョン災害警戒レベルを引き上げ――』
修司は思わず立ち止まった。
世界は確実に変わり始めている。
それでも駅前のコンビニは普通に営業し、学生たちはスマホを見ながら笑っている。
日常と異常が、薄い膜一枚を隔てて隣り合っていた。
マンションへ戻ると、玲奈が真っ先にキッチンへ向かった。
「座っててください。今日は私がやります」
「大丈夫か? 玲奈も相当疲れてるだろ」
「修司さんの方が危険なことをしてました」
有無を言わせない口調だった。
修司は苦笑しながらソファへ腰を下ろす。
右腕の紋章はまだ微かに熱を持っている。
シャツの袖をめくると、黒い紋様の周囲に青白い細い線が増えていた。
《観測者》が進化しているのかもしれない。
だが今は考えたくなかった。
キッチンから包丁の音が聞こえる。
トントン、トントン。
その規則正しい音が、異世界の戦闘よりずっと現実的で、妙に安心できた。
しばらくして、湯気の立つ雑炊がテーブルに並ぶ。
卵と鶏肉、刻みネギだけのシンプルなものだ。
「深海の後には普通のご飯が一番です」
玲奈が小さく笑う。
修司は一口食べ、思わず息を吐いた。
「……うまい」
温かい。
それだけで、張り詰めていた神経が少し緩む。
玲奈は向かいに座りながら、修司の右腕をちらりと見た。
「痛みますか?」
「少し…痺れる程度だ」
「嘘です」
即答だった。
修司は肩をすくめる。
「半分くらい、嘘だな」
玲奈はため息をつき、そっと修司の右手を両手で包み込んだ。
銀色の光がほんの微かに滲む。
すると、不思議と痺れが和らいでいく。
修司は彼女を見つめた。
「本当に、玲奈の力は何なんだろうな」
玲奈は少し考えてから、困ったように笑った。
「私にも分かりません。でも……修司さんが苦しい時に、私は放っておけないんです」
その言葉は飾り気がなく、だからこそ胸に響いた。
食事を終え、深夜零時を過ぎた頃。
修司はようやくシャワーを浴び、リビングのソファへ戻ってきた。
玲奈はすでに眠っていると思っていたが、彼女は窓際に座り、夜の西宮の街を眺めていた。
「まだ起きてたのか」
「眠れなくて…」
窓の外には、阪急電車の終電が静かに走り去っていく。
平和な夜景だった。
だが修司の頭の中には、《観測者》が最後に示した文字が焼き付いている。
梅田地下・東梅田駅。
玲奈が小さく尋ねた。
「次の門……気になってるんですね」
「すまない、隠せてないか」
「長い付き合いですから」
アノ事件以降だから…本当はまだ一年も経っていない。
それでも彼女は、修司の表情をかなり正確に読むようになっていた。
修司は窓の外を見つめながら言う。
「今回は神戸湾だった。次は梅田の地下だ。もし本当にダンジョンが都市の地下鉄と繋がっていたら、被害は比べものにならない」
玲奈は静かに頷いた。
「怖いです」
「俺も怖い」
正直な言葉だった。
四十五歳にもなって、異世界の怪物と戦う覚悟など最初から持っていたわけではない。
ただ、放っておけなかっただけだ。
玲奈はそっと身体を密着して、修司の肩へ頭を預けた。
「でも、一緒なら頑張れます」
修司はその言葉に、すぐには返事をしなかった。
代わりに、彼女の髪にそっと指先を触れる。
疲労と緊張の中で、その温もりだけがやけに鮮明だった。
玲奈がゆっくり顔を上げる。
視線が絡んだまま、時間だけが静かに止まる。
やがて修司は、ほんの少しだけ息を吐いた。
「……お前、ずるいな」
「何がですか」
「こういう時に、逃げ道をなくすところ」
玲奈は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく笑った。
「逃げてほしくないんです」
その言葉のあと、二人の距離は自然に縮まった。
確かめるように触れた唇は、戦場の緊張とはまったく別の熱を持っていた。
言葉よりも先に、互いの存在を受け入れるような時間だった。
その夜、二人はそれ以上多くを語らなかった。
ただ、隣にいることだけを確かめるように、静かに二人の夜を過ごした。
窓の外では、東梅田方面へ続く街の灯りが、遠く静かに瞬いていた。




